48.方向音痴なあたしと乙女な姫君と龍のうろこ 前編
春の二の月のとある日、あたしは朝から姫君の部屋に入り浸っていた。
理由は、あたしの部屋がすっかり浸水していたからだ。
あたしの話を聞いて、意味がわからないという顔をしていたのはシンシアさんだけではない。姫君も一緒だ。
そうでしょうとも。朝起きたあたしにも、何が起きたのかさっぱりわからなかったくらいだしね。
朝起きて、足元がぐっちょりっていう経験は人生初。じゅうたんの色が変わるほどお水が染み込んだ部屋なんて、見たのは初めてだ。
ちなみにあたしの部屋は一階ではない。
それなのになぜこんな事態かといえば、横殴りでふっていた昨夜の雨風が、壁と床の隙間を伝って入り込んだらしい。絨毯を剥いだら、すぐにあらわになった床の骨組みの下には大きな水溜りが出来てしまっていた。
極寒の真冬に室内で快適に過ごせる技術があるくせに、雨漏りするなんてどういうことだよ。こういう時は、現代日本の素晴らしい建築技術が恋しくなる。
ともあれこの時期に、これだけ強い雨が北の国で降ることはとても珍しいらしいので仕方がないらしい。もともとそれほど雨が降る場所ではないから、あまり雨漏り対策はできていないのかもしれない。この世界では防寒はカバーできても、気密性は高くないんだろう。
姫君がぐちょぐちょになったあたしの部屋を見ると、そんなことを困ったような顔で教えてくれた。別に姫君のせいではないんだから、気にしなくてもいいのにねえ。
「高温多湿な東の国では、春の三の月にずっと雨が降り続くんです。この時期のことを、わたくしたちは『龍の水浴び』なんて呼んでいるんですよ。まあ本当に龍の皆様が水浴びしていらっしゃるかどうかなんて、わからないのですが」
「へえ。あたしの国では雨がたくさん降る時期に梅がたくさん実るから、梅雨なんて特別な呼び方で呼ぶんだけど、やっぱり地域柄なのねえ」
「ええ本当にそうですね。それにしても不思議なのは、これはあくまで東の国の話でして、北の国ではこんな大雨なんて珍しいんですよ。冬は寒さが厳しく雪も降りますが、春から秋にかけては乾燥していて湿度も低く、過ごしやすいんです。わたくしが北の国に越してきてからこんな事態になったと、第一王子殿がお怒りでしたから、もしかしたら、こっそり東の国にお住いの龍の皆さまがおいでになっていらっしゃるのかもしれませんね」
「そうねえ、案外その通りなのかもよ」
適当な相槌をうちつつ、あたしは先ほど扉の外で見張りをしていた男を思い出す。さっぱりとした表情をしている龍は、久々に体を存分に動かしたようにのびのびとしていた。
なんだか身につけている黒い鎧も、いつにもましてぴかぴかと輝いているように見える。あれ、もしかしなくても自前というか自分の鱗でできた鎧だったのねえ……。
あたしの部屋の修理は、思ったより時間がかかるらしい。一部屋の修理ではなくて、外壁丸ごとの工事になるそうで、同じ方角のお部屋は軒並み水浸しだそうだ。残念ながら使える部屋には限りがあるため、お言葉に甘えてあたしは朝から姫君の部屋に転がり込んでいる。
客人に部屋の一つも用意できないとはと平謝りされたけれど、自分の部屋を差し出そうとする姫君にあたしも慌ててしまった。というわけで、折衷案が一時同居というわけ。この間、うちのお猫様にはしばらく幻獣の姿で我慢していただくことになっている。すまん!
それにこういう機会でもないと、姫君に突っ込んだ話を聞けないからね。わかってはいたけれど、王族にプライベート空間なんてほぼなくてびっくりしたよ。特に龍のあのぴったりマーク具合は、護衛を通り越してもはやストーカーの域です。
ぽりぽりとあたしは、お茶菓子をつまみながら姫君を見つめる。お行儀悪くベッドに寝転がっているんだけど、怒らないで!
ほら、どこぞの紳士の国のお方たちなんて、今はどうか知らないけれど昔は日曜日にベッドで朝食食べてたじゃん。あれに比べたらまだまだお菓子なんて許容範囲だと思うの。
ちなみにあたしが食べているお菓子は、「龍のうろこ」である。本物の龍のうろこを見たことがないあたしだが、黒龍のうろこはきっとこんな感じなんだろう。
しっかりテンパリングされたのであろう、つやつやと輝くビターチョコレートの風味がたまらない。薄く伸ばしたチョコレートが程よいパリパリ感を生んでいる。東の国の王室御用達の高級菓子。献上している菓子屋でも、作り方は極秘なのだとか。滅多に手に入らないが、夏に入る前の春の二の月にだけ、口にすることができるのだそうだ。
ちなみに姫君が口にするときにだけ、黒光りしている「龍のうろこ」の表面が柔らか真珠色に輝く気がするのは、きっとあたしの気のせいだと思う。姫君が美味しそうに目を細めるたびに、姫君の体が柔らかな光に包まれるのもきっと目の錯覚に違いないのだ。
チョコレート菓子の中に、ソフトシェルクラブ的な本物の龍のうろこが混じっている可能性なんて、考えるのも面倒だ。お行儀の悪いままあたしは姫君に爆弾を放り投げることにした。
「姫君、なんであの黒騎士とくっつかないんですか?」
かあああっと、姫君の白い肌が朱に染まった。おお、愛の力だねえ。あたしはあの龍の騎士の名前も知らないから、鎧の色から勝手に黒騎士なんて呼んだだけなのに、姫君にはばっちり伝わるのね。
それと同時にガタガタガタと、なんだかやかましい音が廊下に響き渡る。やあねえ、盗み聞きとか男らしくないわ。あ、シュワイヤーが肉球でドアを押さえている。結界でも張ったのかな?
「彼は、この国の者ではありません。わざわざこの北の国の中枢に彼を据えて、政治闘争の渦中にさらしたくはないのです」
動揺から瞬間的に立ち直ったらしい。じゃあさらに驚かせちゃおう。
「それね、あたしちょっと考えてみたんですけど……。多分予言の解釈間違ってるんじゃないかと思うんです」
あたしは、おばあちゃんが話してくれる内容をゆっくりと反芻する。
「北の国の王が広めた、『北の国の王妃となる』と改竄した予言に引きずられて勘違いしちゃったんですけど、『王女が愛し、選んだ相手が、この北の国の王となる』という本当の予言の意味は、少し違うと思うんです」
あたしは思い出す。
愛に飢えた聖女を。愛を乞う宮廷魔導士を。愛を与える予言の魔女を。
銀色の猫がかりかりとベッドの柱をひっかく。あたしはだらしなく寝そべっていたベッドから起き上がり、シュワイヤーを抱きかかえてやった。そうね、あんたのことも忘れずにカウントしなくちゃね。今だけは、甘い甘い恋人ではなく、ともにむかしむかしの、小さなあたしたちを慰撫しあうもの同志として。
愛の形は一つではない。愛を育むことが即ち体をつなぐことや結婚するという一つの道につながっているのではない。予言の魔女にうまいこと引っ掛けられたのよね、きっと。
そうあたしが勘違いするように仕向けたのかもしれないけれど、本当の予言は別に、結婚相手が王になるとは明言していない。恋をすることと、伴侶を迎えること、そしてこの北の国の王を選ぶことはイコールではないのだ。