30.方向音痴なあたしと真夜中の訪問者 前編
夢を見ていた。
懐かしいオルゴールのメロディーがゆっくりと聞こえる、ただそれだけの夢。幼い頃から繰り返し感じてきたひだまりのように暖かい世界。柔らかくおぼろげな光に包まれた景色は、その形が曖昧でいつも判然としない。オルゴールのメロディーもこれだけ懐かしいと感じているのに、現実の世界では口ずさむことさえできない。
どこか家の中にある実在するオルゴールだと思っていたけれど、転勤族の我が家にはそもそもそんな壊れ物なんて置いてなくて、いったいどこで覚えたメロディーなのか、不明のまま。けれどあたしはその音色が特別なものだということだけは知っていて、訳もわからぬまま時折その音色に涙を流すのだ。
あたしは自分がこの夢を見ているときに、それが夢だということを半分理解している。それでも、残りの半分は疑問を抱きながらも夢に囚われていて、いつもどうしていいかわからなくなってしまう。ずっとこのままでいたくても、それができないことを知っているから。心から安心できるこの場所で、ずっと揺蕩っていたいのに。どうかお願い、あたしをこのままこの懐かしい場所にいさせて。あたしを元の場所に戻さないで。
オルゴールの音は遠のいていく。夢が終わるのだ。それもまたいつものことだとあたしは知っている。喉の渇きと妙な息苦しさを覚えて、あたしは目を覚ました。見たことのない天井に一瞬自分がどこにいるのかわからなくなり、慌てて部屋全体を見渡す。ホテル、それもショボい会社員の給料では泊まれないリゾートホテルのような一室のベッドに、あたしはいた。
自分の全身をざっと確認してみるが、特に乱れた様子もなく、風呂上がりに着たメイド服とかぼちゃパンツもそのままだった。あたしの記憶では、ハイエルフ様の未来視をしていたはずだったのだが、どうやらそのまま寝てしまったらしい。何と言う不覚。あの後他の人たちはどうしたんだろう。
姫君は無事に使者たちを追い返せたのだろうか? さすがに使者たちに拉致されたのであれば、いくら寝汚いあたしでも目覚めるとは思うんだけど……。とりあえず今の時間が何時なのか確認したい。そして水も飲みたい。あたしは丁寧に揃えられていた靴を履いてベッドから立ち上がる。少しだけ違和感を感じたけれど、その正体が一体何なのかわからなかった。
窓から外を見ればまだかなり薄暗い。深夜か明け方か、いずれにせよこのままベッドに横になり朝まで過ごすには少しだけ持て余しそうだ。ホテルならば部屋にミネラルウォーターがあったりもするが、あいにくこの世界では期待できない。陶器で出来た小洒落た水差しと、キラキラと輝く切子細工の小さなグラスがベッド脇のサイドテーブルに置いてあった。
ただ残念ながら、水差しの中身は空のままだ。気の利いたメイドさんなら、空の水差しをこんなところに置いたりはしないだろう。この離宮に勤めるメイドさんが、そんなうっかりミスをするとは思えなかった。それなら、この水差しに水が満たされていないのには理由があるはず。
まさかそんなはずはないだろうが誰かが勝手に飲んでしまったか、あるいは……水を飲みたいタイミングで水を発生させるのか。あたしは自分の思いつきにおかしくなって、ランプの精でも呼ぶように水差しを軽く擦りながらつぶやいてみる。
「お水よ、いっぱいになあれ……なんてね」
その瞬間、水差しに透き通った水がなみなみと満ちていた。驚いて取り落としそうになるのをぐっとこらえて、ゆっくりとサイドテーブルの上に置く。ナイス、あたし! おっちょこちょいなあたしとしては、信じられない速度で水差しをキャッチしたことに自画自賛する。水差しはその中にたたえた水のおかげでひんやりとしていた。ゆらゆらと揺れる水面をのぞいてみれば、あんぐりと口を開けた女の顔がうつっている。
トイレも水洗だったし、まあこの世界のお水とはこういう出し方をするのかもしれない。平凡なあたしが、いきなり魔法を使えるようになるなんてどうかしている。きっとこれはこの世界で当たり前に普及している道具か何かなんだろう。また改めて誰かに聞こうと思い、ひとまず気持ちを落ち着かせるために水を一杯頂くことにする。田舎の天然の湧き水と言っても過言ではないほど、柔らかい口当たりで美味しい。
一息ついたあたしは、ふとベッドの向かいに鏡が設置されていることに気づく。実はあたし、鏡がちょっと怖いんだよね。ほら怪談とかで定番じゃない? 夜中に鏡を見ると、いないはずの誰かが映っているって言うやつ。あたしはビビりなせいか、昔からちょっとおかしなことに出逢うことが多かった。霊感なんてないと断言する。じゃないと、その微妙な出来事が怖すぎます。
見たいような見たくないような、それでもやけに鏡が気になってしまう。先日レーシック手術をしたおかげで、遠くまで見えるようになったのが災いしたわ。仕方ないから、腹をくくって見ることにした。どうか何も変なものが映りませんように!
