偽穏(舞華&拓斗)
「偽穏」は造語です。
偽りの穏やかさ、という意味で付けました。
麗ちゃんに変化があったという日から私は毎日病院に顔を出していた。
「あら、舞華ちゃん」
病室には綾香さんが居て、いつものように優しい笑顔で私を迎え入れてくれる。
『麗ちゃん、どうですか?』
綾香さんは手話が分からない。
それでも人差し指を左右に振る仕草が “どう?” と訊いているのだと理解してくれたらしい。
「あの日から変化はないわ。ただ、先生が夢を見ているのかもしれないって言ってたわ」
夢……。
あの事件の日の夢?
私はベッド脇にある椅子に座って麗ちゃんの手を握り締めた。
麗ちゃん、あの人は逮捕されてるから大丈夫だよ。
皆も無事だし、何も心配は要らないよ。
麗ちゃんが帰ってくるまでちゃんと私が守るから。
GEMの音も信也さんも。
だから安心して?
あ、そうそう。
今年、GEMはレコード大賞にノミネートされてるんだよ。
去年新人賞もらったばかりなのに凄いでしょ?
春に出した曲だけど、タイアップもあってセールス面も文句なしだからきっと取れる。
麗ちゃんに見せてあげたいな……。
一緒に会場に行きたかったな。
私は麗ちゃんの手を握ったまま祈るように額に当てた。
麗ちゃん、いつになったら目を覚ますの?
皆万全の状態で麗ちゃんが戻ってくるのを待ってるのに。
麗ちゃん、麗ちゃんの声が聞きたい。
笑顔が見たい。
一緒に出掛けたいよ……。
「そういえば舞華ちゃん、誰に連れて来てもらったの?」
今日は生放送の番組に出演するため、GEMはテレビ局にいる。
結城さんも静のサポートをするために同行していた。
抜糸したとはいえ、完全に傷は塞がっていないため、無理は出来ないのだ。
『タクシーです』
手話で答えた私の手を見て綾香さんが首を傾げる。
私は理解できなかったのだと気付き、ジェスチャーで何とか伝えてみる。
「あ、分かった。タクシーだ!」
私の動きを見て綾香さんが言い当てる。
以前は綾香さんと筆談していたけれど、手話を覚えたいと言って綾香さんはこのクイズ形式の会話を望んだ。
それ以降、私は紙に字を書く事なく綾香さんと会話している。
「大丈夫だった?」
『紙に行き先を書いて見せたので大丈夫です。耳は聞こえてるし』
「え〜っと書いて……あ、紙に書いて運転手に見せた! 違う?」
私は正解を表すように両手を叩いて微笑んだ。
綾香さんと居る時間はとても楽しい。
話せない私や、眠っている麗ちゃんの相手をしていても常に笑顔でいてくれる。
その笑顔に私は癒されていた。
その日俺は、GEMに同行しテレビ局にいた。
最近はあまり出入りする事がない場所なだけに新鮮だ。
「結城さん、お久しぶりです」
俺の姿を見掛けて声を掛けてくる局の関係者や音楽関係者達。
簡単に会話を交わしてGEMと同じ控え室に入った。
「顔広いな」
静斗の言葉に思わず笑いが漏れる。
「取り敢えず昔は有名人だったし、今も音楽業界ではある程度名が知られてんだよ」
「舞華には負けるだろ」
「当たり前だ、あいつは海外でも知られてんだから」
舞華は十代からプロデュースを始め、まだ二十歳で経験も五年しかないにも拘らず、その完成度の高さからあらゆるジャンルの音楽関係者が協力要請してくるのだ。
声が出る頃の舞華には驚かされた。
英語だけじゃなく、イタリア語やドイツ語まで流暢に話せるからだ。
俺のフランス語や韓国語を合わせれば世界中に名を轟かせる事も可能だと思っている。
ピアノの腕もかなりのものだ。
麗華のように外交的な奴だったら間違いなくツアーに引っ張りまわしていた。
「でもさぁ、市原君の宣戦布告があったのに平和だよね」
涼が持参のレモン水を口に運びながら呟いた。
俺と舞華が市原に遭遇してから十日が経過している。
所詮一般人に出来る事なんて高が知れている。
「お前は不満なのか?」
信也が苦笑しながら煙草に火を点けた。
「何か不気味。あの子、何か恐いんだよね。何をやらかすか分かんないトコとか。水面下でとんでもない事態になってるんじゃないかって不安になるよ」
涼の言葉に司が顔を顰める。
「確かに」
信也が険しい顔を上げた。
「結城さん達が市原に遭遇した日の夜も、その次の日静斗が舞華を連れて来た日も誰かに見られていた気がする」
信也の言葉に緊張が奔る。
「んだよ、それ?」
舞華という言葉に静斗が反応する。
「社長には伝えておいた。でも、向こう側がすっ呆ける可能性も否定できないって言われた」
確かに、以前写真誌に英二が撮られた時もその週刊誌の売れ行きが良かったと聞いている。
注目されていればそれだけネタは高額で取引される。
レコ大にノミネートされているGEMは絶好の得物だ。
もし、俺達に絡んできた時に材料が揃っていたら……?
リハーサルを前に重々しい空気が俺達を包み込んだ。
「危険なのは金曜日だな」
司が呟く。
三十日に行われるレコード大賞に照準を合わせていたら、司の言うように二十六日の金曜日が一番可能性が高い。
「美佐子に連絡しとくか……」
「結城さん、私が連絡する」
「舞華のスケジュールも確認してくれ」
「OK」
信也の話が気のせいじゃないとしたら舞華が巻き込まれる。
信也を尾行していたのなら麗華の事も暴露される可能性もないとは言えない。
あの事件の事まで嗅ぎ付けていたら……?
事態は最悪の方向に向かってしまう。
舞華をメディアから遠ざけなければ……。
俺は友人のプライベートスタジオの存在を思い出して携帯を取り出した。
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次回更新10月01日です。
9月もあっという間に過ぎ去っていくなぁ……。