79.番外編 森のおうちの朝ごはん
柔らかな朝の光が部屋を満たしている。優しげな声でおしゃべりを楽しむ小鳥たちに声をかけられたような気がして、寝返りをうった。昨日は少し遅くまで根をつめて書き物をしたせいか、少しばかり朝寝坊をしてしまったらしい。寝台で小さく伸びをして、ゆっくりと目を開ける。
台所からは少し離れている寝室のこの部屋にまで、ふんわりと食欲を誘う香りが漂ってきた。耳をすませてみれば、とんとんと軽やかな包丁の音も聞こえてくる。昨夜の残りを温め直すだけではなく、何か新しく作ってくれているらしい。かたくなに自分との約束を守るその姿が妙に可愛らしくて、少しばかり笑みがこぼれる。
まさかここまで料理の腕をあげるとは思わなかった。もともと食事に興味のない者が、人の心を動かすような料理を作ることなど難しい。正直なところ、すぐに弱音をはいて出ていくと思ったのだ。自分のことながら、あのときの台詞を思い出してみても苦笑いするしかない。
共に住みたいというのなら、自分が寝ている間に朝餉の準備くらいやってみろなんて、今時そんな亭主関白なことを言う男などいないに違いない。そもそもそんなことを言う者に、嫁のなり手などいるはずがないのだ。それで帰ってくれるかと思いきや、嬉しそうに乙女のように頬を染めて家に上がり込んできたのには、肝を潰した。
あげくのはてに、毎日朝からいそいそと料理に励む始末。どうやら花嫁修行のつもりらしい。そのまま押しかけ女房よろしく、家に居座られてしまった。どういうことかと聞いてみれば、異なる世界からこちらへ来た導引の魔女に助言をもらったというのだ。
まずは胃袋を掴めと言われたのだと、どこか誇らしげに語る姿は少々滑稽だ。見るものをうっとりとさせる美貌と、王者のような威厳をたたえながら、かわいらしい桃色のフリルの新妻仕様のエプロンをつけているなんて、もはや狙ってやっているとしか思えない。しかも長い髪は、料理の邪魔にならぬようにと、高い位置で一つに結う始末。一体どんな顔をして買ってきたのか、まったく想像ができない。
思ったよりも長い時間がたっていたらしい。ぱたぱたと廊下を走る音がする。廊下は走るなと、一体何度言えばわかるのか。ため息をつきながら、急いで服を着替える。ぼんやりしているとまた着替えの途中で部屋にとびこまれることになるに違いないのだ。部屋の扉が、ノックもなく無遠慮に開けられる。
「朝餉の支度ができたぞ、ローズ」
何度聞いても似合わぬ台詞に、とうとうたまらず予言の魔女はくつくつと笑いだした。どうして笑われるのかわからぬと言いたげなハイエルフだけが、不思議そうに彼女を見ていた。小首を傾げると、馬の尾のような髪がさらりと揺れる。豪奢な衣装は自前のものらしい。
「せめて、おたまは置いてきてくれないかい」
どの世界に、可愛らしい桃色のフリルのエプロンをはためかせ、おたまを標準装備した世界樹の守り手がいるというのだ。何度見ても違和感しかないその姿に、ついつい予言の魔女の表情は柔らかくなる。あげくに口の端には、味見をした時についたとみえるいわゆる「お弁当」がついているではないか。思わず予言の魔女はそっと手を伸ばし、その「お弁当」を取り除いてやる。こんな朝の目覚めもまた悪くはない。そう彼女は思うのだ。
今日はアップルパイを作ろうか。温かい季節には作りづらいパイだけれど、魔女にかかればお手の物。きっとほっぺたが落ちるような出来になるだろう。なんと言っても、二人で作れば、一人よりもきっとたくさん、温かい気持ちを織り込むことができるに違いないのだ。
朝餉はしっかりハイエルフが作ってくれている。美味しいお茶は自分がいれることにしよう。こんがり焼いたパンに添えられた苺ジャムには、どんな紅茶があうだろうかと魔女は考えながら、ゆっくりと部屋を出た。神出鬼没な魔女の薔薇園のおうちは、今はあの深い森のすぐそばに居を構えている。
