8.忘れかけていた夢
タカラビル屋上での告白。それは、唐草潤太と夢百合香稟、いや信楽由里の二人にとって、忘れることのできない思い出深い出来事となった。
あれから二人は、お互いに連絡を取り合い、彼女のオフの日にはデートしたり、電話でいろいろな話をしたりと、時間が過ぎるたびに恋心を深めていった。
そんな幸せな時間が流れていく中、彼女の事務所の「新羅プロダクション」は、ある重大な決断を迫られていた。
「...というわけなんだ。」
「......。」
新羅プロダクションの社長室には、深刻な表情の社長と新羅今日子がいた。
「おまえもわかってるとは思うが、我が社は今、経営がかなり厳しくなっている。あのスキャンダル騒動のおかげで、香稟の仕事が減ってしまったんだからな。」
例のスキャンダル報道によって、夢百合香稟の仕事は少なからず減りつつあった。それが、人気アイドルの持つ悲しい宿命であろうか。
彼女と契約していたスポンサー6社の内、すでに4社が再契約を断ってきた。
さらにテレビでは、週4本のレギュラー番組の内、次の番組編成期までに2本降板が決まっていた。
「わかってます...。だけど、いきなり香稟にその話をしたら、彼女はきっと...。」
「しかし、ここまで来たらやむを得ない。事の発端は香稟でもあるんだ。彼女にも、それなりに覚悟を決めてもらう必要がある...。」
ここで話された密談は、香稟にとって認めたくない内容だった。
この会社を、いやアイドルとしての彼女を救う手だてはこれしかないと、彼女のマネージャーである新羅は、やりきれない気持ちを胸に社長との会話を終えていた。
* ◇ *
それから数時間後、某テレビ局では香稟がバラエティー番組の収録を行っていた。
新羅はいつものように、彼女を迎えるため社用車にて某テレビ局へとやって来ていた。
収録を終えて、控え室でメイクを落としている香稟。
今の彼女は、仕事が減ったことに気落ちすることもなく、明るい笑顔で自分の成すべき仕事に励んでいた。
「フフ、香稟ちゃん。最近どうかしたんですか?」
「え?どうかって...?」
「だって、前よりすっごく元気になったんだもの。何かいいことでもあったのかなと思って。」
「べ、別に何でもないですよぉ。フフフ。」
メイク係の問いかけに、香稟は頬を染めながらつぶやいた。彼女の頭の中には、自分の想うべき人物がいたようである。
「香稟。」
「あ、今日子さん。ご苦労さまです。」
鏡越しの香稟の視線に、新羅今日子のいつもと変わらない表情が映った。
「今日はもう、お仕事入ってないから、これからちょっとご飯でも食べに行きましょう?」
「あ、今日子さん、もしかしてそれ、おごりですか?」
「いいわ。」
「ハハハ、やったぁ!」
「......。」
明るく振る舞う香稟を見ながら、新羅は作り笑いを浮かべるしかなかった。
メイクをきれいに流した彼女を連れて、新羅はテレビ局近くのレストランへと向かった。
◇
「どうしたんですか、今日子さん?お料理、全然手を付けてないですよ。」
「え、ええ。そうね...。」
「?」
レストランで食事をしていた二人。しかし、いつもの二人とは明らかに様子が違っていた。
新羅の落ち着きのない素振りに、香稟はその真相を問いただそうとした。
「今日子さん、何かあったんですか?今日の今日子さん、何だか様子がおかしいですよ。」
「......。」
新羅は意を決して重たい口を開く。
「ねぇ、香稟。あなたにね、新しい仕事をお願いしたいのよ。」
「新しい仕事、ですか?」
その言い方に、香稟は不審に思ったのか表情を曇らせる。
それもそのはずで、新羅はこれまで、香稟に新しい仕事の話をする時は、こんな感じで改まった言い方などしていなかったからだ。
「実はね、今日社長に言われたの。写真集の話。」
「写真集なら前にもやりましたよ?別に新しい仕事なんかじゃないですよ、それ。」
「水着写真集なのよ。」
「え!み、水着ですか...!?」
香稟は愕然とした。そして、彼女は顔を引きつらせて訴える。
「ま、待ってください、今日子さん。み、水着って、それはどういうことですか?あたしは水着とか素肌を出したりとか、そういったグラビア路線には行かないという話でしたよね?」
「ええ。それは百も承知よ。」
「そ、それじゃあどうして?」
新羅は真剣な顔で、戸惑う香稟に正直に打ち明ける。
