56.方向音痴なあたしと朝焼けと夕焼けの騎士 後編
夏の陽が落ちようとしている。両手を広げてもまだ足りないくらい大きくて見事な夕焼けが、あたしたちを照らしている。日本では見たことのないその見事な夕焼けに、あたしは思わずため息をついた。二つの長い影法師が、どことなく頼りなさげにゆらゆらと揺れている。長い長い一日が終わろうとしていた。
風の音だけが、ただ聞こえている。
蝉の音のしない夏を過ごすなんて、初めてかもしれない。陽に照らされて紅く染まった草原の花々が風にあおられ、夏の香りを辺りにまき散らしていた。隣を見上げれば、ただ前を見て黙々と歩く背の高い赤毛の騎士がいる。彼もまたその妹が親しげに呼んだという、夕焼けの騎士という二つ名に相応しい姿をしていた。恐ろしい返り血などではない、柔らかな暖かいその色。そう考えてみれば、彼の赤毛は希望に満ちた朝焼けの色にも見えてくるのだ。
あたしを姫君の待つ離宮まで送り届けてくれるという律儀なイケメン騎士団長。これだけ見ていれば、部下や家族や街の人に慕われると言うのも納得できる。あの大量のお弁当も、それだけたくさんの人の心に、赤毛の騎士のことが刻まれていたということなのだろう。もしかしたら、それはあたしの希望のようなものだけれど、メープルちゃんが聖女に覚醒した時の流行病に関連する人々だって、恨みつらみ以外の何かを、彼に残していたかもしれないのだ。味見なんて結局できなかったけれど、あの託されたバスケットの中には、人を温かな気持ちにさせるものがつまっていた。
「どうした? 腹でも減ったのか? 先ほど、オレだけむさぼってしまって悪かったな」
ちらちらと赤毛の騎士を見上げていることに気づかれていたらしい。素っ頓狂な返事を返してくれたいつものマッチョにどこか安心して、あたしはかぶりをふった。初めこそ味見をしてみたい気持ちはあったけれど、あの光景を見てしまえばそんな気持ちは消し飛んでしまった。あれはきっと、他者が踏み込んではいけない神聖なものだ。
それに、聞きたいことは山ほどあったけれど、今すぐに聞く気にはなれなかった。
あなたは陛下のことをどう思っているの? 本当に残酷な人なの?
物忘れの姫君を解放してあげたいとは思わないの?
どうして聖女にこだわっていたの?
今すぐに陛下に会わせて欲しいと、それを伝えるつもりで出かけてきたはずなのに、結局その言葉も口に出せずじまいだ。それもこれもきっとあの天へ上る光が美しすぎたせいだ。あの光を受ける騎士団長が忠誠を誓う陛下のことを、ただの冷酷な鬼畜とは思えなくなってしまったから。
「これからどうするのだ?」
今までろくに話さず歩いてきたのだから、とりたてて無言に耐えかねたわけでもあるまいに、赤毛の騎士がぽつりと尋ねてきた。口を開かなければ、とろけるような橙色に照らされた彼は、神々しいほど美しかった。もともと整った顔をしていたが、普段はどこか抜けたような男だ。それをこうも好ましいと思えるのは、単なるマッチョではない彼を知ったあたし自身の変化なのかもしない。
うっかりシリアスモードな赤毛の騎士の雰囲気に飲まれていたが、そういえばあたしにも待っていてくれる人たちがいた。まあ説教をかましたくてうずうずしている司祭服の銀縁眼鏡とか、黒龍とイチャラブしているに違いない姫君とか……。うーん、あたし別に急いで帰らないでいいんじゃない? と言うか、ちょっぴりナーバスな気持ちになってるし、しばらく一人でいたいかも。
「そうねえ、何だか周りに愛された証のある騎士団長を見てたら、あたしってちょっと宙ぶらりんな気がしてきたのよね。なんかあたし、気分的にひとりぼっちっていうか。まあ異世界的にひとりぼっちなんだけど。保護者なシュワイヤーとかもかなり怒ってるかもしれないし……」
このまま今日はどこか一人でゆっくり休みたいかも……というあたしの言葉は最後まで続けることはできなかった。煤けて毛並みの悪いねずみ色をした生き物が、弾丸のように飛び出してきたからだ。あたしの腕にすっぽり収まるサイズのそれは、すぐさま姿を変え、あたしをぎゅうぎゅうと抱きしめてきた。
「……どこへ、行っていたんですか……」
押し殺したような声で、耳元でささやくシュワイヤー。
想像していたのとは少しだけ違う展開に、あたしは内心驚いていた。どうせまた、ガミガミネチネチそれこそ小姑かお局様のようにお説教されると思っていたのに。まるで、生き別れの家族を見つけたかのような必死さに、あたしはどう声をかけていいかわからなかった。
おずおずと抱きしめ返せば、何だか体が骨ばってしまっているような気がした。慌てて顔を両手で挟み、こちらを向かせてみる。明らかにやつれ、顔色が悪い。目の下には薄くくまが残っている。その中で、彼の瞳だけが飢えた獣のようにギラギラと光を放っていた。
「どうして呼んでくれなかったんですか。名前さえ読んでくれたなら、どこへだって駆けつけたのに」
かすれた声であたしの名前を呼び続ける銀色の猫が、何だか迷子の子どものように思えてならなかった。ごめんねとか細い声で謝るあたしのことを、絶対に離さないとでも言うように抱きしめた。甘い香りに、じんと体が痺れる気がした。
ごめんね、シュワイヤー。そんなに不安になるなんて思わなかったの。ただあたしはこの世界があたしに仇なすことはないと、知っていたから。この世界があたしを歓迎していることを知っていたから。だから不安に思うことなんて何もなかったの。だからいつもぼんやり過ごしていたの。けれどあなたはそうじゃないのよね。あなたはそんなにも恐れていたの。
「……もう置いていかないでください」
不意に森の中で言われた言葉を思い出していた。あの森を早く抜けろと誰もが口を揃えて言ったのは、時の流れが違うからなのだろう。ハイエルフ様の髪が、おとぎ話のようにすぐに長く伸びる森。あの森に長居してしまえば、シュワイヤーに二度と会うことができない未来だってあったのかもしれない。一月程度の行方不明で済んだことが奇跡なのかもしれないのだ。
あたしが騎士団長とおしゃべりしてちょっぴり感傷的な気持ちになっている間だって、このひねくれた猫は死ぬ気であたしのことを探していたのだろう。このちょっと鬱陶しいくらい重たい愛情が、この世界に枷のないあたしには何だかとても心地よかった。
「お言葉を返すようだが、魔女殿こそ、自分が思っている以上に周りに愛されている。物忘れの姫君も自分のわがままに辟易して、大事なお友達が消えてしまったのだと泣いていたぞ。聖女は聖女で、何やらおかしな儀式の準備をしていたし、早いところ帰ってやってくれ」
そんな少し呆れたような、そのくせどこか優しい騎士団長の言葉に、あたしは素直に返事をした。久しぶりに銀色の猫をもふもふしながら寝るのもいいかもしない。このしおれかけた銀縁眼鏡にも、たっぷりと水を与えてあげよう。そう思いながら、あたしは人目もはばからず司祭服の男の頬に口付けた。