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7.方向音痴なあたしと薔薇園の魔女 中編

 おばあちゃんが連れてきてくれたのは、見上げるほどに大きなガラス張りの温室だった。

 こんな大きな温室に、どうしてさっきまで気づかなかったんだろう? 灯台下暗しってヤツかな?

 思わず足を止めるあたしを尻目に、おばあちゃんはさっさと中に入ってしまったので、あたしは慌てて後ろ姿を追いかけた。


 温室の中は外の気温が嘘のように、暖かく保たれている。

 温室というと、あたしには植物園の亜熱帯館のようなむあっと蒸し暑いイメージしかなかったのだけれど、この中はそんなこともなく、まるで春の陽気の中にいるかのように心地よかった。寝ていいよなんて言われちゃったら、ありがたくお昼寝できそう。


「まずはその足をどうにかしようか」


 おばあちゃんは、たっぷりとお湯の入った木桶をどこからか運んできた。おばあちゃん、一体いつの間に?! 仕事早すぎです。


 あわわわ、それに、あんな腰の曲がったおばあちゃんに重たいものをもたせたら、転倒して骨折しちゃうよ!

 あたしはさっと駆け寄ると、木桶を取り上げる。

 何これ、重すぎるっ。

 がっくんと、あたしは前に倒れこみそうになる。危なかった……。


「ほうら、いわんこっちゃない。こういうのにはね、コツってもんがあるんだよ。ほら、貸してごらん」


 おばあちゃんはあたしから木桶を受け取ると、さっさと運んで行ってしまった。

 神様! いくらあたしに筋力がないからと言って、あんなおばあちゃんに負けるのはあんまりではありませんか?!


 あたふたと追いかけると、おばあちゃんは温室には似つかわしくない豪華なソファーの前に木桶を置いた。

 ロココ調の猫脚のカウチソファー。フレームは滑らかな木製でなだらかな曲線が美しい。落ち着いたモスグリーンの布地は、肌に吸い付くように柔らかだった。

 こんなソファー、テレビの高級ホテルアフタヌーンティー特集でしかみたことないです。恐れ多くて座れない……。


 おばあちゃんはというと、どっさり薔薇が入ったかごを木桶の横においていた。そして薔薇の花びらを、おしげもなく木桶の中に入れる。


「そ、そんなお花がもったいないです!」


 あたしが止めると、おばあちゃんは笑いながら私にも薔薇の花を渡してきた。


「よく見てごらん、この花はちょっと小ぶりだろう? こっちは端が少ししおれてきているのがわかるかい?  花っていうのは、綺麗にみせるために摘花っていう作業が必要なのさ。要するに間引きだね。うまく間引いてあげないと、綺麗な花は咲かないんだよ。摘み取られた花も、そのまま捨てられるよりこうやって使われる方が、しあわせってもんさ」


 えっと……、つまりこのミニ薔薇風呂は、あの綺麗な薔薇園の副産物というわけか。何かおばあちゃんのおもてなしが、思った以上に至れり尽くせりで、小心者には心臓に悪いです。そ、それじゃあお言葉に甘えちゃっていいのかな?

 ありがたく、ふかふかソファーに座らせていただいてっと。いざ、足を入れちゃいます!


「ふわああ、たまらん! くうう、あったまるうう」


 ガード下の赤提灯で、熱燗を引っ掛ける親父みたいな声が出ちゃったけど、これでもあたし二十代の乙女です、念のため。

 ちょっと熱いくらいのお湯が、ひざ下までたっぷり入っているから、冷え切った足先から一気に体が温まっていく。

 惜しげもなく入れられた薔薇の香りもたっぷりで、ちょっとお姫さま気分だ。


 足を洗いながら、うっとりしている私に、おばあちゃんはふかふかのタオルと小さなガラス瓶を渡してくれた。


「足を拭いたら、この香油を塗り込んでおくといい」


 おばあちゃん、さすが女心をわかってらっしゃる!