「香稟、落ち着いて聞いて。今ね、事務所が資金的に大変なことになってるの。例のスキャンダルのせいで、あなたのレギュラーが減ったことに、九埼まりみの事務所移籍が重なって...。」
「......。」
「もうすでに、破産という危険信号が灯っているのよ。このままだと、数千万の赤字を計上することになってしまう...。 だけどね、それを救うことができるのは、香稟、あなたしかいないのよ。事務所の一番の稼ぎ頭であるあなたが、さらなる飛躍を試みるしか手は残っていないの...!」
「そ、そんな!さらなる飛躍なんて、いきなり言われても...。」
新羅から事情を聞かされても、香稟は素直に納得することができない。
「聞いて香稟。あなたも気づいていると思うけど、芸能界という世界は決して甘いものじゃないわ。一度失った信頼を取り戻すことは、思ったほど簡単にはいかないのよ。」
うつむいている香稟に、新羅は必死になって説得をしようとする。
「特にあなたはスーパーアイドル、つまり清潔感や爽快感を売りにしていたのよ。そのあなたが、あんな黒い噂を流されてしまって、これまでのイメージを完全に壊されてしまった...。だから、これからも同じ路線で行こうとしても、いつか見放されてしまうわ。」
香稟の尖っていた口元は、いつしか元に戻っていた。彼女はもう何も言えなかった...。
「でも安心して。そんなにいやらしいと思うほどじゃないわ。水着を着て、カメラに向かってポーズを取る。ただそれだけなのよ。ねぇ、香稟。お願い、この話を快く受け入れて。」
いたたまれない思いを募らせる香稟。ようやく傷のいえてきた心に、亀裂が入ってしまったかのように...。
彼女はそっと顔を上げると、新羅のことを悲しい目でにらんでいた。
「...約束はどうなるんですか?」
「え?」
「約束を破るんですね?あたし、約束を破ること、この世で一番許せない...!」
「か、香稟...!」
「今日子さん。あたし、こんなの納得できません。だから、この話も受け入れたくないです。こんなやり方、あたし、絶対許せない...!」
「あ!か、香稟、待ちなさい!」
香稟は悔し涙をにじませながら、テーブル席から駆け出して、レストランのドアを越えていった。
呆然と立ちつくす新羅。そんな彼女も、いたたまれないほど辛い心情をあらわにしていた。
◇
ここは唐草潤太の自宅。
この日の夕食を済ませた潤太は、自室でラジオを聴きながら、軽やかな気分で絵画に没頭していた。
「フフフ~ン。」
彼は鼻歌交じりで机に向かっている。
『コンコン!』
「あ、開いてるよぉ。」
彼の部屋へ入ってきたのは、彼の弟の拳太であった。
拳太は部屋へ入るなり、兄の背中をにらみつけていた。
「ん?どうした拳太、何か用か?」
「...最近さ。兄貴、香稟ちゃんと随分仲良くなってないか?」
「...えっ!」
唐突なその問いかけに、内心ドキッとした潤太。彼は、拳太が夢百合香稟の根っからのファンなのを知っていた。
拳太の鋭い視線が、ひた隠しにする潤太の心へと突き刺さる。
「そ、そうかな?ま、前と変わらないと思うけど...。」
「いや、それは違う!昔だったら、香稟ちゃんからの電話をオレが受けると、ちょっとした世間話をしてくれたのに、今じゃ、まともに会話もしてくれないで、すぐに潤太クンに代わってくれって...。」
悔しさからか、溢れる涙を拭い始めた拳太。
いきなり泣き顔をする弟を、潤太は慌ててなだめる。
「お、おい、泣くなって。それは、おまえの気のせいだからさ。」
「うるさーい!クソ兄貴ぃ!オレの香稟ちゃんに何てことしやがったんだぁ!?」
「ボクは変質者じゃないんだからさ、何もしてないって。」
香稟のこととなると、拳太の目は必死そのものである。
ついに拳太は、潤太のすぐ側まで駆け寄り、彼の胸ぐらを掴んで怒鳴りつける。
「やかましい!どう見たって、香稟ちゃんの態度はおかしいじゃないかぁ?兄貴が何かしたとしか思えないんだよぉ!」
「け、拳太、お、おお、落ち着いてくれ...!」
拳太は、ガックリしながら頭を垂らしていた。彼の手は、ゆっくりと潤太から離れていく。
ブルブルと、拳太の体は小刻みに震えていた。
「なぁ、兄貴ぃ。正直に言ってくれよ...。香稟ちゃんと、どうなってるのか。オレ達、二人きりの兄弟だろ?なぁ、ホントのこと言ってくれよぉ...。」
拳太の落ち込む声は、重りのように潤太の体に沈殿していく。
その声に押し出されるように、潤太の堅い口はそっと開かれた。
「...ボク達はお付き合いしてる。二週間ぐらい前からな。」
