44.方向音痴なあたしと潔癖性な魔導士 前編
「聖女様、どうぞお戻りください。このまま神殿にはお戻りになられないおつもりですか?!」
ボートを降りてあたしに飛びついてきたメープルちゃんに、赤毛の騎士がひざまずいた。これで湖の上を凍らせて、爆走したことを思い出さなければ非常に絵になる光景だ。脳筋だとわかっていてもそう思えるのだから、やはり美形はお得なのね。
「何がご不満だったのです。何か足りないものがございましたか? 新しい御衣装でしょうか。舶来の宝石ですか。それとも見目の良い小姓でしょうか」
とんちんかんなことを言う宮廷魔導士にうんざりしたのだろう。メープルちゃんはあからさまに大きなため息をついた。
うん、ジュムラー、ドンマイ! さっきまで湖を凍らせていた人間が、あっさり言葉で凍らされるのもすごい話だよね。まあ繁殖期のニジマスとかの怒りも上乗せされたんだと思うよ。今季の漁獲高が低下したら、君はお魚好きのメープルちゃんに口を聞いてもらえなくなることは覚悟した方がいいね。
「我々をお見捨てになるのですか?! あなたに見捨てられたら、どうやってこれから先生きていけば……」
あたしの背中に隠れていたメープルちゃんだが、あっさりとシュワイヤーにポイ捨てされてしまった。悲痛な声で宮廷魔導士が、無防備なメープルちゃんにすがりついた。うわあ、メープルちゃん、すっごい嫌そうな顔してるね。まああたしも、公衆の面前であんな風に足にすがりついてこられたらドン引きするけどね!
そこであたしははたと気づいた。え、メープルちゃん、今神殿に住んでないの? どういうこと?
「メープルちゃん、最近よく遊びに来てるけど、もしかして無許可?」
「うふふ、それに聖女止めようと思って、今日は置き手紙置いてきちゃったんですう。だって、おねえさまとずっと一緒にいたかったんですう」
てへっと小首を傾げて可愛く笑うメープルちゃん。ダメだろ、それ! 可愛いからってなんでも許してもらえるわけじゃありません!
確かに今後聖女のお役目御免になる方向で動きたいけれど、いきなり辞表書いても受け付けてもらえないだろう。どうして急に頭のネジが緩くなっちゃったのよ。
「大体お前がこの世界に来てから、聖女様がおかしくなったんだ! 一体聖女様に何を吹き込んだ!」
ふざけたことをぬかすジュムラーを、銀色の猫が一瞬で宙に蹴り上げた。ジュムラーは、そのまま春の匂いがする湿った芝生の上に落下する。あのうシュワイヤーさん、司祭服を着たまま、土足で宮廷魔導士の顔を踏みつけるサディスティックな姿は、神殿にクレームが入ると思いますよ。
「はああ?! 人を無理矢理連れてきておいて、出てきた言葉がそれかい! メープルちゃんとはこの間のことがあるから程よく付き合っていられるけど、あたしはジュムラー、あんたのことを許した覚えはないからね! 」
踏みつけられるジュムラーに啖呵を切ったあたしだが、今度は赤毛の騎士がまとわりついてきた。
「とはいえ、現状聖女殿を説得できるのは魔女殿だけだ。力づくで連れ帰りたくはない。ムシがいいとは思うが、頼む、聖女殿を説得してはもらえないだろうか」
面倒くさいいい! こいつらめっちゃ面倒くさいいい!
片方は全部あたしのせいにして八つ当たりしてくるし、もう片方は低姿勢に見えてものすごく自分勝手なことを要求をしてくる。
とりあえずこの面倒な男二人をいっぺんに相手するのは、あたしの精神力が持たない。今だって目をらんらんとさせているシュワイヤーを抑えることで精一杯なのだ。
うっかりあの宮廷魔導士がこれ以上あたしの地雷を踏んだなら、即座に銀色の猫が目の玉をえぐり出すくらいのことはやっちゃうだろうし。
シュワイヤー、なぜに君は抜き身の剣なのかね。
仕方ないので、あたしは近くにいた屋台のおじさんに声をかける。ここで売られているのは、日本では見かけないペタンとした平べったいパンだ。焼き方も独特で、煙突のような筒型の釜にパン生地を貼り付けて焼いている。ほんのり塩味のもちもちとしたパンで、軽食としても人気だ。
屋台なのに焼きたてパンとか便利よねえ。炭水化物大好きなあたしは、この屋台のおっちゃんとも顔なじみだ。
当初、金貨でパンの支払いをしようとして怒られたのは記憶に新しい。銅貨二枚のものを金貨で支払おうとしたら、そりゃあおっちゃんもキレるわな。
そのパンを山盛り買うと、すべて赤毛の騎士に押しつける。ちなみに袋なんて高尚なものはないので、素手で山盛りのパンを持つことになる。さすがの脳筋も、大量のパンを押しつけられたことに違和感を感じたんだろう。目をパチクリさせてきょとんとしている。
おいこら、男のきょとん顔とかあたしは興味ないのよ。そのパンを持ってさっさと湖のほとりに歩く!
湖には、先ほどご紹介頂いた幻獣が、むっしゃむっしゃパン屑を食べていた。見た目単なる白鳥なんだけどなあ。本当に幻獣の長なんだったら、ちょっとはあたしに協力してよね。
そこに大量のパンを抱えた男が躍り出たものだから、白鳥の目がキラリと輝く。そのまま、鋭い雄叫びが湖に響き渡った。
空から白鳥の群れが一斉に降り立った。ジリジリと白鳥たちが脳筋に近づいていく。こうやってみると、幻獣の白鳥は、普通の白鳥よりもずっと大きくて、体の艶も素晴らしい。やっぱり普通の動物とは違うんだなあ。
あたしたちの後ろ側、湖の近くにあるなだらかな坂からも、ガアガアと言いながら大量のアヒルがこちらに押し寄せてきた。前方の白鳥、後方のアヒル。さあ赤毛の騎士よ、リアル羽毛ぶとんに包まれてしまうがいい!
ちなみにこの光景を、潔癖性の魔導士が青い顔で見つめていた。まあね、あたしもその気持ちがわかるよ。公園で鳩に囲まれるとかちょっと怖いよねえ。鳩より大きいんだし、結構生臭そう。
さあ、邪魔者の相手は鳥さんたちに任せて、あたしはジュムラーとお話しましょうかね。