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6.方向音痴なあたしと薔薇園の魔女 前編

 こちらに来る前の日本は正月明けの真冬だったが、どうやらこちらの世界も季節は冬らしい。風呂上がりの体から、体温がどんどん奪われていく。


 顔が痛くなるこの寒さ。思い切り息を吸い込めば、あまりの冷たさにげほげほとむせかえる。

 間違いない、今気温はマイナスだわ。雪こそ降ってないけれど、この気温はスキー場並みだ。


 冷たい上に乾燥した風が叩きつけてくるから、化粧水もボディクリームもつけてない肌は、すでにパリッパリのカッサカサだ。唇もひび割れそう。


 しかも、現在あたしは裸足だ。さすがのマッチョも、替えの靴は用意してくれなかったらしい。幸い、芝生の上を歩いているから足を切ることはなさそうだけど、芝生は足の裏にちくちく突き刺さって気持ち悪いし、この寒さのせいで足の感覚はすでにない。とりあえずどこか暖かい隠れ場所を探さなくては。


 あたしはさらに気合を入れて、風呂場のある建物から離れるべく足を早めた。


 こういうとき、方向音痴なのはむしろ都合がいい。普通に考えても行かないようなところに出ちゃうから、追いかけられても見つかりにくいはずだ。

 そういや、あいつら全員頭おかしい組だったなあ……。追いかける方法も普通じゃないのかも……。


「ううううっ、寒いいいい」


 それにしても寒すぎる。

 あたし、きっと今唇が真っ青になってるわ。

 かたかたと歯を震わせながら、あたしは確信する。


 あたしがずんずん歩いてきた場所は、庭園なのだろうか。薔薇が生い茂っていて、冬だというのにたくさんの花が咲き誇っている。ベルベットのように肉厚で、はっとするほど鮮やかな紅い薔薇。冬枯れの景色の中で、ここだけが別世界だ。

 

 あたしは花の知識がないからよくわからないけれど、この薔薇がとても手をかけて育てられているということだけは見て取れた。

 だってこの薔薇の木には、枯れかかった花や葉が一枚もついていないのだ。

 それはつまり、この薔薇を育てている人が毎日どれだけ手をかけているかを示している。


「綺麗……」


 あたしが吐く白い息に、薔薇の花びらがくすぐったそうに揺れる。

 白い息と紅い薔薇がいっそ幻想的だ。


「そりゃあどうも、ありがとう」


 思わずぽつりと声を漏らせば、すかさず合いの手が帰ってきた。

 まさか、もう逃げ出したのがばれたの?! ちょっと早すぎでしょ。


 勢いよく振り返ると、そこには腰の曲がったにこにこ笑顔のおばあちゃんがいた。

 ちんまりまるく、白髪は後ろでお団子にゆわれている。銀縁の丸眼鏡をかけた、昔話にでてきそうないかにも善良なおばあちゃん。


 皺だらけの手で、おばあちゃんは優しく薔薇を撫でている。心なしか、薔薇もなんだか嬉しそうだ。


「あたしゃね、長年この薔薇を世話しているのさ。でもなかなか感想を聞く機会がなくてね。こうやって褒めてもらえるなんて、嬉しいもんだねえ。よかったらこの年寄りの話し相手をしてはくれないかい? どうせあんたもわけありだろう?」


 おばあちゃんは、裸足のあたしを見ながらそう声をかけてくれた。

 ありがたい申し出だけど、ちょっとあたしは躊躇する。


 だって今までの怒涛の展開なのだ。急に一般人が出る訳がない。魔導士に、聖女に、騎士ときたら、おばあちゃんは魔女だったりして……。


 都市伝説みたいな話だが、お偉いさんが世を偲ぶ格好でウロウロしていることはよくある。例えば、大企業の会長さんや社長さんが、掃除のおじさんのようなことをしている会社なんて珍しくない。


 大企業の下っ端社員ほど上の人の顔は知らないし、トイレや自販機の前で、結構気軽に掃除のおじちゃんやおばちゃん相手にいろいろしゃべってしまう。だから、お偉いさんが掃除のおじさんのふりをして、普段は聞けない会社の愚痴とか役付きの人たちの評判を聞いていたりするみたいだ。


 単に、会長になったら暇だったから、掃除を理由に女子社員のところに遊びにくるっていううちのダンディ会長みたいなパターンもあるけど。休憩のときに、ちょいちよい銀座で買ったお菓子を差し入れてくれたりして、人気のあるおじさんだったなあ。元気にやってるかな?


 まあ、そういうわけで、何が言いたいっていうと人を見た目で判断してると思わぬ目にあうってことね。


「今の時代に、魔女なんているわけないじゃないか。ありゃ、何百年も前のおとぎ話さ」


 心底呆れたようにおばあちゃんは鼻を鳴らす。

 まさかのツッコミに、あたしはさっと顔が青くなるのを感じる。


 どうやら疲れ過ぎていて、思わず独り言として声に出していたようだ。何たる失態、営業マン失格だ。

 取引先へのお詫び行脚のように、反射的に頭を下げる。


「す、すみません。あたしったらなんて失礼なことを……」


 はたから見たら滑稽なほど頭を下げる。営業マンが売る商品は特殊な場合を除いて、競合他社に取って代わられる可能性が高い。それを自分から買ってもらえるかは、単に値段の問題ではなく、信頼や人柄によるものが大きい。


 挨拶と笑顔と頭を下げるのはタダだ。いくら異世界でも、営業マンの心は忘れちゃいけない。今回みたいに、お客様待遇じゃないことが、ありありと予想される場合には特に。


「いいってことさ。で、どうするんだい? うちによっていくかい? 今なら焼きたてのアップルパイと温かい紅茶もつくよ。履き古したもので良ければ、靴だって見繕ってやるさ」


 この状況でここまで言われては、もうあたしにNOなんて選択肢はなかった。もともと疑っても仕方ないのだ、ここでおばあちゃんの申し出を断ればあたしにはいくところなんてないのだから。


「すみません! どうぞお邪魔させてください!」


 あたしは直立不動の態勢を取り、綺麗な直角のお辞儀をするので精一杯だった。だからあたしは気づかなかったのだ。

 おばあちゃんがかぶりを振りながらぶつぶつつぶやいていたなんて。


「面白いお客さんがきたもんだ。入らずの薔薇園に来るなんて一体どういうことだい? それにまあ、あたしも年をとったもんさね。こんなお嬢ちゃんに一発で正体を見破られるなんてさ」


 方向音痴なあたしは、またもやややこしい人のもとにたどり着いていたなんてこの時点で知る由もないのだった。

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