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39.方向音痴なあたしと1枚目のパンケーキちゃん 後編

「本当にごめんなさい。あなたをこんな風にこの世界に縛り付けてしまって……。だからここで終わりにしましょう」


 彼女はあたしに深々と頭を下げたあとに、ゆっくりと顔を上げた。にっこりと眩しいほどの笑顔を見せると、そのままあたしに向かって飛びかかってくる。一瞬だけ、何も身につけていない彼女の胸から、魚の腹のようなぎらりとした銀色の光が生まれるのが見えた。あれは、鞘のない小さな刃?


 きらきらと光を反射させながら、先ほどまでお手玉代わりに弄ばれていた腕輪が床に落ちていく。もったいないなんて、場違いなことを思うあたしは、ふうわりと後ろに突き飛ばされる。慌てたあたしの腕は宙をかき、衣装部屋のドレスをぐちゃぐちゃに散らかしてしまった。辺りは美しくも雑多な色の洪水だ。そのまま一気に距離を詰め、あたしに馬乗りになった彼女は、鈍く輝く小さな刃を振りかぶった。


 床に押し倒されたあたしは、瞳を大きく見開いたまま、こんな状況には不釣り合いなほど鮮やかに笑う彼女と、ぎらぎらと光る刃の切っ先だけを、瞬きもせずスローモーションのように眺めていた。


 銀色の切っ先があたしの喉に届こうかというその時、彼女はくぐもった声をあげて右目を抑えた。そのままシュワイヤーに頬を張り飛ばされ、華奢な体が宙を舞う。あたしの隣で、銀色の猫が尋常じゃなくイラついているのがわかる。ちょっと待って、落ち着いて。このままだとこの男、本気で何をしでかすかわからない。おすわり! いや違うか……猫を止めるときはなんて言うんだっけ?


「ふふふ、そうよね。あなたには、月の光のような騎士が側にいるんだったわ。いくら聖女の力があるとはいえ、あなたに傷一筋つけられるわけがなかったわね。それにしても、いくら何でも女子どもにこの仕打ちはあんまりじゃない?」


 彼女は、右目を抑えていた手のひらをゆっくりと離す。何かで傷ついた瞳からは、涙のように赤い液体があふれ、頬を伝って床にしたたらせていた。ちょっとシュワイヤー、あんた何エグいことさらりとやってくれてるわけ?!


「穏便に済ませようと、そこらへんの小ぶりの指輪を右目に食い込ませただけでしょう。『聖女』の体については有名ですからね。魔法は自動的に跳ね返してしまいますし、それ以外の物理的な攻撃が有効だと知っていれば、それを実行するまでです。どうせ不老不死に近い体なのですから、とりたてて傷について気にする必要もないのでは?」


「いくらすぐに傷が塞がると言っても、痛いものは痛いのよ。あなたの考え方って、『聖女』を目減りすることのない盾として使う、陛下そっくりで、大嫌い」


「それは良かったですね。光栄です」


 淡々とやりとりするこの二人が怖いです。不老不死って何なの? 『聖女』って、伝説の人魚の肉でも食べてるの? そしてやっぱり怖いです、北の国の王様。この場合の盾って、比喩じゃなくまさに対物的な意味ですよね?


「ちょっとちょっと、二人ともストップ。そんな刃先が丸まった刃物を振り回されても怖くないし、ちっちゃな女の子に殺気ゼロでとことこ走って来られてもどうしていいかわからないよ。シュワイヤーは反撃にしてもそれはやり過ぎ。ちょっとは自重しなさい」


 どうやら褒められると思っていたらしいこの銀色の猫は、眉をちょっとだけへにょっと下げた。ちょっとかわいそうな気もするけれど、しつけも大事だしここは我慢我慢。


「また死にぞこなっちゃったわ。本気であなたが怯えてくれたら、自動的にこの世界から排除されると思ったのになあ。あの一瞬で、刃の先まで観察するなんてやっぱり魔女はすごいわね」


 テヘペロなんて言葉が似合うくらい陽気に、彼女は言って小首を傾げた。その顔の半分には赤黒くこびりついた汚れがあるけれと、両の瞳は、先ほどまでの傷がまぼろしだったかのように何も違和感が見えない。これが『聖女』の力だっていうわけ?


「この流れで言っちゃおうかな。あなたが、こんな風に世界の理に合わせて作り変えられたのって、実を言うと本当に偶然なの。『聖女』の役割は、この世界の要であるリーファの選択を最後まで見届けること」


 つまり、あたしの変化は『聖女』が意図したものではなかったと、そういうわけね。この世界のことについて気になる単語はたくさんあるけれど、詳しいことは今の彼女からは聞けそうにもない。


「彼女の選択が終わるまでは、『聖女』は死なない。例えどんな傷を受けても、『聖女』は再生する」


 瞳の中から取り出した指輪をあたしに放り投げると、彼女はウインクをして見せた。その宝石が赤黒いのは何の色なのか、あたしは考えないようにしておく。


 不本意に生かされている『聖女』。もしもあのまま家族と一緒に死んでいたら、世界はどうなっていたのだろう。『聖女』が不老不死として子どもの体のまま大きくならないのだというのならば、それはもう祝福ではなく呪いに近い。


