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46.方向音痴なあたしと潔癖症な魔導士 後編

「母上のことを淫売だと?! 王妹である我が母を淫売呼ばわりとは、貴様どうなるかわかっているのだろうな!」


「自分の夫が女中を手篭めにしたら、逆上して女中を淫売呼ばわりし、殴る蹴るの暴行を加えたあげくに、屋敷を追い出した女が大事な母親ですか。自分の本当の親のことも思い出せないなんて、必死に産んで育てた甲斐もない。さすが畜生の子は、畜生ですね」


「うるさい! 母上がそんなことをするはずがないだろう! 母上以外に母はいない!」


「抱きしめてもらった記憶もなく、駆け寄ってきた子どもを汚いと突き飛ばす女が母だとは笑わせる」


「黙れ、黙れ!!! お前が何を知っている! お前に何がわかる!」


「よく考えてご覧なさい。あなたの記憶は本当に正しいのてすか?」


「母上は、石鹸の香りのする優しい方で……」


「本当にそうでしょうか。貴族の女性は、みな香水を身につけているのに、石鹸の香りなんてするでしょうか」


「ははうえは……」


 ぐらり、あたしの視界が揺れる。力をまだうまく使いこなせないあたしには、こんなに強烈な感情は危険すぎる。おかしいなあ、最初の計画ではこんなにジュムラーが激昂する予定ではなかったし、力の差で物理的に話し合いをする予定だったんだけど……。


 仕方ない、相手の神経を逆なですることにかけては天下一品の男があたしの隣にはいるのだ。後始末まで付き合ってもらおう。


 それにしても、自我を失うことはなくても、容易にいろんな相手とシンクロしてしまうのはよろしくない。だって、相手の記憶や感情が全部見えたら、あたしはこれ以上人を憎めなくなってしまうから。相手の立場がわかりすぎてしまうのは、いいことばっかりじゃないのに。


 ああ、視界がかわる。どうか悲惨な記憶は見せないで欲しいと願うけれど、きっと無理な話だろう。ジュムラーの潔癖症の原因が、綺麗な話のわけがない。


 昼間の公園の景色が消え、代わりに下町らしい賑やかな場所に切り替わる。時間は、夕餉時らしい。


 粗末な服を着た女性が見える。けれど洗濯はきちんとしているらしく、不潔な感じはしない。痩せこけてはいるが、整った容貌をしている。その顔はどこかジュムラーに似ている。彼女は優しい眼差しで、こちらを見下ろしていた。


 小さな手のひらがこの女性と手をつないでいる。自分の姿は自分で確認できない。つまりこの小さな手のひらの持ち主がジュムラーだ。その手は苦労しているのだろう。二人ともあかぎれでひどく荒れている。


 どうやらこれは子どもの頃の記憶か……?

 記憶や感情にシンクロするからあまり自由には動けない。未来を視るときの感覚よりも、まどろっこしい。


 あたしから見える子どもの手は、ふくふくとしているどころかガリガリの痩せっぽち。隣の女性も、貴族の女性にはとても見えない。それならば、これが銀色の猫が言っていた、潔癖症の魔導士の本当の母親の記憶か。


「まま、きょうのごはんはなあに?」


「お店のご主人が、余ったおかずをたくさんくださったの。今日はごちそうよ。!」


「わあい!」


「けれどちゃんと手を洗って食べるのよ。もう、泥んこがすごいわ」


 貧しいけれど、幸せな親子の会話だ。

 この頃のジュムラーは、潔癖症じゃなかったらしい。泥んこになって遊ぶごく普通の子ども。


 ふわふわと柔らかい体にジュムラーが抱きしめられる。

 ふわりと石鹸の匂いがする。甘い甘い母の匂い。ジュムラーにとって母の匂いは、この石鹸の香りなのだろう。温かい感情があたしのなかに流れ込んでくる。


 場面がいきなり変わる。暗く湿った部屋。殴られたのだろうか、身体中が痛い。

 シンクロするのは感情だけにしてほしい。痛みまでシンクロするなんて、聞いてないよ。ちょっとひどいんじゃない。痛いという感情があるから、仕方がないのだろうか? 息を殺して、ただひたすらじっと耐える。


 目の前で白い何かが揺れている。ギシギシときしむ古びた床が耳障りだ。

 はだけた服から見える大きな胸に形の良い尻。揺れる白い肌、荒い息遣い。小汚い男たちが代わる代わる美しい女の上にまたがっていた。


「ままごめんね。ぼくのせいで。ぼくがいるから。」


 ぽろぽろと少年あたしは涙をこぼす。小さな小さなジュムラーが泣いている。自分のせいで母がこんな目にあったのに、自分は何もできなかったと泣いている。幼い心に広がる悲しみが、あたしにも流れ込み、辛くてたまらない。男たちが帰った後、ボロ雑巾のように投げ捨てられた母が首を振った。