「はぁ、やっぱりか...。ちくしょー、兄貴のくせに、やってくれるじゃんか!」
拳太はスッと顔を上げた。彼の表情は、やけに明るい笑みに包まれていた。
「拳太、おまえ...。」
「でも驚くよなぁ。こんな冴えない男なんか。香稟ちゃん、何でこんな男に惚れたんだろ?まぁ、世の中にゃ、不思議なことってたくさんあるからな、ハハハ。」
「うるさいな。悪かったな、冴えない男で。ハハ、ハハハ。」
潤太も、拳太の笑顔につられたのか、なぜか笑い出してしまっていた。
潤太はこの時、自分に向けられた笑顔こそが、目の前の弟からのはなむけの言葉だったのだろうと、そう思わずにはいられなかった。
『コンコン』
ドアをノックする音に、二人の笑いが止まった。
「あ、なーに?」
「あ、潤太!香稟ちゃんが来たわよぉ!」
「え?こ、こんな時間に...!?」
潤太と拳太の二人は、香稟の突然の来訪に首を傾げるのだった。
◇
潤太は、香稟に誘われるがまま、近所の公園まで付き合わされていた。
人の気配のない公園へと辿り着くなり、彼女は眉をつり上げて、潤太の方へ振り向いた。
「潤太クン、聞いてよ。あたしもう、どうしていいのかわかんないよぉ。」
「は!?いきなりだね。何があったの?」
二人は公園内のブランコへと腰掛けた。
「あのね、ついさっきだけど、マネージャーに言われたの、新しい仕事の話。」
「新しい仕事?へぇ、よかったじゃない。」
潤太をギロッとにらみつけた香稟。
「それがよくないの!ぜーんぜん、よくないのよぉ!」
「そ、そうなの?な、何なの、その新しい仕事って...?」
「水着写真集の撮影よ...。」
「...水着写真集?」
意外な答えに、キョトンとした顔の潤太。
「あたしね、事務所と契約手続きをした時に、条件として、事務所側と一つだけ約束を交わしたの。それがね、肌を露出したお仕事はしないことだったのよ。」
「どうしてそんな約束を?」
「あたし、肌にちょっとだけコンプレックスがあってね。それが恥ずかしくて、人前で水着になるなんて、そんなの絶対イヤなの。」
彼女の言い分がわからなくもない潤太。しかし彼は、香稟のアイドルという立場に疑問を抱く。
「で、でもさ、アイドルだったら、水着とかは仕方がないんじゃない?それに、そんなに嫌ってたら、海やプールで遊んだりできないんじゃないかな?」
「仕方なくないよ!それに、海は水着じゃなくても遊べるもん!プールはそうもいかないけどさ...。」
彼女は水着になることに、かなりの抵抗感を抱いているようだ。
「...それはいいとしてさ、どうしてこんなことになっちゃったの?だって、これは契約違反になるわけだよね?」
香稟は、いたたまれない複雑な心境を口にする。
「仕方がないの...。あたしの事務所、今、経営が悪化してるらしいから。このままじゃ破産しちゃうかも知れないって...。」
「ホ、ホントにかい!?」
「...うん。だから、そのピンチを脱出する要員として、このあたしに白羽の矢がたってしまったというわけ。」
「なるほどね...。大変な目に遭ってるんだね。」
「...そういうこと。」
香稟は思いあまって、潤太に無理難題を吹っかける。
「潤太クン、あたし、どうしたらいいのかな?」
「えっ?え、え~とぉ...。そうだなぁ。う~んとね~。」
いい答えなどあるはずもなく、ただ動揺しまくる潤太。
「そんなの、わかんないよね。あたしが、自分で決めなきゃだもんね。」
「ゴメンね...。」
彼女は、ブランコから勢いよく立ち上がった。
「あたし、もう少し考えてみるね。そして、ちゃんと答えを出すよ。アイドルとして、自分にとって後悔しない答えを。」
「ボクはハッキリ言っていい答え出せないけど。でも、ボクはキミを応援するから。いつでも、どんな時でもね。」
「ありがとう、潤太クン。よかった、あなたと話せて。何だか気持ちがホッとしたわ。」
「いつでも相談してよ。ボクにできることなら、何でもするからさ。」
二人は手を取り合い、薄暗い公園を後にした。
◇
駅から電車へ乗り込んだ香稟は、一人寂しく車窓から闇夜を眺めている。
彼女の頭の中には、アイドルとして積み重ねてきたさまざまな出来事が思い出されていた。楽しかったことも、そして悲しかったことも。
これからの自分に戸惑う思いは、彼女の心をせつなく、辛く締め付けている。
「もう、そろそろ...。なのかな。」
果たして、彼女の出す答えとはいったい...?
