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81.番外編 姫君と黒龍の騎士の事情 後編

 姫君の口添えで王都への立ち入りを許可された優男は、女性なら誰もがうっとりするような艶やかな笑みを浮かべて姫君に礼を言った。それを内心イライラとしながらも、黒龍の騎士は見守る。姫君の様子はいつもと変わらず、相手の顔に見惚れたり頬を染める様子がなかったから許せるものの、何かあれば黒龍はあの調子の良い男を叩き斬るつもりだった。


「ヘルトゥ、何もおもてなしができなくて申し訳ないのですが、どうぞ王都を楽しんでくださいませ」


「ありがとうございます。どうぞ姫君こそ、お元気で」


 黒龍と姫君の関係など何も知らされていないはずなのに、全てを知ったかのような返事が憎たらしい。先ほどの兵士が言っていた通り、目の前のこの優雅な男は、やはりややこしい問題には深入りしないタチなのだ。ある程度のことの推察がついておきながら、あえて傍観するその態度は妙に鼻に付く。


 だがきっとそれは、この吟遊詩人を黒龍が本能的に敵とみなしているからこそそう思うのだということも、男にはよくわかっていた。現に、北の国であれほど賢く立ち回っていた姫君が、この男の言葉の裏側に気づきもしない。いくら逃避行という状況で心が浮き足立っているからと言って、優男の意味深な言葉は看過して良いものでもあるまい。


 さらりと薄紫色の髪をかきあげた男と、不意に目があった。


 あるいは……とその一瞬、黒龍は考える。自分の身がヒトではないのと同様に、この男もまた只人ではないのではあるまいか。派手な服装に美しい声、本当はヒトではなく極楽鳥かもしれない。だがよくよく目を凝らしても、なにも感じられないことを思えばやはり相手はヒトなのである。黒龍はそれでも、目の前の優男がどうも気になって仕方がないのだ。


 そんな騎士の気持ちを知っているかのように、わざとらしく優しげな手つきで、吟遊詩人は姫君に何やら手渡した。紙や布にさえ包まれていないガラスの小瓶には、何が入っているのかとろりとした虹色の液体が詰まっている。


「ほんのお礼です。きっとお役に立ちますよ」


 だが、騎士は直感的に悟る。確実に、ロクでもないものに違いない。

 

 黒龍の騎士は、何があっても姫君にそれを使わせないようにせねばならぬと心に決めた。あえて吟遊詩人を睨みつけてみれば、どこから取り出したのか優男は扇子で口元を覆い隠す。明らかに面白そうな笑みを浮かべていたことに気づき、男はますます腹を立てた。


 あんな愉快犯のような男にもらった薬など、いよいよもって使うわけにはいかない。ところが、実にあっさりとその誓いは破られることになるのだ。





 王都を抜け、日が暮れたのを確認してから、男は本来の姿である黒い龍の姿に戻る。姫君を背に乗せて空を駆ければ、男の故郷である龍の隠れ里はもうすぐだ。


 長らく連絡のなかった男が伴侶となるべき女性を連れて帰ってきたと、里は上を下への大騒ぎである。だから当然のように、その夜の部屋は同じ場所にされていた。妙なことに気を使う、里の者たちの不要な配慮に、男は頭を抱えた。


 しかも寝台は一つだけ。苦行のような部屋を前に、男は固まってしまう。何より、姫君の方こそ何かを期待しているかのような視線をこちらに投げかけてくることについてはどうすれば良いのだ。あげく、姫君はこんなことまで言い出した。


「ヘイロン、あなたの名前は一体何なのです。まさかずっと呼んでいたこの名がただの通り名だったとは知りませんでした」


 長老たちに何か言われたのだろうか、姫君は少しばかり拗ねたような顔でこちらを見上げてくる。薄い夜着から、姫君の体の線がうっすらと見えることに気づき、男は息を呑んだ。


 彼女は知らないのだ。男は痛む頭を押さえながら、ため息をつく。男の通り名は黒龍ヘイロン、男の姿そのままだ。とはいえ他のものも似たり寄ったり。龍族にとっては、名前の交換は求婚だ。しかもそれを女性側から行われるということは特別な意味を持つ。だから未婚の男女の名前は、基本的に本人と両親以外知ることはない。


「龍族の掟というものが……」


「存じておりますわ」


 男の言葉は、あっさりと姫君に遮られる。にっこりと微笑む姫君が、妙に艶かしく見えるのは気のせいか。ふわりとなぜか龍族のように肌を真珠色に一瞬だけ輝かせて、姫君はじりじりと男に近づいていく。


「先ほど龍族の長老の奥様からお伺いいたしました。シンシアからも聞いております。龍族の中では、通り名ではなく真名を相手に伝えることが夫婦になることを意味するのだと。女性の方から男性の真名を尋ねることが何を意味するのかも、存じておりますわ」


 そのままゆっくりと姫君が黒龍に近づいてくる。相手が近づく分だけ後退りしていた男だが、いくら広い部屋とは言えとうとうその背中は部屋の壁にぶちあたった。逃げられないで固まる男にゆっくりと近づくと、姫君は心底嬉しそうに男の頬に手を伸ばす。


 普段では考えられないこの大胆さ。はたと気づいて部屋のテーブルを見てみれば、そこにはすでに空っぽの小瓶が転がっているばかり。一体いつの間に飲み干したのやらわからない。


