34.方向音痴なあたしと神殿の聖女 前編
翌朝は昨夜の吹雪が嘘のように驚くほどの青空だった。ものすごく寒いけど。いつになったら零下二桁の日々に終わりが来るんでしょう。突き抜けるような青空の清々しさが、今はちょっぴりまぶしくて目が痛い。あの後、結局小心者のあたしは、ほとんど眠ることができなかった。
だって、人生でそうお目にかかったことのないイケメンが、素敵低音ボイスで寝台で腕枕ポーズしながら、「おいで」なんて言うんですよ。そんな奴の隣でぐうすかよだれ垂らして寝れるほど、女捨ててないっつうの。しかも相手は隙あらば、こちらを美味しく頂こうとしてくるやつですよ。
横たわるイケメンの隣で必死で色っぽいムードを阻止するべく、あたしがおかしくしてしまった離宮の温熱機構について朝までレクチャーを受けました。いや本当はね、あたしがこんこんと寝ちゃっている間の出来事を聞こうとか思ってたんだよ。
冬の一の月から冬の三の月、まあ微妙なズレはあるけれど日本で言うところの一月から三月っぽいところまで冬眠しちゃうとか、あんまりでしょう。あんだけ姫君に頼りにされていたのに、実質寝ているだけだったなんて申し訳なさすぎるし。
でもそんなことをちらりとこの男に言ったら、目の前の自分を無視して違う相手のお話ですか……なんてお怒りスイッチが入っちゃって、ただでさえディープなキス以外のお仕置きもされちゃったからね……。もうやだ、あの長くて綺麗な手の指、凄すぎるんだもん。
ダメだ、なんかムラムラしてきた。ま、まあそういうわけで、必死に出した次の話題が壊れた温熱機構だったわけ。文系のくせに化学メーカーに就職しちゃったあたし的にも、暖炉ではないこの離宮の暖房の仕組みがちょっと疑問だったし。目の前の猫なイケメンは、面白そうな顔であたしを見ながら、懇切丁寧に説明してくれましたよ。
死にそうになりながら睡魔と戦っていたら、久しぶりに高校時代のテスト前によく見ていた悪夢を思い出しちゃって、もう最悪ですけどね。なんで社会人になってまで、数学のテストで赤点を取る夢を見なきゃならんのだ。まあ一応成果もあったけど、それは置いといて。
おかげで朝からシンシアさんが部屋に朝食を持ってきてくれた時には、ゾンビのように虚ろな表情をしたあたしが発見されることになった。せっかく美女になったっていうのに、久しぶりのメイドさんからの言葉が、目の下すごい隈ですねっていうのはやっぱりおかしいと思う。おかげで変身したあたしの姿に対しての感想も聞けずじまい。それこそ劇的ビフォアフターなのに!
ちなみに朝食は、一ヶ月以上断食していたという理由から、病院でもお目にかかったことのないような、うっすい味の野菜スープでした。シンシアさん、胃に優しいとかこの際無視してくれて構いませんので、あたしこってり肉とか食べたいです!
食事の後にお風呂に入りたいと伝えてみたのだけれど、今から神殿に謁見に行くので湯冷めして風邪引くのがオチですよと一笑に付された。それに毎日あなたの下僕が綺麗に拭いてくれていたから、大丈夫ですよって言ってたけれど、それ全然大丈夫じゃないよね?
まず下僕ってどういうこと? そしてもし仮に下僕が予想通りあの猫だったとして、人が寝ている間に全裸に剥くとはどういう了見だ! でもあたし小心者だから、その件について問い詰められませんでした。朝から変な感想とか聞きたくないです。
さて話は変わるけど、今日のあたしは、繊細なシルバーグレイのIラインのドレスを着ている。昔のつるぺたなあたしが着ると、なんの面白みもないドレスも、出るところは出て引っ込むところは引っ込んだ美女が着れば、この上なくゴージャスなドレスに見えた。ところどころキラキラと輝いているのは、まさか本物のダイヤと真珠なんてことはないでしょうね……?
