十七
「このままでは大雨で相当な被害を受けることでしょうね。畑はダメでしょう。町へ降りる道も塞がれるかもしれませんね」
ありえないとは言えないことだ。このままだと確実にそうなると容易に想像できるだけの要因が存在する。
「神様がいなければ、これまでの豊穣はあり得ないものとなるでしょう。子宝に恵まれることもなくなります、雷雨によって甚大な被害を受けるでしょう」
皆、神の加護を実感したことはないだろう。こじつけることは可能だが、こうなるまでその姿を見た者はなく、声を聞く者もなかった。
けれど、確かに野宮の言葉は村人達の心を動かしていたようだ。
「ずっと守ってもらってきたのに、恩知らずは俺達の方だなぁ」
「この子達の代、その先までどうかお守りください」
村人が地に膝をつき、頭を垂れ始める。手を合わせる者もいる。
雨足は強くなり、雷鳴も激しくなる一方だが、慈乃の側で小さな光が生まれる。あれは何だろうか、鎮は目を凝らす。
「足りない!」
慈乃が叫び、樹雨の体が傾ぐ。とっさに慈乃が支えたが、どちらも動きが鈍くなっているのは間違いない。降りしきる雨の中で消耗が激しそうだった。
「私は姉彩乃を許せるかと言えば何もかも許せないといったところだ。ひどい仕打ちを受けてきたと思う」
慈乃が真情を吐露する。許すと言えば疑わしくも思っただろう。
「しかし、同じ巫女として犠牲を無駄にするわけにはいかない。巫女彩乃は贄としてここに捧げられた。それを忘れるな。彼女へも祈ってくれ。あれは今やこの土地のもの、お前達の家族も同然だ」
「僕達は信仰の力がなければ何もできない。捧げられた魂も同じだ」
慈乃の後に樹雨が続く。光は少しずつ強くなっているようにも感じられた。
けれど、黒い蛇は村長達三人の体に絡みつき、彼らが苦しみ始める。
「たす、けて……」
もがき苦しむ声が漏れる。蛇の形をなす黒い霧、それが三人の首を締め上げている。だからと言って、助けてやろうとするには恐怖が伴う。鎮はすぐには動けなかった。
そんな中、誰かが動く気配があった。たとえ、悪徳でも同じ村の人間だと鎮は思った。あの息子にやられた傷は痛むが、それでも、このまま苦しんで死んで欲しいとは思えない。
だから、誰かが助けるのだと思った。
「お前らはただの金の亡者だ。出てけ!」
彼らに浴びせられるのは容赦ない言葉と泥だった。
「そうだそうだ!」
「この村から出てけ!」
次々に罵声と泥が投げつけられる。大蛇が口を開ける。今正に三人を食らわんとしている。ピカッと稲妻が走り、一際大きな音が響く。近くに落ちたかもしれない。
それでも、鎮は手を広げて三人の前に飛び出していた。
「鎮君。どうして、その者達を庇うのですか?」
背中に浴びせられる野宮の声からは優しさなど微塵も感じられなかった。
「その怪我はその男にやられたものでしょう? 祠を守ろうとした時に。罪は償われなければならないのですよ」
野宮の言うことは尤もだろう。鎮も無条件に許せるわけではない。
けれど、祈りで救われるなら今ここで皆そのために心を一つするべきなのだ。村長らを排除するために結束するべきではない。
「そこをどかないと一緒に食べられてしまいますよ」
大蛇の頭部は鎮の眼前に迫り、今にも飲み込まれそうだ。なのに、引けなかった。
「見殺しなんて駄目ですよ。だって、同じ村で生まれ育った家族みたいなものじゃないですか」
どんな人でも同じ村の人間であるという鎮の思想は揺るがない。必ず改心できると思うのだ。
「村を思っていたはずなのに」
ぽつりと村長が漏らす。
「いつから私達は間違えてしまったんでしょうね」
村長夫人の声が続き、鎮は振り返る。
「大変、申し訳ないことをしました」
二人は解放されている。そして、額ずく。だが、彼らの息子だけは黒い蛇に絡み付かれ、苦しんでいる。
「うぐっ……くそっ、助けろよ!!」
未だ彼は傲慢だった。自分は他人を助けもしないくせに助けられることが当然だと思っている。
