37.方向音痴なあたしと1枚目のパンケーキちゃん 前編
「こんなだだっ広いところじゃ、手持ち無沙汰過ぎるわ。こっちに来て」
聖女は姫君たちを王宮に送り出すと、あたしを聖女の衣装部屋なるものに引っ張りこんだ。シュワイヤーですか? 乙女の聖域に入るなんてと聖女に言われながらも、もちろんあたしにひっついてきてますよ。
衣装部屋には、色とりどりのドレスの他に、繊細なレースの下着なんかももちろんあるのだけれど、恥ずかしげもなくそれを見た挙句、聖女にどこで購入したのか真面目な顔で尋ねていた。それ、もしかしなくてもあたし用ですよね? 聖女の生温かい目が辛いです。猫にはやはりデリカシーという言葉はない。
「何から聞きたいかしら?」
先ほどまでまとっていた朝焼け色のドレスを無造作に脱ぎ捨てて、下着姿になると聖女はあたしに尋ねた。どういう仕組みなのだろう、ドレスを脱いだ聖女の髪は赤銅色から、薄墨色へと変わっていた。
つまらなそうに瑠璃色の宝玉が埋め込まれた髪飾りを身につければ、髪は一気に濃藍色へと変わる。それをまた放り投げ、エメラルド色のイヤリングを耳にぶら下げれば、髪はまたもや海松色へと色を変えた。
この仕組みを先に聞かせたいのかと思うような聖女の仕草だが、鏡を真剣に見ている姿を見ると、やはり単に今日のドレスがお気に召さなかっただけのようだ。次から次へと高価そうなドレスやアクセサリーをつけてみてはそこら辺に放り投げる気ままな少女。なぜこんな年端もいかない彼女に、男たちが心酔するのかあたしには理解できなかった。
確かに二次性徴前の幼い体と、それに似合わぬ「女」を彷彿とさせる仕草や言葉は一部マニアの方にはたまらないとは思いますが。いやあ、やっぱりあたし的にはボンキュッボンの出るとこ出て引っ込むところ引っ込んだ美人のお姉さんの方がいいと思うけどねえ。例えば姫君みたいな。
ここへ来て、あたしは口ごもる。聖女の目的やあたしを呼び出した理由、聞きたいことはもちろんたくさんある。けれどあたしはあまりにも聖女のことを知らなすぎる。あなたは一体誰なの? 聖女という存在は一体何のためにあるの? たくさんある質問の中からあたしが選んだのは、英語の教科書に載っているかと思うような定例文だった。
「あなたの名前は何ですか」
いつまでも『聖女様』じゃあ、やりにくい。とりあえず、自己紹介からお願いします。シュワイヤーはこういうとき、あれだけよく回る口をはさむことはない。あたしの好きなように、質問するなり問い詰めるなりすればいいということなんだろう。聖女のことを脅威と感じていないのかもしれない。
別に衣装部屋の中身を物色して、次にあたしに着せるドレスの参考にするのに忙しいだけとかじゃないよね? 聖女が脱ぎ捨てたドレスをきちんと拾ってハンガーにかけたのも、ぐちゃぐちゃにシワがつくのを防ぐためで、思いっきり背中の開いたドレスの型を取ろうとしているんじゃないよね?
あの、あたしガーターベルトにはそこまで心惹かれないっていうか、何でそんな熱心にスケッチ取り始めたの? ってかどこからメモ用紙とか持ってきた?! ちょっと心配になってきた。
「そこから質問するなんて、やっぱり魔女って面白いのね。神殿に入れば聖女という名の記号になると思っていたのに。権力がある人もない人も、信仰心がある人もない人も、『聖女』にそんなこと聞こうともしなかったわ。まさかここにきて、一人の人間として扱ってもらうことになるなんてね、嬉しいわ。質問に答えるけど、聖女になる前はね、一枚目のパンケーキちゃんって呼ばれてたのよ」
「一枚目のパンケーキちゃん?」
耳慣れない言葉に、あたしは首を傾げた。そのままおうむ返しに言葉を繰り返す。聖女はあたしの反応が気に食わなかったのか、可愛らしくほっぺたをぷっくり膨らませ、ぶうぶう文句を言う。
「あらあなた、魔女のくせにパンケーキも作ったことないの? 一体今までどんな生活していたのよ。全部外食で済ませてたり、人に手伝ってもらってたんじゃないでしょうね。朝食くらいまともに作れないと、お嫁に行けないわよ。本当に最近の若い子ときたら、全く」
「大丈夫ですよ。どんな料理が出てきても、あなたが作ったものであればすべて自分がおいしくいただきますよ。多少焦げていようが、生焼けだろうが、傷んでいようが、幻獣はそうそうお腹も壊しませんし。ふふふ、お砂糖とお塩を間違えたり、包丁で指を切って涙目になるあなたも可愛いですよ。安心して下さい」
「なんであたしが料理できない前提で話進めてんの?! しかもさらっとドジっ子属性を勝手に追加するのやめてくれない?! 何なの、そういうのが好みなの?! パンケーキというか、ホットケーキなら子どもの頃から死ぬほど作ってるからそうそう失敗しないからね!」
まあ、すべてホットケーキミックスを利用ですがね。ベーキングパウダーやバニラエッセンスは、冷蔵庫の中でとうの昔に賞味期限切れさ。ちなみに最近はホットケーキミックスのことをHMとかホケミとか略すんだよ。ジェネレーションギャップの壁はどこかしらね。
「料理も普通にするよ! 確かにクック◯ッドのレシピ見ながらの料理だけど、今時の結婚前の女性でレシピ見ずに料理するなんて、下手したらメシマズ一直線だよ。むしろちゃんとレシピを確認して、変なアレンジも加えずに作るあたしはまともな部類でしょ」
全力で否定するあたしを、胡散臭げに見やると、よくわからないけど、まあそういうことにしといてあげるわと聖女は投げやりに言った。
おかしいよね、このシチュエーション絶対におかしいよね? フォローのつもりか、シュワイヤーが好みの色について聞いてきたので、今手に持っているものから察するに多分下着の色だろうとあたしは予想し、八つ当たりとして、足をヒール部分でぐりぐり踏んでやった。え、なんで愉悦んじゃってるの?!
「パンケーキを焼くと、一枚目は焼き色がまだらになることがあるでしょう? あれはね、フライパンが十分に温まっていないとそうなるの。だからちゃんとフライパンがまんべんなく温まった二枚目からは、ちゃんと両面こんがりきつね色になるの。一枚目の見た目が悪いパンケーキは、出来損ない。だからこの辺ではね、一番初めに生まれた子どもが出来損ないだと、一枚目のパンケーキちゃんって呼ばれちゃうのよ。いつもそう呼ばれてたもんだから、本当の名前なんて忘れちゃったわ」
聖女は、どこか懐かしいものを見るようにそう教えてくれた。あまり素敵なニックネームとは思えないけれど、彼女にとっては家族と過ごした愛おしい記憶の一部なのだろう。そんな彼女の横顔は、急に大人びて見えて、あたしはどきりとする。ころころと印象が変わりすぎるせいで、あたしは反応に困ってしまった。
そのまま彼女は、何かを小声で歌い始める。それはわらべうたのように不思議な歌詞だった。