「もう一度、お伺いしますわ。黒龍ヘイロン、あなたの真名を私に教えてください」


 男は覚悟を決めた。一瞬天を仰ぎ、固く閉じていたまぶたをゆっくりと開ける。夜の闇のように吸い込まれそうな黒い瞳が、姫君の姿を映していた。


「我が名は、深夜シェンイェ。全てを眠りに導く、深い夜を意味します」


「私の深き夜」


 嬉しそうに、姫君がその名を繰り返す。うっとりとした眼差しで、愛しい女性が自分を見上げている。その瞳が濡れたように輝いて見えるのは、ただ薬によるものなのか、はたまた己への愛ゆえと自惚れても良いものか悩ましい。


 愛する女性にまことの名を呼ばれる。それだけで背中がぞくぞくするような快感を覚えた。幼い頃より、ずっと守り続けてきた己の真名。両親以外では、生涯ただ一人の伴侶にしか伝えないその真名に、己の魂がぐるぐると縛られてゆくのがわかる。


 ああなんと心地よいのだろう。無防備な部分を直接愛撫されているかのような気持ちさえ覚えて、ゆっくりと姫君を抱きしめる。初めての口づけにもかかわらず、いきなりその可憐な唇を貪り始めた。少しだけ驚いて、腰のひけた姫君を抑えつける。


 頭の中ではわかっていても、実際に飢えた男の姿を目の当たりにすると驚いてしまったのだろう。息もできぬほど深く口内をまさぐられて、すでに腕の中の姫君は息も絶え絶えだ。そんな姿を見れば見るほど、もっと味わいたくなる。歯列をなぞりあげ、舌を絡みつかせる。そのまま上顎をちろちろとなぞりあげれば、姫君は小さく甘い声をあげた。涙目でこちらを見上げる様が愛おしい。


「ヘイロン?!」


「どうぞ、シェンイェと呼んでください。さあ」


 耳たぶを食みながら、騎士はそう姫君に乞うてみせる。シンシアから教えてもらっていたというが、真名を呼ばれることで興奮が高まるとは聞いていなかったのだろうか。突然積極的になった男を前にして、姫君はあたふたするばかりだ。


 普段は白い、きめの細かい肌が、うっすらと汗ばみ薄い桃色に染まっている。それがたまらなく艶めいてみえて、男は姫君の細い首をきつく吸い上げた。赤く花を散らしたようについた痕を見て、ゆっくりと満足げに微笑む。口づけは首筋から肩へ、肩から鎖骨へとどんどん下に降りてゆく。そしてそれに伴って、姫君の声は甘さを帯び、切なげな顔でこちらを見上げてくるのだ。


 もう真名を相手に教えた以上、歯止めは効かない。今夜は、甘い甘い姫君をすっかり喰らい尽くすことになるだろう。軽々と姫君を抱き上げると、そのしなやかな身体を寝台へと運んでゆく。それなりに経験を積んできたはずなのに、初めての姫君を相手に、手加減できなさそうにもない。そんな愚かな自分に気がつきながらも、男は幸せそうに微笑んだ。





 軽やかな楽の音が聞こえてくる。

 ここは東の国の王都にある花街の一つ。老舗として名高いその店には、すっかりくつろいだ様子の薄紫色の髪をした男の姿が見えた。ころころと鈴の音を鳴らすように、店の美しい女たちが男を取り囲み笑いさざめいている。


 よく見れば誰もが、美姫として名高い女たちばかり。客の指名すら、彼女たちが気に入らなければ断ることさえできる人気ぶりなのだ。そんな女たちが、競うようにこの優雅な男に甘えている。


「わたくし、お話が聞きたいわ」


「あのはりねずみのおはなし、可愛らしくて好きよ」


「あらいやだ、今日は別のおはなしが聞きたいの」


 くすくすと楽しそうにさえずる女たちを、男はただ黙ってゆるりと見守るばかりだ。女たちは皆好き勝手に男にちょっかいを出している。一人は男の髪を高く、複雑に結い上げてみている。また別の女は、男の手に自身と同じ爪紅を塗ることに一生懸命だ。そしてまたある者は、手ずから男に小さな果物を食べさせているのである。


「ふふふ、ああ喧嘩はいけません。それでは今日は、とある国に住む奇妙な天才と、その幼妻の話にいたしましょう。風変わりな男と天真爛漫な少女が出会ったのは……」


 吟遊詩人はその耳に馴染むしっとりとした声で、異国の恋物語を紡ぎ始める。


 さてあの二人は今頃どんな甘い夜を過ごしているだろうか。くすりと口の端に笑みを浮かべながら、男の美しい声は花街の窓を抜けて、王都にまで広がってゆく。


 吟遊詩人の持ち歌の中に、深い夜を思わせるような黒き龍と、東の国のお姫様の恋物語が加わるようになるのは、もう少し先の話である。





ご高覧いただき、ありがとうございます。

番外編「姫君と黒騎士の事情」に登場する吟遊詩人ヘルトゥは、カミユ様の『そしてふたりでワルツを』(http://ncode.syosetu.com/n9614dm/)よりお借りしております。ぜひこちらもご覧になってください。

『ちびワルツ!』(http://ncode.syosetu.com/n3302dy/)もイラストがキュートな小話でオススメです。


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