ドレス全体に施された繊細な銀糸の刺繍も、控えめになりがちなこの色のドレスの美しさを際立たせている。この完璧にあたしにフィットしたシルバーグレイのドレスは、シュワイヤーからのプレゼントなのだそうだ。どうして寸分の狂いもなくジャストフィットなのかについては、もう考えないようにしておこう。
どういう事情か、神殿にはあたしと姫君は別行動で行く予定になっている。シンシアさんが用意してくれた馬車には、真っ白な牝馬が二頭繋がれていた。姫君を慕う妖精女王が仕立てた馬車を引く馬が、ただの馬だとはもちろん思えない。
翼はないからペガサスなんてことはないだろうけど、ユニコーンって可能性も残っている。各種圧力で、角を一時的にどうにかしちゃったかもしれないし……。ほら、生え変わりとか、切断とか。角を折っても翼を折るよりは痛くないだろうし。これで斜め上のケンタウロスとかだったら嫌だなあ……。
じっと見つめるあたしの視線に気づいたのだろう。二頭の牝馬も真っ黒なつぶらな瞳で、じっとあたしを見つめ返してきた。サラブレッドだろうが、ペガサスだろうが、ユニコーンだろうが、とりあえず馬はみんな賢いそうだし、自分が認めない相手は乗せないという話も聞いたことがある。とりあえずここはひとまず挨拶でもしておくか。
「こんにちは。今日はどうぞよろしくお願いします」
深々とお辞儀をしておく。これ、相手が単なる馬だったら、端から見て本当にアホな光景だろうなあ。急にあたしは恥ずかしさがこみ上げてくる。やっぱりまずかった? 考えすぎだったのかな? 顔がかっと熱くなったのが自分でもよくわかる。
その時、牝馬がにこりと微笑んだ。いや、馬の笑顔とか正直よくわからないけれど、テレビの動物面白画像特集みたいに歯茎びろろろんってめくれてるから、多分笑ったんだと思う。
「こちらこそ、導引の魔女殿にお会いできるなんて光栄だわ。ユニコーン仲間に自慢できるわね」
ぶるるるるんといななきながら笑う白馬は、やはりただの馬ではなく幻獣ユニコーンでした。よかった、単なる馬として扱っていたら駄馬扱いする人間は乗せんとか言われて、後ろ足で蹴られたかもしれない。命拾いした。
ちょっと気になったので聞いてみたら、ユニコーンでも幼い子どもたちには角がないそうだし、雌にも角はないのだそうだ。へええ、ユニコーンの生態ってなんだか奈良にわらわらいる鹿みたいだね。鹿せんべいはこの世界にないけれど、ちょっと聞いてみたらニンジンや角砂糖は大好きなんだって。そこの嗜好は馬と一緒なんだね。
まあ、そんなこと言ったら馬扱いするなとか、鹿と同列にするとは何事かなんて言われそうだから、ちゃんと黙ってたよ。シュワイヤーがこっちを見ながら、にやりと口の端で笑っていたから、彼にはあたしの考えることなんてお見通しみたいだったけどね。
そのシュワイヤーは、嘘くさいほど爽やかな笑顔で、馬車に乗るあたしの手を取ってくれた。ついでに馬車に乗る直前、シュワイヤーの前を一瞬通り過ぎる時に、耳元にキスを落とされた。つい先日まで姫君の前で猫の振りをしていたが、彼曰く自重しても意味がないということでこれからはぐいぐい前面に好意を押し出す方向で行くそうだ。
美味しそうな甘い匂いを振りまくあなたが悪いと、悪びれもせずに微笑むイケメン。正直に言いましょう。うん、悪くないわ。ホストクラブで破産する女性たちの気持ちが、今ならちょっとわかる気がする。
がたことがたことと揺れる馬車に乗って、神殿までのちょっとしたお出かけ。開始十分でおしりが痛くなりました。そうよね、異世界の馬車にサスペンションががっつり組み込まれてるはずもないし、この展開は予想すべきだったわよね。何せ、体が変化したおかげで普段なら速攻で乗り物酔いになるはずのあたしが元気に過ごせるもんだから、車窓の景色に夢中になっておりました。
おしりの骨に振動がダイレクトに響いて痛い……。クッションを持ってくるべきだったわ。ちらりとシュワイヤーを見ると、どういうわけか平然と座っている。なんでよ。魔法か、やっぱり魔法なのか? 裏技があるならあたしにも教えなさいよ。
「おしりが痛いんでしょう?」
おかしそうに彼はあたしを見て笑う。今日のこの男の服装は、いつもよりも暗い灰白色の布地に銀糸の刺繍が施された司祭服だ。もしかしなくても、こいつ、自分の司祭服とあたしのドレスの色をかぶせてきたわね。しかもどちらも幻獣の時の毛皮と同じ色なんだから、いやらしいというか、独占欲丸出しというか。
今までの陰険さが嘘みたいに、熱烈に好意を寄せられると弱いんだからあたしも相当チョロインということか。実はドレスとセットで、シュワイヤーの瞳によく似た琥珀色の透明感のあるネックレスも用意されていた。もちろん身につけてますけど、何か?
