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47.閑話 宮廷魔導士と継母と穴の空いたドーナッツ

 あたくしはおまえが嫌いです。


 おまえは、あたくしの夫が、女中に手を出した挙句にできた子ども。異常に顔の整った、血が繋がっていないおまえをみるたびに、あたくしの心はさいなまれるのです。

 お願いだから、あたくしを母と呼ばないで。


母上、悲しいときにはドーナッツを食べるんです。

どうしてドーナッツには穴が空いているか知っていますか?

この丸い穴には、たくさんの幸せが詰まっているんですよ!


 身体中を粉まみれにして、料理人たちと揚げたてのドーナッツを持ってきながら、おまえはこう言いましたね。油と粉砂糖でベタベタになった手を広げて抱きついてきたおまえを、あたくしは力一杯押し除けたことを覚えています。


 なぜあのとき、抱きしめてあげられなかったのかわかりません。

 おまえの言葉が、おまえの笑顔が、あたくしの愛する彼女にそっくりだったからでしょう。


 おまえの爽やかな石けんの匂いを嗅ぐたびに、あの柔らかな優しい彼女を思い出しました。その匂いをあたくしが嗅ぎ分けられないように、あたくしは浴びるように香水を身につけました。

 いつか間違って、おまえを抱きしめてしまうのが怖かったからです。


 おまえのせいで彼女は死んだのに。おまえはどうしてそんなに彼女に似ているのでしょう。

 おまえだけ、なぜ生き残ったのだとあたくしはこの口から溢れださないようにするので、精一杯だったのです。


王妹とはいえ、子どもを産めぬ役立たずではどうしようもない。

そうであれば、夫が愛人を囲っても仕方あるまい。


 そこかしこで笑い者にされ、それでもあたくしは嫁いだ家で我慢しておりました。

 貴族の女の務めは、子どもを産むこと。石女のあたくしが離縁されなかったのは、ひとえに王族に連なるこの血ゆえ。


 外に夫が愛人を囲うことも、黙って許してきたつもりでした。

 相手がどんなに身分が低くとも、相談してもらえれば承諾するつもりだったのでず。


 けれど、あたくしの唯一の友に手を出したことだけは許せませんでした。

 なぜ、彼女だったのでしょう。いつも恥ずかしそうに笑う無垢な少女を、なぜ夫はだまし討ちのようなことをしてまで組み敷いたのですか。


 彼女はあたくしのものだったのに。

 あたくしが一番最初に見つけたのに。

 あたくしだけのものだったのに。


 あたくしは知っておりました。

 彼女が夫をたぶらかしたわけではないと。

 彼女は、あたくしの夫だから、あんな男にも誠心誠意尽くして仕えてくれたのです。それをあの男はいいように踏みにじったのです。


 身分差のあるこの世界で、女中が主人に逆らうことなどできはしません。

 それを知っていて、彼女をなじったのはあたくしの狭量さゆえ。


 愛していたのに。

 彼女のことを誰よりも愛していたのに。

 ずっとずっとあたくしだけのものであって欲しかったのに。


 目の前で膨らむ、彼女の腹など見ていられませんでした。

 望まぬ妊娠だったとはいえ、優しい顔をして腹を撫でる彼女はとてもとても美しかった。


 けれど、このままではあたくしはいつか腹の中の赤子を殺してしまうだろうという確信がありました。彼女の愛情を一身に受けるであろう存在が妬ましかったのです。


 だから、あたくしは彼女を追い出しました。行方も把握しないように一切の情報を遮断して。居場所がわかれば、きっとあたくしは彼女を追いかけてしまったでしょうから。


 それが間違いだと気付いたのは、それからすぐでした。

 彼女はあっけなく死にました。平民育ちでない彼女が、平民の中でただ一人生きるには春をひさぐことさえも必要だと、なぜ思い至らなかったのでしょう。


 あたくしが殺したのです。あたくしがこの家を追い出さなければ、彼女はあのたおやかな手を荒れさせることもなく、誇りを踏みにじられることもなく、穏やかに人生を過ごせたでしょうに。


 忘れ形見がこの家にやってきても、あたくしの心は凍ったままでした。

 どうして彼女を愛したように、おまえを愛せなかったのでしょう。

 幼いおまえは、大切な彼女を忘れ、精一杯あたくしのことを愛してくれたのに。


 ここにきてようやく、あたくしはおまえを嫌いではないことに気づきました。

 いいえ、嫌いなどころか。この世の誰よりも愛しています。

 けれど今更どうしろというのです。


 食事を一切口にせぬまま、部屋にこもり、虚ろな眼差しをするおまえに、あたくしはなんと声をかければよいのです。


 憎むならあたくしを憎めと、そう言ってしまえばいいのでしょうか。


 あの日、塵屑のようになったおまえを見て、あたくしは心臓が止まるかと思いました。突然部屋に現れた異常事態より何より、おまえが心配だったのです。


 銀色の猫を思わせる司祭服の男に強く睨まれたときよりも、ボロボロのおまえを見たときのほうが肝が冷えたのです。また大切な人を失ってしまうのかと、あたくしは恐ろしくてたまりませんでした。


 あたくしはどうすれば良いのでしょう。

 夫は、あの男は、おまえに見切りをつけたようです。

 宮廷魔導士としてのおまえに価値を感じていたのですから、突然魔法が使えなくなったおまえは用無しなのでしょう。


 あれほどひっきりなしにあった縁談も、ぱたりと途絶えました。

 人の変わりようは早いものですね。


 こんなろくでもない家、途絶えてしまえば良いのです。

 彼女を不幸にした家など、この世の中に残っていてもきっと世のためになりません。


 おまえにドーナッツをつくりましょう。久しぶりですから、うまく作れるでしょうか。こんなときにドーナッツを作るなんて、夫はあたくしの気が狂ったとでも思うでしょうか。


 あの日彼女と作り、一緒に食べた甘いドーナッツを。

 おまえがあの日、あたくしに届けてくれようとしたドーナッツを。


 あたくしたちの胸には、ドーナッツのように穴がぽっかり空いています。

 この穴は、いつか幸せで埋まるのでしょうか。

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