* ◇ *
次の日の夕刻。
潤太は、腐れ縁の友人である色沼と浜柄と共に、学校帰りの寄り道へと洒落込んでいた。
特に用事などなかったが、三人にとってこの行為は、いわゆる一つの暇つぶしのようなものであった。
「おい、浜柄!あれ見ろよ!」
「ん、何だよ?」
色沼が何かを凝視しながら、浜柄の腕を掴んで叫んだ。
「おお...。いいじゃんいいじゃん!」
それを目にして、浮ついた声を上げた浜柄。
二人の視線の先には、彼らが通う学校とは違う制服を着た女子高生がいる。
「中でもさ、あの真ん中の子いいと思わないか?」
「そうか?オレは向かって右側の方がいいと思うけどなぁ。」
相変わらず下らない話で盛り上がってやがる...。一緒にいた潤太は、心の中でそうつぶやいていた。
「おまえらいい加減にしたら?もう少しさ、将来とか人生について考え直した方がいいんじゃないの?」
色沼と浜柄の二人は、冷ややかな視線を潤太に飛ばした。
「おまえ、メチャクチャじじくさいよ。」
「その歳で未だに絵描いてるおまえに言われたくないぜ。」
潤太は憤りながら突っ込み返す。
「その歳って、べ、別にボクの絵は幼稚なものじゃない!」
「おまえはね、ハッキリ言って暗いのよ。机に向かって絵ばっか描いてるから、いつまでたっても女が寄りつかないんだよ。」
二人のあまりの言いぐさに、潤太の頭はカッとなってしまった。
「そ、そんなことないさ!だ、だってボクには、か...!」
「ん!?」
つい勢いあまって、香稟の名を口に出しそうになった潤太。
彼は慌ててごまかす。
「か、かか、絵画があれば...。そ、それでいいのだ...。ハハ、ハハハ...。」
「何だコイツは...?」
互いに顔を見合わせて、色沼と浜柄は首を傾げていた。
そんな二人を置いて、潤太は空笑いしたまま道のりをまっすぐ歩き始めた。
「あれ?」
ある一点を見て立ち止まった潤太。
「どうかしたか?」
「あそこ、ほら。人だかりが...。」
「お、ホントだ。行ってみようぜ。」
三人は小走りで、輪になって集まる人混みへと進んだ。
「ごうが~い、ごうがいだよぉ!」
どうやらそこでは、新聞屋が路上で号外を配っていたようだ。
三人の代表の色沼が、配られている号外のチラシを受け取った。
「えーと、何々...?」
色沼の手にする号外を覗き込んだ潤太と浜柄。
「!!」
それは、この三人にとって驚くべき大スクープであった。
「ゆ、夢百合香稟、引退表明だとぉぉ!?」
「お、おい、マジかよっ!?」
「...!」
予想もしない事態に、潤太は唖然としている。
まさか、あの時話していた答えがこんな形で公表されるとは、彼自身思いもしなかった。
それよりも驚いたのは、一人のアイドルの引退表明だけで号外が出ることだ。それだけ彼女は、国民的アイドルと言っても過言ではなかったのだろう。
潤太の周りにいる一般人達は、悪態つくように口を揃えている。
「しっかしどうなってんだ?恋愛騒動の次は引退騒ぎ...。最近の彼女どうかしちまったんじゃないか!?」
「これさ、よくあるアレじゃないか?」
「アレ?何だよアレって?」
「恋に焦がれて何とやらってヤツさ。きっと香稟は、引退後結婚かなんかする気なんだろ?」
「おいおい、香稟はまだ17歳だぞ。相手はまさか、連章琢巳だっていうのか?」
「そこまでは知らないけどさ、可能性はあるってことだよ。」
少なくとも真相を知る潤太にしてみたら、この報道は決して穏やかなものではなかった。
「ゴメン。ボク、用事思い出したからもう帰るよ。」
「え、お、おい!?」
潤太は猛スピードで、人だかりをかき分けながら走り去っていった。
* ◇ *
「どーなっとるんだぁ、これはぁ!?」
その日の夜、「新羅プロダクション」の社長室では、部屋を壊さんばかりの大声がこだました。
