67.方向音痴なあたしと紅薔薇と森の待ち人 後編
ジュムラー(小)とマフラーにゃんこをとりあえず寝台の上に座らせた。あらメープルちゃん、おはよう。さっきの騒ぎでようやく目が覚めたかな? もっちゃりと絡んだ髪と、腫ぼったい瞼が、未だ視点の定まらぬままシーツをかぶった姿は妙に子どもじみていてあたしはおかしくなる。時を止めたままの美少女と、老婆と美女の間を行き来する予言の魔女。二人の違いは、いったいどこにあるというのかしら。そのままあたしはハイエルフ様を振り返る。
「予言の魔女の本当のお姿はどちらなのですか?」
何が嫌だったのか、端正な顔をしかめてハイエルフ様はため息をついた。手持ち無沙汰なのか、紅薔薇の雫を掌の中で弄ぶ。そのまま長い髪をかきあげた。どこか疲れたようなその仕草が妙に色っぽい。この世界の男の人は、好きな女の人が近くにいなければ格好良いんだけどな。欲望に忠実というか、口を開けば馬鹿なことしか言わないもんだから嫌になる。観賞用に黙って座っていれば良いものを、自分の欲望全開のまま相手にぶつかって行くから話がややこしくなるのだ。
「容姿はどちらも本物と言えるかもしれぬ。あの美しい姿は、我と初めて出会った時の紅薔薇のものだ。老女の姿は、紅薔薇をもともと生み出した先代の魔女のもの。先代の魔力が薔薇の花に注がれて、紅薔薇が生まれたのだ。その姿を己が身に写しめて身にまとうこともできよう。我にあの容姿を褒められるのがよほど嫌だったのか、ある日老女の姿に変えたのだ。捻くれ者め、あの時の魔女は何やら勝ち誇った顔をしていたぞ」
なるほど。予言の魔女は、思いっきり牽制球を投げてきたわけだ。お前の好きな女は、雪の肌をした黒髪の乙女だろう。皺くちゃの老婆になど、興味はあるまい。早う去ね! きっと烈火のように怒りながら、あわよくば先ほどの鏡を破裂させたような刺々しさで、薔薇園の魔女はしつこい男を追い返したに違いない。魔女は捻くれてなんかいない。可愛らしい紅薔薇が、頑なな老婆に姿を変えたのはひとえにこのお馬鹿さんのせいである。
けれど、とあたしは思うのだ。紅薔薇と呼びかけた時に激昂した予言の魔女。あれだけの怒りを見せつけられれば、単に嫌われているだけなのだからもはや諦めよとハイエルフ様には言えないだろう。聖人として認定されたとあるお方も言っていたではないか。愛の反対は無関心であると。憎しみや怒りもまた、愛の一つだと考えるならば、腹が立つことに彼女の心の大きな部分を目の前の男は占めてはいやしないか。
あたしは考える。目算があると言ってはいけないのだ。そうすればきっと目の前の男は驕り、考えることを放棄する。今でも危うい均衡で保たれているに過ぎない二人の関係は、いつ破綻してもおかしくない。予言の魔女に愛想を尽かされるのは、時間の問題なのだ。このヒトの心を理解しない男を、気が遠くなるほど長い間突き放さずに相手をしていた予言の魔女の優しさを想う。
もっと良い男、探せば他にもいっぱいいるだろうに、なんでこれなのというのが正直あたしの気持ち。自分ならこんな面倒な物件は絶対に御免被る。元カノの話をいちいち持ち出してくる男なんて糞食らえです。女は基本的に上書き保存して生きる生き物。いちいち名前をつけて、思い出を保存する男とはきっと相容れない。そんなどうしようもない男なのに、どうして見捨てられないのか。一目惚れか情か、それこそこの目の前の男の言うこところの魂の繋がりなのかはさっぱりわからない。わかるのはただ一つ、長年にわたってこじれた他人の恋話は面倒くさいということだけ。