 瓶の蓋をあけると、足元の薔薇風呂とは比べものにならないくらい濃密な香りが溢れてきた。


 これはすごい! な、なんて贅沢なのかしら……。でもあまりに高級過ぎて、貧乏性のあたしはちょっとドキドキしてしまう。

 薔薇の香りといえば、会社では某フランスメーカーのハンドクリーム使ってるけど、自宅ではドラッグストアの尿素入りハンドクリーム使ってるくらいだし。



「いいから使っときな。別に売りつけようってんじゃないんだから。こういう時は、子どもは甘えるもんさ。ほら、あたしゃ靴を探しに行ってくるから。そこのテーブルのアップルパイと紅茶は好きに食べてていいから」


 おばあちゃんは言うだけ言うと、またどこかへ行ってしまった。


 ちらりと目の前の猫脚テーブルを見てみる。ソファーと揃いで作られたのであろう猫脚の木製のテーブル。よく磨きこまれていて、覗き込んだあたしの顔がうつりそうなくらいだ。


 テーブルの上には、ほかほかと湯気を立てる紅茶の入ったティーカップ、可愛らしいお揃いのティーポット、そしてお日様色をした美味しそうなアップルパイが、それぞれ二人分鎮座していた。

 おばあちゃん、あたしもうあなたに足を向けて寝られません。


 おばあちゃんのアップルパイは、きらきらと輝いていて、早く食べてと言わんばかりだ。考えて見ると今のあたしは胃の中が空っぽだから、紅茶もアップルパイも本当に魅力的だ。気持ち悪いのが治ったら、すぐに空腹を感じるなんて、なんてげんきんな体なのかしら。


 けれど食べる前には、ちゃんとおばあちゃんに一言言いたかったし、社会人としての矜持が、一人で先に食べ始めることを良しとしなかった。

 おばあちゃんが来るまで待っていよう。そもそもあたしのために、靴を探しに行ってくれてるんだし。


「おやまあ、先にお食べと言っておいたのに」


 片手に小さな包みを持って、温室の奥からおばあちゃんが帰ってきた。

 ってか、この温室。温室とは思えないくらいに何でもあるんですね!

 おばあちゃんは手つかずのアップルパイを見て、やれやれと肩をすくめた。


「すみません。でもせっかくのアップルパイは、みんなで食べた方がもっとおいしくなるから」


 つい靴のお礼の前に、アップルパイの話をしてしまった。子どもだと思われてるからいいようなものを、これはもう本当に恥ずかしい。あたしには、食い意地しかないのか?!

 そんなあたしの言葉に、思いがけず、おばあちゃんは気を良くしたようにうなずいた。

 そのままテーブルを挟んであたしの目の前のソファーに腰掛ける。


「まあ、いい心がけさね。ほらあんたにあげる靴も持ってきたよ。けどその話は後からだね。せっかくの紅茶が冷めちまう。ほら、おあがり」


 おばあちゃんに再度勧められ、今回はありがたく頂戴することにした。


 ティーカップを持ち上げ、そっと口をつける。

 上品な味わい、そしてこの香りは……。


「ローズティーだ……。これももしかして……」

「ご名答。そのお茶もあたしが作ったのさ。気に入ったかい?」


 気に入ったなんてものじゃない。この紅茶はすごい。一口飲むごとに高ぶっていた神経が穏やかになるのを感じる。

 アロマセラピーなんて興味なかったけど、ちょっと勉強してみたいな。まあ無事に日本に帰れたらの話だけどね。


 そしていよいよお待ちかね、アップルパイのお出ましだ!

 香ばしいバターの香りと甘く芳醇なりんごの香りが、あたしを呼んでいる。

 ゆっくりとフォークを突き刺すと、サクサクと軽やかな音を立ててパイの中身が姿を現した。中から見える黄金色のりんごは、きらきらと光を反射してまるで琥珀のようだ。


 ゆっくりと口に入れると、ほろほろとアップルパイは口の中でとろけていった。

 甘い甘いアップルパイは、定番のシナモンやレーズンも入っていない、もちろんたまに見かけるカスタードクリームなんてのも入っていない、りんごだけのいたってシンプルなものだ。


 パイ生地だって世間にはもっとバターリッチなタイプがあることをあたしは知っている。

 それなのに、このアップルパイはどうしてこんなに美味しいんだろう。

 あまりの衝撃にあたしは言葉を失っていた。


「そんなにおいしそうに食べてもらえたら、あたしもうれしいってもんだよ」


 おばあちゃんは頬杖をつきながら、あたしを見ていた。

 あたしはおばあちゃんに返事をすることも忘れて、黙々とアップルパイに集中していた。


「ところであんた、一体どこから来たんだい? この世界の理から外れたお嬢ちゃん」


 いきなりの確信をついた質問に、盛大にアップルパイを喉に詰まらせた。ちょっとパイ屑が飛び散っちゃったけど、今回に限ってはあたしは悪くないと思う。

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