ひたすら怒鳴り続ける社長の前で、香稟のマネージャーの新羅はひたすら頭を下げていた。
「事務所の前にマスコミが駆けつけとるんだぞっ!おい、今日子!これはどういうことだ!?」
「も、申し訳ありません!今、社員たちが追い返してるところです!」
「肝心の香稟のヤツはどこにいる!?今日はどういうスケジュールなんだ!?」
「明日の午前までオフなんです。さっき家に電話を掛けたら留守番電話でした。」
社長は頭を抱えて、苦悩に満ちた声を上げる。
「香稟のヤツ、公衆の面前でいきなり引退したいなどと抜かしおって~!やっと例の一件が落ち着いたところだったのにぃ~!」
「すみません、すべてわたしの責任です...。」
「今更反省してもしょうがないだろ?おまえがすることはただ一つ!アイツを見つけだしてここまで連れてくることだ!」
「かしこまりました...。」
新羅は苦悩の表情で、大急ぎで社長室を出ていく。
事務所の駐車場から社用車を飛ばし、彼女は一路、香稟の住むマンションへと向かった。
「...しかし大変なことになりましたねぇ。あの香稟ちゃんが、テレビで引退したいなんて言うんだもんなぁ。」
社用車の運転手はつぶやいた。
後部座席にいる新羅は、顔を両手で覆い隠していた。
「うかつだったわ...。新しい仕事の話をした時も不安がよぎったけど、彼女、それなりの覚悟はしていたようね...。」
「何スか?その新しい仕事って?」
「水着写真集よ。彼女の今までのイメージをガラッと変えて、新しいファン層を開拓しようとした社長の考案なのよ。」
「あれ?でも香稟ちゃんは確か、水着はいっさいやらないって言ってましたよね?なのになぜです!?」
「......。」
真意を打ち明けられず、口を詰まらせた新羅。
「...とにかく急いで、早乙女クン!多分、香稟はマンションにいるはずだわ。」
「わ、わかりましたぁ!」
二人を乗せた社用車は、暗闇に包まれた東京の街を飛ばしていった。
◇
香稟の住むマンションへと到着した新羅と運転手は、急ぎ足で彼女の部屋へと向かう。
高級マンションの8階、826号室が彼女の部屋だ。
『ピンポーン...』
『ピンポン、ピンポン、ピンポーン...』
呼び出しボタンを連打した新羅。彼女の焦りが伺える。
「香稟、いるのはわかってるのよ。お願い出てきて。」
新羅は、辺りの住人に気遣いながら呼びかけるが、ドアの奥からは何の反応もない。
「香稟!もうこれ以上、わたしを苦しめないで!どうして!?どうして、このわたしに何の相談もなくあんなこと言ったの?ねぇ、お願い!ここを開けて!」
この状況に、新羅はとうとう声を荒げてしまった。
「新羅さ~ん、香凛ちゃんいないみたいスよぉ?」
「いいえ、彼女は必ずここにいるわ。香稟、早く開けなさい!」
『ドンドン!!ドンドン!!』
新羅は苛立ちを隠せず、ついに眼前の鉄の扉を叩き始めた。
『カチャ...』
「!!」
カギを下ろす音が、新羅達の耳を通り抜けた。
そして、静かにドアは開かれた。
「...香稟。」
「...何か用ですか?あたし、明日までお仕事ないはずですよね?」
「あなたと話があるの。ねぇ、中へ入れてくれないかな?」
「......。」
香稟の表情は、自分の意志を貫き通す悲壮感を感じさせる。
「あたしはもう決めました。今からそれを覆すつもりはありません。」
「ねぇ、ここじゃなんだから。香稟、部屋の中で話しましょう?」
数秒の沈黙後、香稟は振り向きながらささやく。
「...どうぞ。散らかってますけど。」
「...ありがとう。」
新羅はハイヒールを脱いで、香稟の部屋へと進んでいく。そして運転手も、彼女の後ろに続こうとする。
「あ、早乙女クン。悪いけど、あなたはここで待っててくれる?」
「へっ?な、何でですか!?」
「...気を遣いなさい。ね?」
「はいはい、了解です。」
運転手は渋々ドアから出ていった。