もう泥や罵声を浴びせるものはいない。ただ皆、祈りを捧げている様子だ。
「これは私達の罪……ならば、ここで共に食われることが償いなのかもしれないな」
村長は婦人を伴って立ち上がり、息子の側に立つ。そして、大蛇に捧げるように頭を下げた。
「嘘、だろ……? 死にたくねぇ……死にたくねぇよぉっ!!」
息子はもがき暴れる。
「みんなそうだったのに、あなたがみんなを殺そうとしたんだ! これはあなたが引き起こしたことだ!」
その怒りを伝えようとするように大蛇がうねり、牙を見せる。
「すみ、ません……ほんとすみません!」
男は必死に言葉を発したのだろうが、蛇は引かない。村長夫婦が深く頭を下げても無駄だった。
「心がこもっていませんね」
野宮がきっぱりと言う。救われたいがために口先だけで言っているのは明らかだった。
けれど、鎮には慈乃の側で少しずつ光が強くなっているのが感じられた。
「だ、だって、だってよ、あんな祠……!」
何を言おうとしたか。言い切らない内に彼はあまりにあっさりと蛇の口の中に消えて行ってしまった。
「あ、ああ……」
呆然とした声は村長のものだ。ガクリと膝をつく。
「どうか私達も一緒に」
「息子と一緒に逝かせてください」
堅く抱き合って、彼らは大蛇に飲み込まれる覚悟を決めたようだった。
鎮は祈る。どうか、彼を許してくださいと。そして、大蛇がそれを吐き出す。ガタガタと震えているが、無事のようだ。
「この地の歌を知る者はいるか?」
慈乃が問いかけてくる。彼女が振るう刀には光が宿っている。
「古くから伝わる歌があるだろう?」
鎮は首を傾げる。昔、誰かから聞いたようなきもするが、覚えていない。
「若い人は知らないかもしれないけど……」
そう言うのは村の中でもかなり高齢の女性だった。喋り仲間と顔を見合わせる。
「歌え。皆、心を一つにして神に捧げろ」
背を向けたまま慈乃は言うが、もう余裕はなさそうだ。
老女達は手を打って、歌を紡ぐ。しかし、その歌声は細く弱々しい。
「皆、一緒に!」
野宮が皆を促す。少しずつ声は増えていく。鎮も聞きながら思い出しながら加わる。それは涙が出るほど懐かしい旋律だった。
「もっと大きな声で、心をこめて!」
声が出る限り皆歌う。男女問わず、老人から子供まで一つになっている。
慈乃の刀の光が増し、大きく形を作る。
「あやの、さん……?」
鎮は目を疑った。光の中で彩乃が微笑んでいた。
「彩乃!」
慈乃が声を上げる。彩乃と慈乃が向き合う。だが、続く言葉はない。彩乃が慈乃を抱き締めたように見えた。同じ腹から生まれ、同じ巫女であった二人の運命は悲しい。
すぐに大蛇に寄り添うようにして彩乃は消える。
そうして、皆、光に包まれていた。
気付けば、雨は上がり、空は晴れ渡り、雷鳴など聞こえない。黒い霧も消え、大蛇の姿もない。夢を見ていた気分で池の方を見れば、慈乃と樹雨の体が糸が切れたように倒れた。
こうして彩乃も倒れたのではないかと鎮の脳裏に悪い想像が過ぎる。
「慈乃さん! 樹雨さん!」
鎮は駆け寄ろうとするが、もう体が言うことをきかなかった。限界だった。その横を野宮が確かな足取りで通っていく。
「大丈夫です。二人とも息はありますよ。少し休ませれば大丈夫でしょう」
野宮の言葉にほっと胸をなで下ろす。
「では、慈乃さんはうちに……」
「彼はうちで……」
司が申し出れば、村長が続く。
「わたくしは今日はこちらにいましょうかね」
これで何もかもが済んだわけではないだろう。野宮はまだ滞在するようだ。ならば、慈乃や樹雨もすぐには帰らないだろうか。頭はぐらぐらして、今にも意識の糸が切れそうなのを鎮は必死に繋ぎ止めようとしていた。せめて家までは自分の足で帰ろうという気持ちがあった。
「わぁ!」
村の子供が声を上げた。怖い思いをしただろうに、笑顔で池の方を指さしている。虹が出ていた。池も光を浴びて煌めいていた。




