2話:オレンジ色の空
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夕方。いつもは夜になってから図書館を出ていたから不思議な気分だ。
マノ湖の中へ沈んでいくように見える太陽。レンガ造りの建物や道。少し大通りから外れると人もいない上に、西日が建物の合間から入ってきて綺麗だ。
綺麗だが、変だ。何かを感じる。嫌な気配だ。
剣を握る。気配は動かない。エリサはかたまる。何が起こっているのか彼女はきっと分かっていない。おれにもどこから気配がするか分からない。
エリサが口から声を出そうとした瞬間と変わらなかったと思う。庶民らしき恰好をした男が剣をおれの腹に突き立てようとしてきた。
さっと避けてみせる。その勢いのまま、男は小刀を振り回す。
鳩尾、胸、首、脇腹。急所を狙いすましてやってくる攻撃。とにかく頑張って防いでみるが、それだけで精一杯だ。攻撃する隙を作れない。
このままでは殺される。確実に。だからといって、下手に動いたら向こうの思うつぼだ。
おそらくは国軍の特殊部隊の人間だろう。暗殺用の部隊があった気がした。学校で習った覚えもなければ、噂程度にそんな部隊があるとしか訊いたことがなかったが。
まあ、暗殺用の部隊があろうがなかろうが、おれに勝ち目はないに決まっている。
担当教官にも、剣術の教官にも、お前は文人の方が向いている、と面と向かって言われるような人間だ。
鍛えてきたとしても、こんな機動性にも技術にも長けた人間にかなう訳がない。
逃げよう。逃げなければ。逃げなければ殺されてしまう。
どうやって。一対一だ。頑張れば逃げ出すことぐらいできる。
考え事をしながら剣をふるっていたことがいけなかったらしい。剣先が右のわき腹をかすめた。腹の痛みがいつもより増す。
気にするな。考えるな。一刻も早く対応をしなければ。でも、どうすればいい。
ふいにエリサが視界の中に入ってきた。ただ驚いたままのエリサは何もせずにかたまったままだ。雷の力が使えるのならば、それで援護してくれればいいのに。
雷。そうだ、感電させてそのまま逃げてしまえばいい。電気に耐性のある人間などいるはずがない。強い力でしびれさせてしまえば、十分な時間稼ぎが可能なはず。
間合いを詰められないようにして一気に距離を開ける。向こうがぴたりとくっついてこなかったのはありがたい。
頭で思い描け、雷の力をまとった剣を。
ほんの数秒のできごとだったと思う。なんとか剣で首を狙った相手の小刀を防ぐ。すぐにばちんと音が鳴って相手が倒れた。思った通りにいったらしい。
エリサに逃げるぞ、と言ってからは、必死だった。うねうねした小さな通りを走り抜けると大通りに出る。
当たり前のことではあるが、人がたくさんいてほっとした。振り返ると息を切らせたエリサがいる。
きっとしばらく相手は動けないだろう。その上、ここにはたくさんの人がいる。へたにおれのことは狙えないはずだ。
「エリサ、大丈夫か?」
「あ、あんたこそ。顔色悪いけど、大丈夫?」
「あ、まあ」
頭が回らない気がするのは気のせいか?
腹もいつもより痛い気がする。
いや、痛いだけではない。なんだか変な感じだ。液体でぐしょぐしょになっていく感じ。
世界が渦巻いている。どういう、こと、だ?
※
何もかも吸い込んでしまいそうなぐらい大きな太陽が、全てを夕焼け色に染めていた。
新緑の匂いがする草原も、その真ん中を突っ切る、でこぼこな石でできた道も、全て太陽と同じ色。
その中で、父さんと母さんと姉さんが手をつないでいた。父さんと母さんの間に姉さん。おれは、三人を父さんの大きな背中越しに見ている。
気がついたら母さんがいなかった。姉さんが持っていたのは一輪のひなげしの花。父さんの背中が少しだけ小さくなった気がした。
しばらくして、おれがうとうとしていたら、姉さんと手をつないでいた。父さんがいたはずの場所で。
少しだけ大きくなったおれがいた。姉さんはさっきまで幼かったのに気がついたら大人になっていた。姉さんの手には二輪のひなげしの花が握られている。
光が瞬いて、姉さんがいなくなった。手には、しおれたひなげしの花が三本。あれほど大きく見えたひなげしの花がどんどん小さくなっていく。
いや、おれの手がどんどん大きくなって手の皮が分厚くなっていっているだけだ。
さっきまで家族で歩いていたのに、辺りには誰もいない。とりあえずひなげしの花をしっかり握って歩いた。何もない夕暮れ道。日も動かない。草原の道は延々と続く。
気がついたら、エリサがおれの手を握っていた。ひなげしの花はエリサの白い帽子に三本飾られている。さっきまでしおれていたのが嘘みたいに美しい。
急に太陽が大きくなった。眩しい。
「リク」
エリサがふいにおれを見て微笑んだ。
「行こう」
返事をしようと思った。声を出せない。エリサが薄れていく。太陽の光が白くなっていく。何もなくなる。
嫌だ。そう思った。でも容赦なく世界は崩れる。三本のひなげしの花だけを残して。
気がついたら目をつむっていたらしい。おそるおそる目を開けると、現れたのは十字架だった。ひなげしの花が三本、十字架の前で咲いている。おれの手には一本のひなげしの花がある。
何かしたくても体は動かない。あそこにもう一本お供えしたいのに。
気がついたらおれは、ひなげしの花になっていた。