シュワイヤーはすらりと長い脚を見せつけながら、ぽんぽんと両手で膝を叩いた。ええと、つまり膝の上に座れと? うろんな眼差しで問いかけるあたしに、銀色の男は艶やかに微笑んだ。いやいや、子どもじゃあるまいし、やったあなんて膝に座ったりしないからね。いくら馬車の中に他人がいなくても、それはあんまりだ。
「乗り心地は保証しますよ?」
なかなか色よい返事をしないあたしに業を煮やしたのだろうか。そのままあたしの返事なんて聞かずに、さっとあたしをお姫様抱っこして座りなおすと、一人ご満悦になる。うん、姫君がこの馬車に同乗しなかった理由がちょっとわかる気がした。嫌だよね、こんなベタベタ甘い奴、いや奴らが同じ空間にいたらねえ。
ちなみにあたしがなぜ抵抗しないかというと、朝の食事の際に、あたしにスープをふうふうあーんして食べさせたい甘やかし男と、自分でスープくらい食べたいあたしとの間で実にくだらない攻防戦が繰り広げられていたからだ。その戦いの中で精神力をゴリゴリに削られたあたしに、戦う気力など残っていない。
だって話し合いが長引くほど、『単なるふうふうあーん』が『お膝の上でふうふうあーん』、最後には『口移し』になるんだよ。どんな顔して戦えばいいんだよ! 今にして思えば、その内容がシンシアさんを通じて姫君に伝わっていたのかもしれない。
そのままあたしの脚を撫でさする。誰か! ここにセクハラ男がいます! そういや、会社員時代にセクハライエローカードとレッドカードなんてモノを人事に頂いたことがあるけれど、あの無意味なグッズ今でもあるのかしら? 遠い目をしたあたしのことを気にする様子もなく、ドレスとあたしの脚を交互に見比べる銀色猫。
せっかく美しい脚なのに、魔女という理由でドレスにスリットが入れられないなんてもったいないとか、あたしの耳には聞こえませんよ。いや本当に、部屋で二人きりの時くらい是非ハイヒールをなんていう脚フェチな話も、絶対に聞こえません! 何なんだよこの世界、姫君から聞いてはいたけれど、何でこうも美脚至上主義なのさ。
今からくだんの聖女の元に行こうというのに、この呑気さは一体何なんだろう。ゲームのボス戦する時の方が、よっぽど緊張感があるんじゃないだろうか。もともと聖女側に何らかの事情があって、かなり強引な手段でこちらに連れてこられたんだよね、あたし。こんな風に、お散歩気分でのこのこと相手の懐に飛び込んで大丈夫なんだろうか? そう問い詰めるあたしに、シュワイヤーは意味深な笑いを浮かべた。
「あまりいろんな情報を与えすぎると、あなたはまたどうにかしようと自分で抱え込んだりするでしょう。あなたみたいに騙されやすく、人を信用し過ぎる人間は、どんなに情報を持っていても結局そう合理的には決められないんですよ。それなら最初から事前情報なしで会って、いっそのこと相手を見た時に感じた好き嫌いで決めてしまえばいいのです。聖女の意向など、この際無視してしまえば良い。それに完全な変化を果たしたあなたを、聖女ごときがどうこうできるものでもありません。堂々としていれば大丈夫です」
ちょっとちょっと仮にも聖女サマに向かってわがままむすめとか小娘とか……。まあ人の生き死にを無視した召喚を行うくらいだから、そんなに期待はしていなかったけれどさあ。
ただ、目の前の男の言葉がちょっと気にかかる。若干あたしのことをアホだと言っているのはまあしょうがないとして、情報を持っていたらそのとんでもない聖女のこともあたしがかばうとでも言いたげな発言。ううん何というか、この事前情報だけでも先行きさらに不安です。大丈夫かな?