十六
「おい、樹雨……気付いてないのか?」
「何が?」
慈乃の口調は妙に深刻で、鎮も何だろうかと首を傾げる。
「お前、誓約してないんだぞ?」
「あのババアだってそうでしょ? 僕のサポートを必要とした口で何を言うんだか」
誓約とは村長と交わした書面のことか。それを言うならば、慈乃も同じではないかと鎮は思うわけだ。血で捺された印も彩乃のものだ。
「怖ければ逃げられるって話だ。何のお咎めもなく」
「僕を何だと思ってるのさ。ここで君を見捨てるくらいなら、それこそ去勢した方がましだ。君と一緒に舞うよ」
「よく言った。私の背中は預けるからな」
慈乃は樹雨をその気にさせるのがうまいのかもしれない。
「さあ、主役達のおでましだ」
慈乃が呟くとざわざわとした気配が感じられた。村人達である。バスガイドよろしく彼らを案内してきたのは野宮だ。彼女は鎮の側まで来て立ち止まる。
「皆様には見届けていただきますよ」
野宮の声は冷たかった。なぜか死刑宣告だと鎮は感じる。村人達のざわめきはやまない。戸惑うのも無理はないだろう。空は暗くなり、雷鳴は大きく、稲妻が空を走る。
天候は明らかに悪化しているのに、野宮は皆を連れてきた。既に泣いている子供もいる。どうしたかは知らないが、野宮は彼らを半ば無理矢理連れてきたのかもしれない。
「鎮!? どうしたの、この怪我……」
ふと鎮に気付いた麻子が驚いた表情で側に座り込むが、今は話せそうになかった。
「悪いが、私達は震えて眠ることは許さない主義なんだ」
言いながら慈乃と樹雨は前へ、池のすぐ側まで進んでいる。
「目を閉じるな、耳を塞ぐな。しっかり祈れよ」
最早命令だったのかもしれない。
「しっかり言うこと聞いてくださいね。この村を守りたければね」
野宮も今は慈乃と同じようだった。
「来るぞ!」
慈乃が声を上げた瞬間、池の水面がぼこぼこと盛り上がる。何だろうと鎮が思っているとざばっと飛沫を上げ、何かが飛び出してきた。
巨大な蛇である。どこにこれほど巨大なものが潜んでいたかと思うほどだ。鎌首をもたげ、シャーッと牙を剥く。水が鎮のところにまで降りかかる。まるで雨のように。
「で、ででででででた……!」
鎮は膝をついてへたり込んでいた状態から後退しようとする。村人達も逃げだそうとする。
「逃げるな!!」
慈乃の一喝が、皆の足を止めた。鎮も縫いつけられたように動けない。
そして、慈乃が刀を抜く。なまくらだと言っていたが、輝きは本物に見える。取り上げられないために尤もらしい嘘を吐いたのかもわからないが。
とにかく彼女は刀を構えている。神をバッサバッサと斬るのが仕事ではないと言ったのだから、目の前の巨大な蛇を斬るわけではないだろう。
あの大雨の夜に雷光の向こうに見えた姿でさえ大きかったのに、今、こうして眼前にあるととてつもないサイズだ。何もかも悪い冗談に思えて、鎮は自分が起きていることを確認しなければならなかった。呼吸は少し落ち着いてきたが、息が詰まりそうだ。体の痛みはどうしようもなくリアルだ。
これは夢ではない。
「みなさん、恐れれば食べられちゃいますよ?」
野宮は決して冗談で言っているわけではないだろう。
「あ、あんな化け物相手にどうしろって言うんだ!?」
村人が叫ぶのは尤もなとこだろう。周囲には何やら黒い霧が立ち込め始め、やがて形をなす。
それは蛇だった。無数の黒い蛇が皆を取り囲み、ゆらゆらと揺れている。霧とは言えど皆、そこから動けなくなる。呼吸をする度にそれは体内に入り込んでくるようでもあり、恐怖に胸が支配され、息苦しくもなる。
大蛇を前に慈乃と樹雨はその霧と戦っているようだった。慈乃の刀が霧を裂き、薄くなったかと思えば、すぐに濃さを増した。樹雨は扇子で同じようにしたり、開き扇ぐようにして黒い霧を払う。
しかしながら、どちらも気休めにもならないのだろう。霧が晴れる気配はない。
それどころか、ぽつぽつと雨が降り始める。村人達は傘を誰も持っていない。けれど、野宮は帰ることを許してくれそうになかった。
「祈りなさい。誓いなさい。そうしなければ、あの二人も私も彩乃さんのように犠牲になりますよ。そうしたら、ここはもうお終いですね。今度こそ滅びますね」
