80.番外編 姫君と黒龍の騎士の事情 前編
姫君は激怒した。必ず、かの邪智暴虐の王を除かねばならぬと決意した。
「それで、なぜそれが駆け落ちにつながるというのです」
心底呆れたように、姫君付きのメイドであるシンシアがため息をついた。懐かしい東の国の城。昔のまま調えられていた主人の部屋は、今の姫君が生活するには少しばかり子どもっぽすぎるきらいもある。それでもなお、懐かしい部屋がこのままであることがこんなにも愛おしいとは。
もう十年近く前に北の国へ向かったというのに、主人のためにそのまま残された部屋は、いかに主人が愛されていたかをうかがい知ることができる。古ぼけたうさぎのぬいぐるみをそっと撫でてみた。
早朝にもかかわらず、部屋の中はもぬけのからである。ぬいぐるみは主人の代わりとでもいうかのように、ちゃっかり寝台を占領していた。もともとこんな時間にも関わらず部屋の様子を伺いに来たのは、城の中庭の妖精たちがシンシアを起こしに来たからだ。龍だ、龍が姫君を攫っていったと大騒ぎをしていたのだからたまらない。
慌てて部屋に来てみれば、やはり妖精たちが言うように部屋の中は静まり返っていて人の気配もない。とはいえあの朴念仁で奥手な黒龍が自ら姫君をさらうとは思えない。むしろさらってくれていれば話は早いのだがと、ひっそりと妖精女王はため息をついた。
正直なところ、北の国で囚われの身の上であった姫君の変化が嬉しくて仕方がない。国のために全てを諦めその身を差し出していたことが嘘のように、行動的になられた主人。その姿に喜びを覚えることは当然だろう。
いつも国の利益のために己を犠牲にして来た姫君。いっそこのまま龍の隠れ里へ行くなり、黒龍が押し倒すなりして既成事実を作ってくれれば良い。
そもそも未婚の男女が一夜を過ごしたとあれば、それは婚前交渉ありとしてみなされる。とやかくいうものもあろうが、子どもを身ごもったとあれば話は早く進むだろうし、それもまた良しだと女の身としては思うのである。
女王はこの騒ぎを隠す気などさらさらなかった。未婚の男女が王の反対を押し切って逃避行という衝撃的な事実を、むしろ積極的に公開していくことで二人の仲を応援するつもりである。
メイド姿の妖精女王は悪戯好きの妖精たちに集合をかける。もともと楽しいことが大好きな彼らだ。こんな面白い話を放っておくわけがない。
多くの人間には見ることのできない妖精の姿。それでもその声はそこかしこで聞くことができるのだ。風の噂という形で広がる姫君の駆け落ちは、今日の正午までには城中の者が知ることになるだろう。
シンシアは、二人の逃走速度と関所までの距離を計算しながら、いつこの話をばら撒き始めるのがちょうど良いか、にんまりと悪い笑みを浮かべつつ、ゆっくりと考えを巡らせるのであった。
一方そのころ、渦中の姫君と黒龍は王都を越える関所にたどり着いていた。王都さえ抜けてしまえば、人目もぐんと減るのだ。龍へ戻った己の背に乗せて逃げるにしても、人目を避けねば意味がない。
なかなか進まぬ手続きに、少しばかり姫君がそわそわしているのがわかる。何としても王城からの使者が来る前に通り抜けてしまわねば。そんな様子を隠そうともしない姫君の隣で、いつもは無表情な顔をした黒龍は、焦りではなく困惑をあらわにしていた。
もともと男としては、この逃避行には反対であったのだ。二人の結婚に反対した東の国の王の気持ちもわからないでもない。ようやっと北の国から解放された娘が帰ってきたのだ、国内の有力な貴族に嫁がせることで手元に置いておきたいという気持ちが芽生えるのも当然だろう。
今までは北の国にいるということで手も足も出せなかった美しい姫君に、貴族の若者から求婚者が殺到することもさほど不思議ではないのだ。
ゆっくり東の国の王の心を解きほぐせば良いと思っていたし、その過程で、己の正体が龍であることを告げるのもまたやぶさかではなかった。
もともと龍の隠れ里を出て、武芸一つで東の国の騎士に取り立てられた身である。家柄を重視される貴族社会では、快く思われないだろうと男は重々承知していた。東の国の王の判断と男の考え、その両方に反発したのが他ならぬ姫君であったのだ。
「そのような分からず屋のお父様など、もう父ではありません! 私のことは死んだものとお思いくださいませ!」
そのまま部屋に閉じこもった姫君を見て、東の国の王は、遅れてきた娘の反抗期に嘆くばかり。やはりこの国の王は、役に立たぬ。北の国もそうであるが、国王になる男が揃いも揃って凡庸なのはヒトの特徴なのではあるまいかと疑いたくもなってくる有様だ。
むしろ姫君の母君と弟君は、北の国の新しい王との友好関係をうまく築き上げた姫君を労い、同じく新しい王と繋がりを持つ自分との婚姻を歓迎してくれていた。もともと東の国の王には王位を息子に譲るように水を差し向けていたらしい。
だからこそもう少し時間をかければ、円満に収まるのではないかと思っていたのだが、姫君はその少しが待てなかったようだ。珍しく怒りをあらわにして頬を染めた美しい姫君の姿を思い出し、黒龍は薄く笑う。東の国の王は獅子を前にしたかのように怯えていたが、自分にとっては毛を逆立てた子猫のようでとても可愛らしいものだった。