ハイエルフは、今日も朝から料理を作る。誰かのためにこうやって何かを作るなんてどれくらいぶりだろうか。紅薔薇と住んでいた時、確かに少しばかりお茶や果物を楽しんだことはある。けれど薔薇の精とハイエルフでは、人間が好むような普通の食事というものが必要なかったのだ。おままごとのような世界はどこまでも甘く優しかった。
予言の魔女と出会ってから、こうやって何かを作り、味わうことを知ったような気がする。魔女が使うお茶を入れる器を作ったのだって初めてだった。誰かのために何かを作る喜びを与えてくれたのは予言の魔女なのだ。きっと彼女に出会わなければ、あの東国の姫君を守ることもなかったに違いない。
今まで惰性で生きてきた自分が、彼女と共に花を育てる。育てた花や実から、今度は茶葉やジャムを作る。そしてその茶葉でお茶を入れ、きつね色に焼いたパンにジャムを添えた朝餉を作る。温かいスープも付けて彼女に差し出せば、彼女はいつも花がほころぶように笑ってくれるのだ。そのたまに見せてくれる優しい微笑みが見たくて、ハイエルフがこんなとんちんかんな格好をしていることなんて、彼女はちっとも想像もしていないに違いない。
最初の一言が原因だとはいえ、ハイエルフに向けられる魔女の表情はいつ見ても渋いものだった。悲しそうであったり、やりきれなさそうであったり、そして憎々しげにこちらを見ていたりする。初めは大切な記憶と同じ顔をした彼女に、そんな嫌悪の表情を向けられることがとても辛かった。そしてゆっくりと気がつくのだ。目の前の彼女に笑ってほしいという気持ちが、そんな感傷が原因ではないことに。
けれど、何と説明して良いかわからなかった。同じ魂の、異なる運命の女性にまた恋に落ちたなんて、誰が信じられるだろう。自分だって信じられなかった。ずっと紅薔薇を待ち続けて生きていたというのに、自分はそんなに軽薄な男だったのか。だからこそ頑なに予言の魔女の名前を呼ぶことを拒んだ。自分一人だけでも、紅薔薇のことを忘れてはいけないと思っていたから。
その考えを改められたのは、導引の魔女のおかげだ。彼女の言葉がなければ、いま自分が見つめている相手が誰だかもわからなかったに違いない。砂糖もミルクも多めの、濃く煮出したミルクティー。魔女好みのの紅茶の美味しさの意味にだって気づかなかっただろう。
姿を変える幻術が未だに有効だと思っている予言の魔女の姿を思い出して、男は密かに笑う。
男が戯れに予言の魔女の姿を褒めたときから、先代の予言の魔女の姿を真似て老婆の姿をするようになった意地っ張りな彼女。けれど彼女は知らないのだ、人間には有効なその術が中の界の者には、ぼんやりとしか効かぬことに。だから偏屈な老婆を気取った彼女が愚痴をこぼしてみせても、その中心にはいつだって素直な彼女が見えている。だからどの仕草もたまらなく可愛らしいと言ったなら彼女はどうするだろう。
騙したと言って怒るだろうか。羞恥のあまり部屋に閉じこもるだろうか。涙目で頬を染めてくれたら最高に可愛いのにと思いながら、今日も男は素知らぬ顔で朝餉を作る。
二人で一緒に食事をすると、こんなに心が温かくなるなんて知らなかった。予言の魔女にも寿命はあるのだろうか。永遠とも言える時を生きる自分が、また彼女を見送ることになるのだろうか。それでもきっと自分はまた同じ魂と恋に落ちるに違いない。たとえ姿形が変わったとしても、自分には彼女が、そして彼女たちがわかる。これからも生を繰り返すというのなら、自分はその全てを受け入れて愛していくだけだ。
絡みつく縁で、彼女と自分が離れることのないようにきつくきつく結ばれていたい。そんなことはつゆともにおわせず、男はにっこりと微笑んで食事の前にこの世界の神に祈りを捧げた。