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75.番外編 カイル王子のツイてない一日

「何か言いたいことはあるか? 遺言だけは聞いてやろう」


 冴え冴えとした騎士団長の眼差しが、カイル王子を見据える。幾人もの敵を屠って来た剣が、己の首筋にぴたりと狙いを定めていた。ああ短い人生だった。涙目でその鈍色の輝きを見つめながら、カイル王子はこうなったきっかけを思い出していた。


 そもそも今日は、朝からツイていなかった。珍しく騎士団長が起こしに来る前に目覚めたカイル王子は、これ幸いとばかりに部屋を抜け出した。あっさりと早朝トレーニングをサボるべく、場内をふらふら動き回る。


 と、そこで困り顔の侍女に出会ったのだ。まだ城に上がったばかりらしい、見習い感あふれる少女。垢抜けない少女は、緊張でか顔を真っ青にしていた。小さく小刻みに震える様子が、雨の日に捨てられた子犬のようで気の毒である。


 おそらく、身分高き貴人を起こしに来たに違いない。カイル王子とて朝は弱いが、とりたてて八つ当たりなどしない。せいぜいむにゃむにゃ泣き言を言うくらいだ。けれど世の中には、恐ろしいほどに寝起きの悪い人間が存在するのだ。そう、例えば……、元聖女のような。


 元聖女とて悪い人間ではないのだ。いや、口は死ぬほど悪いのであるが。だが、城に上がる侍女たちはそれなりに良い家庭の子女たちである。村育ちの元聖女の寝起きの迫力には、敵うまい。しかも女だてらに、戦にも付き従ったことのある人間だ。その迫力は折り紙つきであった。


 そして認めたくないながら、その実根がお人好しのカイル王子には、見習い侍女を見捨てるという選択肢はなかった。その結果が、頬を彩る美しい紅葉である。淑女に夜這いをかけた変態として、罵詈雑言を浴びることになった。


「っ、いってえ……」


 カイル王子はむっすりと顔をしかめたまま、頬を撫でつつ食事を取っていた。もともと朝はあまり食べる方ではないが、今日はトレーニングをサボったこともあり、さらに食欲はない。何より思った以上にクリティカルヒットした元聖女の手のひらは、物理以上に城内の噂として精神的にカイル王子を潰しにきた。


「隣、良いだろうか」


 耳に心地よい低めの声で問われ、カイル王子はぼんやりと応じる。数秒遅れて声の主に気がついたが、時すでに遅し。ガッチリとホールドされたカイル王子の目の前に置かれるのは、並々と牛乳が注がれたビールジョッキに、野菜たっぷりのミネストローネ。しかも大嫌いなトマトとピーマンときのこ入りだ。こみ上げる吐き気を抑えていると、優しく耳元で囁かれる。


「トレーニング、サボってはダメだろう? それからいくら下半身が元気だからとはいえ、城内で夜這いは禁止だ」


「誰があんなちんちくりんに欲情するか!」


「よし、黙ってこれも食え」


 目の前にミニトマトのサラダを追加されて、カイル王子は白目を剥く。以前のように元聖女を溺愛することはないが、それでもやはり亡き妹を思い出すのか、はたまた敬愛する国王陛下の侍女という立場にあるためか、何くれとなく騎士団長は元聖女に心を砕く。その一万分の一でいいから、思いやりを俺にも分けて欲しいと思いながら、気の毒なカイル王子の朝食は終わる。


 執務室にて、大量の書類が山積みにされている。ある程度、官吏の下読みをしたあげくまだこれだけの量が残っているのだ。うんざりとした気分で目を通していくうちに、東国からの書簡に気づく。どうやら結婚式の招待状らしい。ちっとも愛を伝えることができなかった愛しい姫君のことを、いつになくセンチメンタルな気持ちで思い出しながら隣を見れば、なぜか騎士団長が王太后に語りかけている。


「……陛下、今日こそお伝えしたいことが……」


「……ならぬ」


 本当になぜ騎士団長はこんなにしょっちゅう執務室に出入りしているのだろう? 大体イチャつくなら、他所でやればいいものを。ため息をつきながら反対を見れば、ジュムラー(小)が元聖女にシロツメクサで作った指輪を渡している。


「これねえ、おべんきょうした まほうを かけたの! だからね、ずっと かれないんだよ」


「あら、そうなの。とっても素敵ね」


「ぼくが おおきくなったら、すてきな ゆびわを あげるからね。それまで これが かわりだよ」


 こっちはこっちで、歯が浮きそうなぐらいピュアなセリフで、子どもが愛の告白をしている。なぜここにジュムラー(小)が入り込んでいるのに、誰も注意しないのか。発言権のないカイル王子は、なすすべもなく血の涙を流すだけである。ただならぬ甘ったるい雰囲気に、頭と歯と胃が痛くなるような思いがした。


 ようやっと訪れた終業の時。疲れ果てたカイル王子は、思わずドアへ向かって走る。今日こそ、付き合いという名の残業(飲み)に行かずに帰るのだ! とその時、つるりとカイル王子はひっくり返った。なぜだ、なぜこんなところにバナナの皮が落ちているのだ。執務室に落ちているはずのないバナナの皮を踏み、美しく華麗にカイル王子はひっくり返る。


 衝撃を覚悟したが、痛みは訪れない。それにしても自分の顔の周りにある柔らかな物体はなんだ? ふわふわとしたかすかな二つの膨らみ。まだまだ育ちかけのそれの持ち主を思い出し、へらりとカイル王子は笑った。


「メロンほどでなくてもいいから、桃やレモンくらいはいるよなあ。これじゃああるのかないのかわかんない……」


 みなまで言う前に、カイル王子の前髪が凍った。元聖女の後ろで、純粋培養されたはずの美幼児が蔑んだ目でカイル王子を見ている。明らかにカイル王子を敵として認識している。


 慌てて回れ右をしようとして、足がもつれる。そのまま倒れこんだその先には、美しい麗人が珍しく驚いた顔をしていた。柔らかな桃色の頬が少しばかり己の唇をかすめる。それに気づいた瞬間、カイル王子は騎士団長に胸ぐらを掴まれていた。


 遠い目で人生を振り返るカイル王子。彼の命を救ったのは、図らずも二人の女性だった。


「いいのよ、犬が何を吠えても仕方ないことでしょう?」


「そうだ、犬に多少顔を舐められたくらい気にすることはない」


 命拾いしたはずなのに全くもって嬉しくないカイル王子は、政略結婚でもなんでも良いのでココから遠い場所にお婿に行きたいと涙ながらに願うのであった。

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