「もう我慢なりません。今日という今日は、堪忍袋の緒が切れましたわ!」
そう言って決行されたこの駆け落ちもどき。長き時を生きる龍にとっては、ほんの少し待てば良いだけに思われる。もともと姫君に自分の思いを伝えることなど予想もしていなかったのだから、こうやって共に過ごせるだけで幸せなのだ。
己と共に暮らすことを選んだ以上、時間はたっぷりある。ヒトよりも遥かに長い時を生きることになるのだ。短い時しか過ごすことのできない肉親との時間を大切にしてほしいと、つい男は説教くさく思ってしまう。口下手でうまく伝えられないがゆえに、こうやって逃避行に引きずられることになっているのだが。
男が自嘲気味にため息をついたその時だ。目の前で小競り合いが始まった。興奮した様子の兵士とは裏腹に、相対する男の声音はうっとりとするほど美しく、そして柔らかだ。
「困りましたね。私はただ、久しぶりに王都へ行きたいだけなのです」
「ですから、何度も申し上げております通り、あなたに関しては公序良俗に違反するということで、王都への立ち入りが禁止されているのです。東の国への入国禁止処分でないだけましだと思っていただきたい」
「一体どなたのご命令なのでしょうか」
「ですから! それは!」
王都への立ち入りを禁止されるとは相当だ。公序良俗に違反するとは一体何をやらかしたというのだろう。
ちらりと見えた男は、整った顔をしている。目立つような武器は持っておらず、荷物も相当に少ない。ということは、相当に羽振りの良い身分か、その身一つで日銭を稼ぐことができる職なのだろう。
兵士の方が強く出ているということは、高い身分ではないのだろう。ならば吟遊詩人あたりか? まあいずれにせよ、火種とは関わり合いになるまいと判断したのもつかの間、まさかの姫君が直接声をかけた。
男の顔を見た姫君は、一瞬で懐かしいと言わんばかりに顔をほころばせる。
「まあヘルトゥ!」
「お久しぶりです。リーファ様」
姫君と旧知の仲であるということは、どうやらもとはやんごとなき身分であるらしい。権力争いに敗れたが、はたまた表には出せぬ事情があるのか。
けれど何より男としては、目の前の優男が姫君に馴れ馴れしいことが一番気にくわない。声をかけられてもちっとも驚かないところを見ても、相手は早くからリーファに気がついていたに違いないのだ。
挨拶がわりに姫の手に軽い口づけを落とす優男を見て、黒龍はいつか殺すと舌打ちする。自分は龍の掟に縛られて、名前の交換さえも行なっていないというのに。
互いの名前を呼び合う二人を見る間に、殺気がダダ漏れになっていたらしい。関所の人間がみな青い顔でカタカタと小さく震えている。
「一体どうしたというのです」
「ええ、どうやら公序良俗に違反するとやらで、王都に入ることができないそうなのです」
「それはおかしなこともあるもの。お待ちになってくださいませ」
姫君は関所の人間に掛け合うことにしたようだ。目立ちたくないと言っていた割にあっさりと身分を明かして交渉を始める主人を見て、男はため息が出る。そのまま近くにいた、先ほど押し問答をしていた兵士に話を振った。
「ところで、あの者はなぜ立ち入りが禁止に?」
「はっ、かの者はいくつか騒ぎを起こしておりまして……。例えば一見さんお断りの某高級遊郭での騒ぎが有名でしょうか。普段は滅多に客を取らない一番人気の妓女だけでなく、幾人もの妓女に気に入られ、彼女たちに爪紅を塗られながらくつろいでいたところ、それをやっかんだとある貴族たちが、遊郭で魔法をぶっ放して暴れるという騒ぎを引き起こしました」
「それは、あの者の責というよりも、相手の八つ当たりだな」
「ええ、まあそうなのですが……」
なんとも歯切れの悪い返事をする相手に、黒龍は続きを促す。
「それから、平民ながら美人母娘と名高い二人の女性とその……部屋で同衾しているのをとある貴族が見咎めまして……。何をしてもなびかなかった母娘がその男に頼っている様子が許せなかったとかそうでして、くだんの貴族が興奮しすぎたために脳溢血を起こし、余計に事態がややこしくなったのですが……」
「それもまた自業自得というか。それにしても先ほどから妙に詳しいな」
「ええ、『深入りしない』、『ややこしいことはお断り』がモットーの男に、本気で腹を立てた祖父が愚かだったのです。そして楼閣で一方的に嫉妬した従兄弟たちは、本当にバカなことをしてくれたものですよ。おかげで俺はこんなところに飛ばされる羽目に……。わが一族はもうおしまいです。うっ、うっ、うわああああん」
「そんな男、王都に入らせて良かったのか?……」
「ですからこちらは何度も! うっうっうっ……。またそのうち何か騒ぎが起こりますよ……」
号泣する兵士の背中をさすりながら、黒龍の騎士はそっとため息をついた。
ご高覧いただき、ありがとうございます。
番外編「姫君と黒騎士の事情」に登場する吟遊詩人ヘルトゥは、カミユ様の『そしてふたりでワルツを』(http://ncode.syosetu.com/n9614dm/)よりお借りしております。ぜひこちらもご覧になってください。
『ちびワルツ!』(http://ncode.syosetu.com/n3302dy/)もイラストがキュートな小話でオススメです。