「誰がそんなことを言ったの? あなたは何も悪くないのよ」


「でもぼくをはらんだから、ままはおやしきをおいだされたんでしょう? ぼくさえいなければ、ままはあったかいおうちで、おいしいものがたべられたんでしょう? ぼく、さっきのおじさんたちのところにいってもいいよ」


「違うのよ。あなたはちっとも悪くないの。あんなやつらに、あなたのことを指一本だって触らせやしないわ。身寄りがないばっかりに、あなたに辛い思いをさせてしまってごめんなさい」


 優しい母の言葉は、少年の心を癒せない。


 ああ、母を苦しめる自分が憎い。母の体を汚したあの男たちが憎い。母を手篭めにした父親が憎い。母を追い出した父親の妻が憎い。男と女の営みが憎く、汚らわしい。ジュムラーの感情に、あたしはぐらりと引き込まれそうになる。


 むき出しの感情とは距離を持たねば耐えられない。

 早く早く、次の記憶に移ってほしい。あたしは込み上げる吐き気を抑えながら、ただ一心に祈る。


 パラパラとページをめくるように流れる記憶。そのどれもが、母が食い尽くされていく記憶ばかりだ。必死に愛しい息子を守った母は、やがて力尽きた。


「ママのことは忘れていいのよ。幸せになってね。あなたがどこで暮らしていても、ママはあなたのことを愛しているわ。あなたの目には見えなくなっても、ずっとずっとそばにいるわ」


「まま、ぼくままといっしょがいいの。まま、おいてかないで。まま、まま!」


「ごめんなさいね。ママを許してね」


 目の前で母親を失った衝撃は、幼い子どもの記憶をたやすく変えていく。

 幸せになってほしいという優しい母の言葉が呪いとなって、優しい母との思い出は深い深い記憶の底に沈んでいく。小さな子どもの頃の記憶が数年分なくても、誰も不審に思わない。


 あたしはそのまま、切り替わる視点に身をまかせる。

 記憶が蘇るたびに、可愛らしい少年は、少しずつあたしの知るジュムラーに近づいていく。あの優しかった少年は、もうどこにもいない。


 そのままジュムラーは母との生活を忘れて、父親に引き取られて貴族らしい男になった。眉目秀麗、魔法に秀でた将来有望な青年として。ただ一つの誤算があったとするならば、社交界にデビューしてから突然潔癖症になったことだろう。


 女性嫌いだったはずではないのに、たくさんの媚びる少女の相手をしていたら吐き気が止まらなくなった。浮名を流す友人たちが、獣のように感じられた。

 それがなぜなのかジュムラーにはわからない。


 そうこうしているうちに、彼は他人が気持ち悪くてたまらなくなった。腹の底で何を考えているのかわからない相手を前に、言いようのない不安に駆りたてられる。


 あたしは気分が悪くなるのを、必死で我慢している。この記憶を一度に思い出したジュムラー本人は、きっとえづいているはずだ。掛け金をかけていたはずの記憶が洪水のように溢れ出てきては、まともではいられないだろう。


 それでも記憶の流れは止まらない。

 結婚をして子孫を残していくことは貴族の義務だ。両親のプレッシャーが鬱陶しい。毎日屋敷に届く見合い写真にも反吐がでる。イライラするジュムラーが、姿絵もろとも部屋を水浸しにして飛び出していくのがわかった。


 そんなときに出会ったのが聖女だ。奔放に過ごすくせに、いつもどこか遠くを見ていた彼女。高価なものをねだり、男に媚びているはずなのに、相手をいつも憎んでいるような冷たい眼差しで睨みつけている彼女。厭わしい女の体には成長せず、幼い少女のままで過ごす彼女。


 彼女となら分かり合えると思っていた。だからずっとそばにいて欲しかった。自分と一緒に苦しみを分かち合いたかった。だからこそ、禁忌を承知で異世界からあの女を召喚したというのに、彼女だけが、今、枷から逃れて空を羽ばたいている。晴れやかな笑顔で笑うなんて許せるはずがなかった。


 だからジュムラーはずっと追いすがった。離れられなかったのだ。


 あたしは、ようやくシンクロしていた感情から解放される。感情の爆発が止まったのか、記憶が今に追いついたのか。

 二日酔いのときのように、頭痛と吐き気がする。きっと踏み込み過ぎたのだ。あたしは人の心を覗きすぎた。


「もう、やめろ、やめてくれ……」


 小さな子どものように膝を抱えて泣きじゃくる宮廷魔導士にかける言葉なんて、あたしは持っていなかった。


 あたしはシュワイヤーをそっと見つめる。

 日の当たる公園の中で、宮廷魔導士の嗚咽だけが響いていた。

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