それを見届けた新羅は、リビングへと足を踏み入れた。
香稟はうつむき加減で、大きなソファーベッドに腰掛けている。
彼女は、テーブルの上にあるリモコンを手にして、小さな音量で流れていたステレオのスイッチを切った。
「話って何ですか?」
「わかってるはずよ?あなたのしたこと、わたし、正直言って納得できないわ。」
「初めから、納得してもらうつもりなんてありませんから。」
新羅に対して、香稟は冷めた口調を繰り返している。
「どうして?あなたは、わたしの気持ちをわかってくれなかったの!?」
「わかってます。今、事務所を救えるのがあたしだけなのは...。」
「それじゃあ、どうして?」
香稟は眉をつり上げて叫ぶ。
「あたしの気持ちはどうなるんですか!?会社が助かればそれでいいんですか?お金さえ手に入れば、あたしはどうなってもいいんですか?」
「そ、それは...。」
香稟は頭を抱えて、悲痛な叫びを轟かせる。
「もううんざり!みんな、うわべでは愛想よくしていても、その裏では、裏切り、妬み、憎しみ...。あたしは、こんな憎悪ばかりの芸能界に、好き勝手に振り回される人形じゃない...!」
「香稟...。」
「連章さんも、まりみさんも、明ではなく暗、表ではなく裏の顔であたしのことを見ていた。だからもう耐えられないんです。アイドルでいることも、芸能人でいることも...。」
香稟はついに泣き出してしまった。
「香稟。まだ若いあなたにとって、この現実はとても辛い出来事だったわ。でもあなたは、自分を魅せるためにこの世界へ飛び込んだんじゃなかったの?歌を歌い、舞台に立ち、ブラウン管越しで演じて。あなたはそれを望んでいたんじゃなかったの!?」
「そう...。ずっと夢見たことだったから。だけど、こんな表裏のある世界じゃなかったら、あたしはもっとがんばれた...。」
香稟は静かに頭を垂らす。閉じた瞳から、無数にも涙の滴がこぼれ落ちる。
「やっぱりあたしは、普通の高校生でいればよかった...。そうすればきっと、あたしはこんな苦痛を味わうことなんてなかった...。」
新羅には、今の香稟を励ます言葉など見つかるはずもなかった。
彼女自身、香稟と同じようにアイドルの苦悩を知っているからこそ、香稟の悲痛な叫びは痛いほど理解できた。
「...わかったわ。」
「......。」
新羅は澄ました顔でつぶやいた。
「もうこれ以上、あなたを束縛しないわ。あなたの人生だものね。もうわたしは何も言わない。」
「今日子さん。」
「あなたのような若い人に、事務所の存続を委ねること自体ひどい話だものね。これからは、あなたの好きな道に進めばいいと思う。」
新羅はそう告げると、さりげなくリビングを出ていこうとした。
「......。」
香稟は黙ったまま、去りゆく新羅を見つめていた。
「ねぇ、香稟。マネージャーとして、そして人生の先輩として。いいえ、一人の大人としてあなたに伝えておくわ。」
香稟に背を向けたまま、新羅は先輩らしい教訓を述べる。
「人それぞれの人生には、乗り越えなければならない壁がある。その壁は、人それぞれの気持ちによっても高くなり、低くもなる。たとえそれが、芸能人であろうとも、普通の一般人であろうともね。」
決して振り向くことなく、新羅は言い聞かせるように話を続ける。
「いろいろな人生において、困難と苦労、後悔と挫折を繰り返して、みんな大人になっていく。あなたがもし、新しい人生を進んだとしても、決してそれだけは忘れないで。」
新羅はかすかな足音を残し、静まり返ったリビングを後にした。
『カチャ...、バタン...』
香稟の部屋から出てきた新羅。
待っていた運転手は、すぐさま彼女に声を掛ける。
「し、新羅さん!どうでした!?」
「今世紀最後のアイドルは、静かにその幕を下ろしたわ...。行きましょう。」