「だから、遠くの異世界でもなおきらめくあなたの魂を見たときに、思いついてしまったの。あなたならこの世界の『聖女』を消してしまうことが可能なんじゃないのかって」


 ふわりふわり、彼女はまるで蝶のように踊る。握りしめていた刃を胸の前にかざすと、それはふわりと輪郭をおぼろげにして彼女の胸の中に吸い込まれる。


「理の異なる世界間の干渉はご法度よ。それは天秤のように危ういバランスを保っている力が、あっという間に崩れてしまうから。それをわざと引き起こすつもりだったの」


 くるりと薄布を羽織ると、彼女はひとつためいきをついた。


「ジュムラーを通して、あなたに接触したときには目論見もくろみ通り、『聖女』の肉体と精神は壊れてしまうかと思った……。けれど、この世界であなたの魂は予想外の歓迎を受けた」


 あたしは思い出す。あの温かいまどろみの世界を。胎児が母の胎内で守られて過ごすように、何の憂いもなくたゆたっていたあの時間を。あれが世界に歓迎を受けたということか。異物として排除されることもなく、世界に吸収されることもなく、他の世界で傷つき疲れ果てたあたしを受け入れてくれたこの温かい母なる世界。


「歓迎を受けたあなたの魂は、思っていた以上にこの世界に適応した。それが、神の意志なのか、それともこの世界の意志なのかはわからない。けれど魂の一部がこの世界の理に繋がっているあなたは、只人とは呼べぬ存在でしょう」


 どこか嬉しそうに、そして少しだけ悲しそうにあたしを見る。


「この世界をよりよくする方向だと何かしら理由をつければ、あらゆる干渉も可能なはず。いっそこの世界に危険を及ぼすものとして、『聖女』の排除さえ可能でしょう。不自由な神よりも、世界の理の一部であるあなたの方が、この世界での干渉力は高いのだから」


 確かに今朝出会ったユニコーンたちは、あたしのことを『導引の魔女』なんて呼んでいた。その名称が意味するところをあたしは理解していなかったけれど、聖女が言うことを踏まえるならば、何と大それた力をこの身に受けたことか。


 より良い方向へ未来を変えることができるといえば、聞こえはいいが、リーファの未来に不都合とあれば、人を殺めることも簡単なのだというこの力。あたしはただ流れのままに母なるこの世界に受け入れられ、新たな肉体を得ただけなのだ。あたしにできることは、ただ人の話を聞いてあげることだけなのに、なぜ彼女はそんな難しいことをあたしに言うのだろう。


「だからね、あなたが『聖女』のことを許さないというのなら、今すぐこの世界から『聖女』の存在を消してちょうだい。魔法も跳ね返し、毒も効かぬ『聖女』の体も、世界の理の意思なら消せるはず。どうかお願い、死に損ないの一枚目のパンケーキを土にお戻しください」


 重い言葉とは裏腹に、道化のようにおどけて見せながら彼女はふわりと一礼した。彼女の言い分は、自分勝手なものだった。小難しいことを抜きに要約すれば、死んで楽になりたいからって他人を利用するとはどういうことだという話になる。


 しかも予想外な事態になったから、とりあえずお怒りなら原因を殺してスッキリしてください、それなら自分も好都合ですなんてとんでもないことを言うんじゃないわよ。そりゃあシュワイヤーも怒るはずだ。


 自分で言うのも恥ずかしいけれど、シュワイヤーはあたしを溺愛している。今まで努力が報われてこなかった、異世界に魂が適応できなかったあたしを甘やかすことで、昔の自分を甘やかしている。見知らぬ世界で心細く生きてきた小さな銀色の子猫を癒しているんだ。


 だからこそ、彼はあたしという存在が傷つくことを許さないのだろう。それは誰も手を差し伸べてくれなかった過去の自分自身を、もう一度見捨てることに等しいのだから。


 あたしは片手を思いきり振り上げる。打たれると思ったのか、『聖女』は反射的に眼をつぶった。生意気な言葉と余裕を見せた態度とは裏腹に、その小さな体は小刻みに震えていた。長い長い間、時を止めた永遠の少女。


 あたしは、振り上げた手をそのまま『聖女』の鼻におろし、形の良い鼻をむぎゅっとつまんでやった。まさかそんな子どもじみた真似をするなんて思ってもいなかったのだろう、目を白黒させてあたふたしている。ふん、どうよ。『聖女』にこんなことする無礼者なんて、いなかったでしょ。


「あたしは確かに今まで生きていた向こうの世界から、無理やりに連れてこられた。連れてくる方法も乱暴だったし、未練だって少しはある。けれど、あの世界は本当にあたしにとって生き辛い世界だったから、この世界に来たことは今ならラッキーと思えるくらいに気に入っているの。向こうの世界ではパッとしなかったあたしも、ほら、絶世の美女に変身よ」