意を決して鏡を覗いたあたしは、水差しに水が満たされた時以上に驚いた。正直、変な声で叫んでしまったと思う。鏡の中には、確かに一人しか映っていなかった。良かった、お化けはいなかった! これだけならそれで話は終わっていたのだけれど、そうは問屋がおろさなかった。だって鏡の中には見慣れたあたしとは異なる女性が映っていたのだから。
あたしが後ずさりすれば、相手も後ずさりする。あたしが驚いた顔をすれば、鏡の中の女性も驚く。まさか……。この鏡の中の女の人、これがあたし? 鏡の中にいたのは、まごうことなき美女だった。しかもすっぴんの天然もの。落ち着いて見れば見るほど、あたしとは全然違う美人なのに、どこからどう見てもあたしだとしっくりとくるこの不思議さよ、これ如何に。
あたし、二重になってる! しかも急激に痩せたのか、顔もほっそりしていた。少しでも太れば真っ先に顔にお肉がつく難儀な体質だったから、こんなにほっそりした顔は何年ぶりだろう。
これ、あたしまだ寝ぼけてるわけじゃないよね?
確かに、昔からもっと顔が小さくなりたいとか、もっと目が大きくなりたいとか、腫れぼったい一重瞼じゃなくてぱっちりとした二重瞼になりたいとか、ちんまりした鼻じゃなくてすっきりとした鼻筋になりたいとか、たくさん憧れがあった。
けれど整形するほどの勇気もなく、努力で前向きな改善を図っていた。こんなにリアルな夢を見るほど、行き詰まりを感じてはいなかったはず……。いやまあ、親から整形して二重瞼にしたらとか、修学旅行で朝から目が腫れてると友達に大変心配されたりとかしているから、コンプレックスはそれなりにありましたけども。
ちなみに化粧では特に目に力を入れてました。大学生の頃から毎日アイプチとつけまつげをしていたからね。社会人になって金銭的に余裕が出来てからは、二週間に一度一万円かけて、まつげエクステに通っていた。レーシック手術を受ける前は黒目が大きくなるタイプの使い捨てコンタクトを愛用していたし、アイラインはがっつり瞼の内側ギリギリまで引いていました。
お肌も吹き出物もそばかすも見当たらない。まさに陶器肌。今まで、肌を綺麗に見せるためにプチエステや美容家電も結構購入したし、ドラッグストアじゃなくて美容部員さんに相談しながら結構お高い化粧品をライン使いしていた。その甲斐あって、ブスではなく人並みの容姿は保っていたはずだけれど、一体何がどうしちゃったっていうの。
鏡の中の美女をじっくり眺めていて、あたしはようやく、妙な息苦しさの正体に思い当たった。寝る前はちょうど良かったはずの小さめメイド服にカボチャパンツ。それが今ではぱっつんぱつんに体に食い込んでいた。思い切ってブラウスのボタンを外してみる。絶壁だったはずのささやかな胸の膨らみが、両手でむんずとつかんでもまだ溢れんばかりに豊かなものへとなっていた。
神様、これは一体どういうことでしょう?
以前訪れた台湾で夢の変身写真を撮影した時も、これほどまでの変化はなかったですよ。あの時も結構なお金と時間をかけて、濃いメイクに光マジックにフォトショを駆使して変身したはずなのですが、それを凌ぐ出来です。幸せすぎて、この現象の意味を考えるのが怖いです。