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7.限りない愛の決意

 「どういうつもりだ?あのFAX、マスコミに流したのおまえだろ?」

「...そうよ。どうしてわかったの?」

「そりゃわかるさ。あんなことができるのは、あの事務所じゃおまえ以外にはいないだろうからな。」

「フフフ...。もしかして、迷惑だったかしら?」

「ああ、ハッキリ言って迷惑だ。何たって、あのスーパーアイドルを振り回しちまったんだ。これじゃあ、オレはとんだ悪者にされちまうしな...。」

 ここは、都内の某ラブホテルである。

 薄明るいピンク色した室内には、一人の男と一人の女がいた。

 二人は丸い形のベッドの上で、寄り添い合って密談している。

「おまえ、このことが社内にバレたら、それこそクビになり兼ねないぜ。」

「そうね...。まぁ、バレたらバレたで構わないけど。どうせ居心地が悪かったし、クビになったら、あなたの事務所に移れば済むことだし...。」

 その女は色香を漂わし、横にいる男の耳元でささやく。

「ねぇ、本気であたしと結婚してくれるんでしょう?」

「......。」

 男はベッドから起きあがり、一人シャワールームへと向かう。

「ちょっと、琢巳!どうなのよ!?」

「それはおまえ次第だな。オレの本当の女になりたいなら、もっと名を売ることだ。どんな卑劣なやり方をしてもな。」

「...!」

 その男は口元を緩めてニヤリと笑った。

 女は悔しそうな顔をして、色っぽい口を閉ざしてしまった。

『シャアアアァァァ...』

 その男、連章琢巳はシャワーで汗を洗い落としている。

 ワイドショーを騒がせたあのニュース、夢百合香稟との交際を認める報道に、彼は少しばかり気が滅入っていた。しかし彼は、このスキャンダルを逆に利用できるとも考えていた。

「...まりみのヤツ、余計なことをしやがって。だがオレは、これでさらに芸能界において箔が付いたってもんさ。ここは下手に動かず、向こうさんの出方を見た方がよさそうだな...。」

 彼は目をギラギラさせて、不敵な笑みを浮かべていた。


 * ◇ *

 同日の別の場所では、押し寄せてきたマスコミの対応に追われていた。そう、ここは「新羅プロダクション」。

 事務所の社長室には、頭を抱える社長と、猛烈に激怒する新羅今日子の姿があった。

「お父さん、どういうことなんですか!?香稟はあの男とはまったく交際の事実はないわ!どうしてあんなFAXがマスコミに流れたんですか!?」

「お、落ち着け、今日子!わしにとっても、あのFAXの件は寝耳に水だったんだ!気付いた時には、例のニュースがテレビで取り上げられていてな...。だ、誰かが勝手にしでかしたことなんだ!」

「い、いったい誰がこんなことを...!?」

 今日子は狼狽しながら困惑する。

 同じ事務所内に、香稟を陥れようとする人物がいるのかと、彼女の脳裏に、そんな認めたくない思いがよぎっていた。

「この事務所のFAXから送られたのは間違いない...。送信時刻から推測すると、あの日の朝9時頃、その時間じゃ、わしもおまえも、それに香稟もここにはいなかったはずだ。あの日の朝、この事務所にいた者が行ったと考えて間違いないだろう。」