単なる脅しでないことはわかる。目の前には大蛇、黒い霧の蛇が揺らめいて、とても作り物だとは思えない。作り物であれば良かったのに、と思うほどにどうしようもなく現実だった。
「お助けください!」
村人の一人が頭を下げた。
「どうか、どうか!」
「お願いします!」
そうして皆続く。麻子も鎮に寄り添ったまま頭を下げる。雨に打たれるのも泥で服が汚れるのも構わずに。
「縋る相手が違いますよ。わたくしにはどうにもできませんもの」
野宮は突き放すような態度だ。しかし、意地悪で言っているわけではないだろう。
「村長さんとご夫人には大事なお仕事をあげましょう」
野宮の目は集団の中に隠れようとする二人をじっと見つめていたのかもしれない。鎮はただ座り込んだまま慈乃と樹雨、野宮、村人達を順に見ることしかできない。
「あなた方の馬鹿息子をここへ連れてきなさい。彼が祠を壊すからこんなことになったのです」
鎮ははっと思い出す。あの祠を壊した男、彼がどこは行ったのか。完全に失念していた。
「逃げようなどとは考えないことです。想像を絶する恐怖を味わうことになりますよ?」
見透かしたように野宮は言う。今、この場から解放されれば彼らは一目散に逃げるだろう。
「彼も今頃きっと震えているでしょう」
ふふっ、と野宮が笑みを零す。それが鎮にはひどく恐ろしく感じられた。
やはり彼女も巫女であったのだと思わされるほどに。彼女に恐れをなしたかのように二人は走っていく。
「さて、皆様。彼らが戻るまで頑張ってくださいね」
野宮が手を打つ。
慈乃と樹雨は舞い踊るように黒い霧の蛇を相手にしている。刀を振るうキレのある慈乃と滑らかに扇子を動かす樹雨の動きはどちらも見ほれるほどだ。
そして、大蛇は首をもたげたまま何かをしてくるわけでもない。ただ見ている。
(鎮まりたまえ。鎮まりたまえ)
気付けばまた鎮は念じていた。
「まあ、すぐにお戻りになりますよ。だって、逃げられませんもの」
それはどういう意味なのか、答えはすぐに出た。叫び声と共に走ってくる影があった。
ぜーぜーと息を乱しながら皆の前に膝を突く三人は村長とその夫人と息子である。大蛇が再び威嚇すれば、巨大な頭がすぐ近くまで迫る。鎮は麻子に抱き締められながら、それでも目を逸らしたくはなかった。
「えー皆さん。この者が祠を破壊しました。だから、神様がお怒りになってます」
コホンと咳払いの後に野宮は村長の息子を示し、それから大蛇を見た。雨が強くなり始めていた。
「あんな化け物が神だと? ふざけんじゃねぇ!」
村長の息子は叫ぶ。大蛇に恐れおののいている様子だが、まだそんなことを言える余裕があるのか。
「お黙りなさい! この痴れ者が!!」
野宮は明らかに怒っていた。一喝され、村長の息子は黙り込む。
「巫女の熊野彩乃さんがお亡くなりになることは本人も悟っていました。覚悟の上で来ていました。たとえ、何を言おうとあなた方を改心させることは不可能であると」
「それもまた神託か?」
問うのは慈乃だ。蛇と対峙し、背を向けながらも耳に入っているのだろうか。
「ええ、彼女は死ななければならなかったという言い方もできるでしょう。そういうケースはこれまでも何度かありましたし」
野宮は機関に身を置いて長いのだろう。その間、いくつもの死に直面してきたはずだ。慈乃の話では彼女の代では狂って死んだ者もいると言う。
娘のように思っている巫女達を何人も失ってきただろうし、先輩やそれこそ彼女が母のように思ってきた人も今やこの世に存在しないのかもしれない。
「熊野慈乃さんがここに散骨して、彩乃さんの魂は神様に寄り添い、後は今日のお祭りで怒りをおさめていただけるはずでした」
慈乃がすることに意味があったように野宮がすることも同じだった。
「ですが、それも台無し。さて、皆さん。もう逃げられませんよ。食われるか、それとも祈るか、どちらにします?」
彼女ははっきりとは言わないが、うまくいかないのは皆村人のせいだろう。自分もまたそうなのだと鎮は思う。自分一人が信じたところでどうにもならないのかもしれないが、皆がそう思えばそれが総意だ。