「えっ、えっ!?そ、それじゃあ香稟ちゃんはやっぱり...!」
新羅と運転手はそれ以上語らうことなく、その場から早々と去っていった。
◇
『プルルル...、プルルル...』
ひざを抱えたままソファーにたたずむ香稟の耳に、電話機から流れるコール音が鳴り響く。
『プルルル...、ピッ...』
数回のコール後、自動的に留守番メッセージが流れる。
『はい、信楽です、ただいま留守にしています、ご用の方は、発信音の後にメッセージをお願いします...ピー...』
「...由里ちゃん。ボク、潤太です。」
「...!」
香稟はハッと顔を上げると、電話機目指してスタスタと走り出し、慌てて受話器を取り上げた。
「もしもし!?あたし由里よ!」
「あ、いたのか...。よかった。」
香稟と付き合い始めてからは、潤太は彼女のことを、本名である“由里”と呼んでいた。
「どうしちゃったの、いきなり引退だなんてさ?夕方に号外を見て、ボクびっくりしちゃって...。」
「驚かせてゴメンなさい。でもこれは、あたしにとっても、潤太クンにとっても正しい決断だと思ってる...。」
「どういう意味、それ?」
「だって、あたしがアイドルをやめれば、あたし達、人目も気にしないで付き合えるじゃない?あなただってその方がいいと思うでしょ?」
「...確かに、それは否定できないけど。」
香稟の気持ちはうれしいが、素直に喜べない潤太。
「あたし、辛い出来事を繰り返してまで、こんなずさんな芸能界になんかいたくない。ただそれだけなの。」
潤太はその時気付いていた。ここ最近、彼女を苦しめた数々の災難が、この引退表明のきっかけになってしまったことを。
「でも、いいの?本当に引退しても...?」
「...うん。後悔するぐらいなら、あんな大事、テレビの前で口にしたりしないよ。」
「でも、由里ちゃん、ボクに言ってたじゃないか?自分は、人前で歌を歌ったり、演技したりすることが一番好きなんだって。」
「ええ、確かに言ったわ。だけど、もうやっていけないの!このままじゃ、憎しみや妬みに埋め尽くされて、あたし自身が潰れてしまう...。」
彼女の悲しみにむせび泣く声が、電話越しの潤太の心まで届いた。
潤太は少し間をおいて、彼自身の気持ちを打ち明ける。
「由里ちゃん。ボクは、一番好きなことをしてる時が一番楽しいと思ってる。だからボクは、風景画を描き続けてるんだと思う。友達に暗いヤツだとか、なさけないとか、いろいろ言われてるけど、ボクは絵を描き続けるよ。」
「......。」
潤太は、黙り込んだままの香稟に本音を話し続ける。
「みんなさ。好きなことやってる時が一番楽しいんじゃないかな?ボクにとって、風景画が生き甲斐と言えるのと同じで、キミにとっても、歌を歌ったりお芝居したりすることが生き甲斐なんじゃないのかな?」
「...潤太クンまでそんなこと言うの?」
潤太は、受話器を握る手を汗でにじませて、香稟に心のこもったメッセージを送り続ける。
「ボクは、輝いているキミの姿が好きなんだ。楽しく過ごしている瞬間、生き生きとしている瞬間、そのスターの輝きにボクは惹かれたんだ。」
「......。」
「由里ちゃん...。今だからできること。今しかできないこと。由里ちゃんには、どんな困難にも負けてほしくない。ボクはいつまでもキミを応援するよ。スーパーアイドル夢百合香稟のことを...。だから、夢と希望だけは絶対捨ててほしくないんだ。」
「...潤太クン。あなたの気持ち、とてもうれしい...。だけど、だけど...。」
『カチャ、ツー、ツー、ツー...』
彼女のかすれた声は、空しいほど静かに途絶えてしまった。
潤太の伝えたい想いは、果たして香稟の心まで届いたのだろうか?
そのすべての答えは、一ヶ月後に開催される、彼女のビッグイベントによって明らかになる。




