49.方向音痴なあたしと乙女な姫君と龍のうろこ 中編
だからね、とあたしは姫君の顔をじっと見つめながら伝えた。思わず一瞬、呼吸を止める。
「姫君は誰に恋をしても、誰を好きになってもいいんだよ」
世界が止まったかのような静寂が訪れた。姫君は、うつむいたまま動かない。シュワイヤーが結界を張った影響だろう、このことを耳にすれば大騒ぎするに違いない黒い龍の反応も聞こえない。
こんな時に伝えるべきではなかったのかもしれない。もっと伝えるべき場所や、時間や、相手がいたのかもしれない。予言の魔女が言わずにいたことを、あたしが指摘してよいものなのかもわからない。
けれど先延ばしにしていても仕方のないことで、そしてこれは誰かが伝えないといけないことだと思うのだ。そしてそういう損な役回りは、この異世界においても、お節介でイマイチ間の悪いあたしの役割なのだと、なぜかあたしは確信していた。
「リーファ?」
声をかけると、ようやく姫君は顔を上げた。姫君はもともと大きかった瞳をさらに丸くしている。驚きすぎてしまったのか、言葉にできないらしい。そして、先ほどまでほんのり頬を染めていた乙女な姫君が嘘のように、青ざめた顔で椅子にへたり込んでしまった。そこには、王族らしく背筋をピンと伸ばしていた、あの威厳のある佇まいは欠片もなかった。
「なんなのです。みんな勝手なことばかり。それならば、そんな話だったというのならば……。わたくしの今までの人生は一体何だったのです」
姫君はかたかたと震えながら、その美しい顔を両手で覆った。青ざめた肌が、まるで姫君をつくりものの人形のように見せている。
姫君の顔には予言から自由になった喜びはない。はっきりと強く燃え上がるのは、怒りと悲しみだ。菫色の瞳が紫水晶のように、強い光を持った。噛み締めた唇は薔薇のように赤く、ビスクドールのような美貌の中で一際異彩を放っている。
「初めから、そう言えば良かったではありませんか。どうして、こんな……。どうして……」
ぽろりと、姫君の紫色の瞳から真珠のような涙が溢れた。初めて見た姫君の泣き顔。初めて聞いた姫君の泣き言。初めて教えてくれた姫君の本音。
ここにきてようやく、あたしは自分の発言が失敗だったことに気づいた。
つい、自分の発見に気を取られて浮かれてしまっていたのだ。あたしが予言の内容に気づいたことを、予言の魔女が嬉しそうにしていたから、余計にいいことをしているような気持ちになっていたのかもしれない。
ふわふわと広がっていた気持ちがみるみるしぼんで、あたしはいたたまれなくなる。腕の中にいる銀色の猫の温かさだけが、あたしを慰めてくれた。
「ごめんね、姫君。もっとタイミングと言葉を選ぶべきだったよね。別に今までわざと黙っていたわけじゃないの」
「いいえ、そんなことより何より、わたくしはこの浅ましい自分自身が恥ずかしくてなりません。魔女殿がそんなことをおっしゃるのは、わたくしをずっと見ていたからに他なりません。先のことを考えず、王族としての役目も放棄して、側仕えの騎士に胸をときめかせる様はさぞ滑稽だったでしょう」
違うよ、違うんだよ姫君。誰もあなたのことを笑ったりしていない。
予言の魔女が、どうしてあんなわかりにくい言葉を選んだのか。それは短い時を生きる人間にはわからないだろう。それは、以前のあたしであっても理解できないことだったと思う。
長い長い時を生きる存在は、ずっと先の未来を見ている。それは遠い星を見るように、あやふやに揺らめくものだ。予言の魔女は、姫君の父親の熱意に押されて予言を与えたのだという。けれどそんな中でも、適当に与え放り出したわけではないのだ。
姫君という存在を幸せに導くだけでなく、姫君を取り巻く世界そのものの流れを見極めた結果なのだとあたしは思う。
きっと予言の魔女がみた運命の分かれ道は、単なる分かれ道ではなく川の流れのように激しいものだったのかもしれない。それをすくい取って、よりよい方向の予言を与えることは、あたしが想像する以上に難しいものなのだろう。
けれどあたしの言葉は、今の姫君には届かない。
もっとしっかりと未来を確定させる予言を与えることは容易いけれど、それは姫君の未来への道筋を勝手に閉ざしてしまうことになるのだから。予言はあくまで未来への道しるべでしかないのだ。
姫君だって気づいているんだよね。
今の口から出ている言葉は、八つ当たりに過ぎないんだって。
だからあたしは、姫君の口を閉じさせることはしない。
泣きながら言葉を紡ぐ姫君を助けてあげるのは、あたしの役割じゃあない。騎士様のお役目だ。だから、姫君にはこのまま部屋から退場していただくしかない。あたしはシュワイヤーに目配せをすると、するりと音もなく部屋の扉が開いたのだった。