54.方向音痴なあたしと朝焼けと夕焼けの騎士 前編
思ったよりも早く森を抜けることができたらしい。少し開けた草原に、赤毛の騎士は呆けたような顔であたしをぽかんと見ていた。
あたしはわざとどかどかと足音を立てて赤毛の騎士に近寄ると、足元にどっこいしょとバスケットを置いてやる。食べ物を地面に置くなんて罰当たりなことはできないから、ちゃんと手近な、何だか座り心地の良さそうな石の上にバスケットは乗せてあげているのだ。この細やかな気遣い、感動してほしいくらいだわ。
それにしてもこんなに苦労して運んできた荷物だというのに、マッチョはちっとも心に響かないようだ。はっと気づいたように顔を引き締めると、あまつさえこのあたしにお説教を始めてきた。
「まったく、神殿に行く途中ではぐれたと聞いていたが、一体今までどこへ行っていたというのだ。捜索には我々騎士団もかなりの時間を費やしたのだぞ。関係者はみな血眼になっていたというのに、のんびりお気楽に散歩などしているとは……」
やれやれと言わんばかりに肩をすくめ、わざとらしく頭を抱えてみせる。騎士団長らしからぬ芝居掛かった仕草にカチンときたあたしは、ひいこら言いながら持ってきたお弁当の中身をマッチョの鼻先に一品ずつ突きつけてやることにした。
「はい、愛しの妹さん手作りのサンドイッチ! そもそもあたしがこんなに遅くなったのも、よくわからない森の中で、あなたの義弟さんがあたしにおつかいを頼んだせいなんですけどね!」
ぷりぷり怒りながら、バスケットの中身を出していく。もちろん石の上に乗るような量ではないので、持っていたハンカチを芝生の上に敷いて、そこに広げることにした。パリパリの焼きたてらしいバゲットは、ハードタイプのパンが好きなあたしにはたまらない一品だ。横からチラリと見える生ハムが、これまた美味しそう。真っ赤なトマトもレタスも、今が旬だからきっとジューシーだろう。
「お次はどこの産地だか知らないけれど赤ワイン。結構良いものなんでしょうよ、単なるハウスワインには思えないけど。それに美味しそうなチーズとクラッカーつき! まったく昼間から何考えてるのよ」
思ったより重くて鼻先には突き付けられず、少し手荒に芝生の上にボトルを置いた。キラキラと光を反射するボトルの中で、ワインがチャプンと揺れる。意趣返しにバスケットの中の栓抜きでコルクを抜いてみれば、それだけで軽く酔ってしまいそうなほど、甘く芳醇な香りが立ち込めた。チーズもこれまたかぶりつきたくなるようなクリーミーな白カビのチーズだ。実はブルーチーズは苦手なあたし。こういうタイプなら大好きなので、後からちょっぴりご相伴にあずかろう。これだけ運んできたんだもの、嫌とは言わせない。
「それしても、聞いてちょうだい。 このお弁当のおつかいってばひどかったのよ。歩いている途中で次から次に中身が増えていくんだから! あなたのお弁当だから中身が多いのもわかるけど、こんなに追加注文する必要はないでしょうよ。そもそもバスケットの品数を勝手に増やすなら、最初からあなたに直接荷物を転送するようにちゃんと本人たちに言っときなさいって話です」
鼻息荒く話すあたしに向かって、ポツリと赤毛の騎士にはつぶやいた。
「……義弟にはどこで出会った?」
「神殿に行く森の途中よ。あたしのこと探していたなら、シュワイヤーから聞いてない? あ、シュワイヤーってのは銀色の髪の司祭服の男よ。彼と途中ではぐれたら、森の中であなたの義弟という人に声をかけられてこのお弁当を預かったの。何でも急いで奥さま、まあつまりあなたの妹さんのところに行かないと怒られるとか何とか言ってたわね。ちゃんと大事なものは自分で届けるようにしてほしいもんだわ」
あたしの答えを聞いているのかいないのか、マッチョはいきなりサンドイッチにかぶりついた。ちょっとちょっと、先にあたしへのお礼はないんですか?! 言葉のお礼だけでなく、何だったらお弁当の味見くらいさせてください。
赤毛の騎士はうつむいたまま、黙々とサンドイッチを食べる。そのままあたしに構うことなく、次は赤ワインを飲んだ。いくらグラスがないからと言って、昼間からワインのラッパ飲みとかやめたほうがいいと思います。
口の端から飲み損ねたワインがたらりと垂れる。このままじゃ洋服についてしまうというのに、一向に気にする様子のないマッチョ。赤ワインのシミ抜きとかどれだけ大変かあんた知らないでしょ!
慌ててハンカチを探していたあたしの眼の前で、垂れかけた赤ワインの雫が黄金色の光の粒になって消えていくのが見えた。まるで小さな蝶の群れのように、天高く昇ってゆく。
唖然とするあたしに気がついたのだろう、無言でお弁当を食べていたマッチョが口を開いた。逆光のせいで、どんな顔をしているのかこちらからはさっぱり見えない。口がへの字に曲がっているような気がしたのは気のせいだろうか。食事はもっと美味しそうに食べたほうがいいんじゃない?
「迷いの森から届けられたものは、主人の想いが果たされればそのまま消えていくものだと聞いている。この眼で見たのは、初めてだがこれほど美しいものだったとは……」
恍惚とさえ言えるような声音で、赤毛の騎士はあたしに教えてくれた。そのまま2人して天を仰ぐ。
それにしても迷いの森なんてどういうことかしら。 確かにあたしは森の中で迷子になっていたけれど、もしかしてあそこって何か曰く付きのご大層な場所だったの? やだ、急に怖くなってきたよ。
「今がいつだかわかるか?」
これまた唐突な質問に、私は動揺した。何を言っているんだろう。そんなの決まっている、春の三の月だ。散歩に行く途中で六月の花嫁のことを考えていたのも、それが理由なのだから。だから当たり前のようにそう口にすれば、深くため息をつかれてしまった。
「違う、もはや夏の一の月の終わってしまった。すでに夏の二の月が始まっている。魔女殿はこの一月以上、行方不明だったのだ」