ちらりとジュムラー(小)の首でマフラーとして巻かれる銀色の猫を見る。あたしのせいで艶やかな毛並みを荒れさせてしまった幻獣。捻くれ者で口が悪くて、いつも嫌味ばかりで、独占欲の塊のくっつき虫。ハイエルフ様をチラ見して、あたしはため息をつく。やっぱり天に唾するのは止めておこう。蓼食う虫も好き好き。あれであたしはシュワイヤーのことが結構……いやかなり好みなのだから救いようがない。ダメンズ製造機と言われたあたしの恋愛遍歴は、きっと伊達ではないのだ。だからきっと他人様の男の趣味など、口を挟むべきではない。うまくまとまってくれればそれが一番だ。
あの始まりの童話のように、愛しき人の名を尋ねることから始めてさえいれば、あるいは「おかえり」ではなく「初めまして」で出会いが始まっていたならば、もっとより良い形の未来があったのではないかと思うのは、あたしが恋愛物の漫画を読みすぎたせいだろうか。けれどもし時間を巻き戻すことができたとしても、ハイエルフ様はそれを望まないのではないかと思う。だってきっと、今彼の心にあるのはあの純真無垢な何も知らない紅薔薇なのではなくて、どこかちぐはぐな予言の魔女のことなのだから。
電車の中でスカートのファスナーを上げ忘れた女性や、トイレから出てきたばかりでスカートの後ろ側とストッキングを一緒にしまいこんでいる女性にすら思わず声をかけて、教えてしまうあたしである。大半が感謝されるが、小声で教えてもたまに逆ギレされるのだ。今回も面倒なことになるかもしれない。きっとこの男も素直に非を認めることはないだろう。でも言わずにはおれないお節介なのが、あたしなのです。しょうがないじゃない、そういう性格なんだもの。
「薔薇園の魔女の好きなものはご存知ですか」
「砂糖もミルクも多めの濃く煮出したミルクティー。気に入ったカップが薔薇園の屋敷の戸棚にしまわれていて、時間があれば薔薇園で日がな一日お茶を楽しんでいる。機嫌が悪くなければ、ご相伴に預かることもできるのだ。甘味ならば果物を使ったもの、例えばアップルパイは作るのも食べるのも好きだな。昔はよく人に振舞っていたようだが、最近はとんと見かけぬ。そういえば、そなたも口にしたそうではないか。我以外のものにばかり、あやつは優しいのだ。ああ、花ならばやはり紅薔薇だ。夜、月明かりに見る薔薇が一番美しいと言う。一番美しいのはそなた自身だというのに……」
問えば、何を当然といった顔ですらすらと立て板に水で答えられる。嫌われていてもめげずにしょっちゅう行き来があるのか、ハイエルフ様は妙に予言の魔女の好みに詳しい。これ、彼氏や旦那様なら良いけど、一方的に熱を上げた男性として考えると気持ち悪いよね。ストーカー予備軍っていうか、完全にストーカーだよね。まだ何か言っているみたいだけれど、まあこっから先は放置で良いでしょう。延々と続く薔薇園の魔女の好きなもの紹介を、あたしは中断させる。
「では紅薔薇の好きなものは覚えていらっしゃいますか」
「紅薔薇は、薄い紅茶に甘い花の蜜を入れて飲むのが好きだった。夏の間に採れた果物を干したものも好んでいたように思う。あの頃は貧しく、ほんのひと時しか一緒にいれなかったのだから、そう大したものは口にしてはいないのだ」
少しばかり寂しそうな顔でそうつぶやく。朝露に濡れた薔薇が、紅薔薇はお気に入りだったのだと男は笑った。過ごした時間の短さゆえだろうか、ハイエルフ様が語る紅薔薇の思い出はとても少なくて、儚い。だからこそ必死にすがるのだろうか。この淡い思い出がなくならないようにかき集めて、大切に胸の中にしまい込もうとしているのだろうか。
何てお馬鹿さんなんだろう。結局このハイエルフは、森で長いこと想い人のことを待っていたというのに、その間何にも考えていないじゃないの。先代の魔女にもらった時間で、一体何を反省したっていうの。二人の女の好みがまったく違うことなど、とうの昔にわかりきっているんでしょう。だったらあなたが誰を求めているのか、何をしたいのか、本当はどうすれば良いのかなんて、あなたにだってわかっているんでしょう。
あたしは初恋をこじらせたイケメンエルフの面倒くささに、こっそりため息をついた。