 くねくねとポーズを決めるあたしを呆然とした様子で見つめてくる『聖女』。そりゃあね、まさかこんな展開になるとは思ってもいなかったよね。でもあたしはもともと能天気なのだ。日本にいるときに、何でも笑ってやり過ごしてきたのは確かに処世術の一つではあるけれど、もともとのあたしの本質が楽観的だったことは否めないと思う。


 何といっても、おおらかのO型、大雑把のO型。もう今さら起きてしまったことをぐじぐじしたってしょうがないじゃない。おまけにここに来る前に一度シュワイヤー相手に爆発しちゃっているから、怒りのエネルギーなんてもうあんまり残っていないんだよ。単純な人間でごめんね。


「もちろん、だから全然気にしてないとは言えないし、あなたにも全然気にしないでいいよなんて言ってあげられない。けれどだからと言ってあたしは、元の世界に戻りたいとも思っていないし、あなたのことを殺してやりたいほど憎いとも思っていない」


 それにね、もう何と言っていいのやら、自分以上のハイレベル不幸話に正直動揺しちゃってるんだ。こんないたいけな少女に、怒れないよ、やっぱり。


「それにね、『聖女』のことはともかく、一枚目のパンケーキちゃんのことは嫌いじゃないんだよ。自分じゃどうしようもない過酷な状況で生き抜いてきたんだよね。違う世界で溺れそうになりながら生きてきたあたしにはあなたのことが他人事には思えない。あなたとあたしは、きっと似た者同士」


 ぺたんと床に座り込んだ聖女の横に、一緒にしゃがみ込む。

 そのまま、『聖女』をぎゅっと抱きしめた。シュワイヤーの濃厚スキンシップに慣れすぎたあたしに、向かうところ敵なしだ。日本人的な羞恥心とか、無限の彼方へ棄て去りましたよ。そのままその背中をぽんぽんと叩きながら、あたしは語る。


「ねえ、一緒に幸せになろうよ。せっかくこの世界であなたもあたしも新しい力をもらったんだもん。わざわざ嫌なことばかり探し出したりして腐らなくてもいいじゃない」


 確かに『聖女』から聞いた北の国の王の仕打ちはクズだし、この世界がリーファ至上主義というのなら、強制的に見守る義務を負わされた『聖女』は嫌になって当然なのだ。


「あなたは優しすぎるんです」


 ギリギリとものすごい歯ぎしりをしながら、シュワイヤーは『聖女』のことを睨みつけていた。ちょっと、あたしと『聖女』を引き剥がそうとがしがし間に体をねじ込んでくるのやめてくれないかな。シュワイヤー、あなたは一体どの部分に怒っているのかしら。赤ちゃんかえりした子どものように、地団駄を踏むのはやめなさい。


「あなたって本当にお人好しで大バカ者ね」


 耐えきれなくなったのか、彼女はお腹をよじらせて笑い始めてしまった。おかしすぎるなんて、ひいひい笑ってるけれど、そんな風に笑っている自分の顔が一番おかしいことに気づいているかい?


 笑いながら泣くのはやめて、泣くか笑うかどっちかにしたらどうだい。顔が盛大に崩壊しているよ。しゃっくりあげながら壊れたスピーカーみたいに、笑い続ける『聖女』なんて、神殿の人が見たら腰を抜かすんじゃないかな。


 彼女が落ち着くまでの間、あたしはずっと背中を撫ぜていた。シュワイヤーもこんな気持ちであたしを慰めてくれたのかな。


 この背中を撫でているのが、あたしではなくシュワイヤーだった可能性も存在したのだろう。シュワイヤーがあたしではなく、この少女を愛した未来だってあったに違いない。けれど『聖女』は予言の魔女の手は取らずに、神殿で一人きりの道を選んでしまった。


 悲しいことを知っている人間が、人に優しい人間になるんじゃない。それならば『聖女』が追い詰められることもなかった。誰かに優しくされたことのある人間じゃないと悲しいことだけれど、人には優しくなれない。辛いことを知っている人間が他人に酷いことをしないなら、この世の中には犯罪も虐待の連鎖も起きないはずなんだから。


 あたしがこうやって『聖女』を許せるのは、今自分が満たされているから。きっとそれは母なるこの世界に受け入れられたこととシュワイヤーの暑苦しい愛情のおかげ。


「『聖女』とか『一枚目のパンケーキちゃん』とかって、呼びにくいから新しい名前をつけようか」


 いまだ顔面が崩壊したままの彼女に、あたしは声をかける。まだ初心者のあたしには、いきなり『聖女』の役割を解いてあげられない。それが意味することをまだ何も知らないから。だから、今のあたしにできることで彼女を新しくしてあげたかった。


 『聖女』でも一枚目のパンケーキちゃんでもない、一人の人間として、新しい人生を歩んでほしい。それは確かにあたしのエゴでしかない。けれど、もしも本当にあたしに力があるというのなら、彼女もリーファも、『聖女』ではなく姫君でもなく、一人の人間として笑っていられるような、そんな世界が見たかった。


 冬の三の月が終わりを告げ、春の一の月が始まろうとしていた。


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