2.方向音痴なあたしと異世界の魔導士 後編
お食事中の方には、不快な表現があります。
ご注意ください。
深い深い闇の中を、ただ落下していく。しかもありえないほどに高速で。
今のあたしは、命綱なしバンジージャンプ状態だ。高所恐怖症だから、バンジージャンプなんてやったことないし、一生やるつもりもなかったけど、人生ってわかんないもんだよね!
目をつぶってしまえば、自分が今上を向いているのか、下を向いているのかさえわからなくなりそうだ。思わず、あたしの手をつかんでいる相手に縋り付くと、迷惑そうに腕を払われる。
ひ、ひどすぎる。あんたには、人の心ってもんがないの?!
よく見ればコスプレおにいさんは、この暗闇の中、薄く青い光に包まれている。背の高い金髪碧眼のイケメン外国人が、光に包まれている様子は、いっそ幻想的ですらある。
OK、わかった。ここまできたらもう認めようじゃないか。このおにいさんは、コスプレおにいさんなんかじゃない。極悪非道な変態おにいさんだ!
だっておかしいじゃないか、高速で落下していく中であたしは風圧にもみくちゃにされているのに、あいつは髪の一筋も微動だにさせていない。まとっている深い青のマントが、ふわりふわりと風をはらむせいで、ようやっと相手も同時に落下しているのがわかるくらいだ。
隣のあたしがカバンを落とし、ヒールも片方脱げ、スカートも笑っちゃうほど上にまくり上がっているっていうのに! これは確実にストッキング伝線してるだろうし、涙と鼻水で顔もぐじゃぐじゃだ。ここだけの話、漏らしてないのが奇跡。
声の限り泣き叫べばこの恐怖もぶつけようのない苛立ちもまぎれるのかもしれないが、カラカラに乾いた口からはかすれたような声が漏れるだけだ。
あたしはただひたすら耐える。だって今声をだしたりしたらあたしは…。
「ギャーギャー泣き喚いたら、声が出ないように喉を潰そうかと思ってたけど、どうやらその必要はないみたいだね」
あたしの手をつかんだまま、おにいさんは冷たくつぶやいた。
「聖女様が、こんな凡庸な女を危険をおかしてまで連れてこいって言った時には耳を疑ったけど……。空間移動の最中に気絶もせず、叫びもしないなんて魔法耐性があるのかな? その割には、体の中から魔力の欠片も感じないし……って、おい、おまえ!」
急におにいさんが、あたしの肩を掴んで、ぐらぐらと前後に揺さぶる。
動揺したのか、おにいさんを包む青い光の輝きが強くなる。
ううっ、やめて、そんなんされたらあたし、もうだめ! 我慢できない! 真っ青な顔のまま、涙目でおにいさんを見上げる。
おにいさんは、そんなあたしが見上げないといけないくらいはある。頭一つ分の身長差。
そんなおにいさんの胸元に頬をおしあて、荒い息のままあたしはつぶやいた。
「ぎ、ぎぼぢわるひれふ…」
何を隠そう、あたしはド級の乗り物酔い女だ。
方向音痴、高所恐怖症、そしてお次は乗り物酔いですよ、はい。
遊園地のコーヒーカップでやらかしたこともあるし、体の中身がどこかにいってしまいそうな気がするからエレベーターにも乗れない。
自分で運転していても気分が悪くなるから、ペーパードライバー。自動車学校卒業後、つつがなくゴールド免許になり、以降、無事故無違反更新中である。
方向音痴なあたしが免許取ることがそもそもの間違いって話もあるけど、聞こえない聞こえない。
「おい、おまえ最悪だな! 絶対吐くなよ。この服は聖女様の祝福を受けた時に着ていたものなんだぞ! 汚したら、殺す! 聞いてるのか? 吐くなよ、絶対だぞ!」
おいこら、誘拐やら喉を潰すやら言う男が、リバースくらいで大慌てするなや。
面倒なやつめ。
おにいさんは、先ほどまでの冷たい声とはうってかわって、焦りながら某愉快な三人組のようなことを繰り返している。おにいさんの周りの光は、明るくなったりうすぼんやりしたりと忙しい。
なんかこの光景見たことあるなー。ああ、そうだ、あれは確か熱湯風呂の前で、「押すなよ、絶対押すなよ!」ってやるやつだったっけ?
押すなよって言いながら、実は押されるのをまっているつていうお約束のやつ。ってことはつまり、あれだ! もうあたし我慢しなくていい!
天啓が降りてきたあたしは、本当にいい笑顔をしていたんだと思う。
あれほど強く握りしめていた手を振りほどいて、顔面に蹴りを入れられたのだから。
あたしまだ嫁入り前なのに!
大丈夫、歯も鼻も折れてない、口も切ってない!
カッコいい女に憧れて、十年間ずっと通った空手教室。
何年通っても上達せず、組手では後輩に負け、型も入賞したことなく、お情けでもらったも同然の黒帯。なんといっても努力だけはできる女だからね、あたし!
それでも痛み耐性だけは、格段に上がりました!
先生ありがとう! ようやくあなたの教えが今まさに役に立ちました。
あたしはようやく訪れた解放の時に打ち震えながら、意識を手放した。