「その日、誰がここに?」

「スケジュール表を見る限りは、受付の女性社員が一人、それに経理係で二人。あとは、九埼まりみのマネージャー担当の薙沢の計四人だ。」

「......。」

 今日子は、今後の対応について社長と話し合い、静けさが戻った社長室を後にした。

 彼女はその足で控え室へと向かった。なぜなら、控え室で休んでいる香稟を自宅まで送るためであった。

「...香稟。」

「あ、今日子さん...。」

「行きましょ。」

「...はい。」

 香稟と新羅を乗せた社用車は、香稟の住むマンション目指して突き進む。

 重苦しい空気が車内を埋め尽くし、二人の胸を気が狂いそうなほど締め付けてくる。

 香稟も新羅も、まったく顔を合わせることなく、ただ押し黙ったままだった。

 社用車は、香稟の自宅へと辿り着いた。

『カチャ...』

 ドアを開けて、ゆっくりと車外へ出た香稟。

「香稟、おやすみなさい...。」

「おやすみなさい、今日子さん...。」

「香稟。この件に関しては、そんなに気に病まないで。わたしが何とか解決するから。」

 香稟は振り向かない。

「...はい。すいません...。」

 彼女は暗闇の中に佇むマンションへと消えていった。


 * ◇ *

 次の日の夜のこと。

 唐草潤太は夕食を済ませたあと、自宅の自室にこもりっきりだった。

 彼は激しいほど苦悩していた。

 夢百合香稟の交際事実肯定...。彼の頭の中は、その卑劣なほど悲しい現実にさいなまれていた。

「ふぅ...。」

 机の上にあるスケッチブック。そこには、下書きだけが終わった風景画が描かれていた。

「あああ~、くそっ!!」

 潤太は絵筆を床に投げつけた。

 白いプラスチック製のパレットには、スケッチブックに描かれた風景を彩るための、数種類の絵の具が塗られていた。しかし、そのパレットに絵筆が付けられた痕跡はない。

 心理的にも精神的にも悩んでいた彼は、色づけをすることができなくなっていたようだ。

「......。」

 彼はベッドの上へとなだれ込んでいた。

「まいったなぁ...。これじゃあ、絵に集中できやしないよ...。」

 彼は目を閉じたまま考えた。どうして集中できないのか?どうしてやる気が湧かないのかを...。

「もう、ボクには関係ないんだ...。彼女には、彼女にふさわしい相手がいるんだもんな。ボクにとっては、少しでも楽しい思い出ができただけでも...。」

 楽しい時間を一緒に過ごしたあの彼女の姿を、潤太は心の中から消し去ろうとする。もう彼は、香稟のことを忘れるしかなかったのだ。

「潤太~、電話よぉ~!」

 自宅の一階から、甲高い母親の声が鳴り響いた。

「あ、はーい。」

 潤太は重たい足取りで、一階にある電話機の元へと向かった。

「ほら、あの女の子みたいよ。よかったわね~。」

「......。」

 冷やかす母親など見向きもしない潤太は、そっと受話器を耳にあてがった。

「もしもし...?」

「...潤太クン。ゴ、ゴメンね、こんな遅くに。」

「...いいよ、それより何か用かな?」

「あ、うん...。あ、あのね、その...。」

 言いたいことが言えない香稟のもどかしさが、受話器を通じて、潤太に苛立たしく伝わる。

「ボクさ、今ちょっと取り込んでるんだ。もしだったら、またにしてくれないかな?」

 潤太は冷めた口調で言い放つ。それは、彼女にとって凍える吹雪のように痛々しい。

「あ、もう少しだけ待って。あのね、今週のどこかで会ってくれないかな?」

「...会ってどうするの?」

「え?」

 彼女は唖然として言葉を失った。

「ボクに、この前の報道のことを弁解する気なのかな?あのさ、もういいよ。」

「待って!あ、あれは、あたしのしたことじゃないの!事務所の誰かがあたしを陥れようとして...。」

「もういいよ!」

 潤太は怒鳴り口調で叫んだ。彼はその時、自分とは思えないほど感情が高ぶっていた。

「もう、キミのことで振り回されたくないんだ!これ以上、辛い思いはしたくないんだ!だから、だからもう...。もう何も言わなくてもいいよ...。」

「潤太クン...。」

「ボクのこと、しばらく放っておいてくれないかな?自分のこと、もっと冷静になって考えたいんだ。ゴメン...。」

『カチャン...!』

 一方的に電話を切った潤太。

 彼は置いた受話器を握りながら、悔しい涙をにじませていた。

 そして...。事の真相すら信じてもらえなかった香稟は、切られた電話の受話器を持ったまま立ちつくしていた。

「...あたし、どうしたらいいの?どうしたら、信じてもらえるの...?」

 彼女は、その場にひざまづいて泣き出した。その涙は、せつない色の川となって、彼女の部屋を濡らしていった...。


 * ◇ *

 翌日、夢百合香稟は、前日の潤太とのことでショックを抱えながらも、その日の仕事を予定通りにこなしていた。

 香稟とマネージャーの新羅今日子は、ラジオ番組の収録を終えて、社用車で事務所へ戻る最中だった。

 社用車の運転手は困った顔でつぶやく。

「まいりましたね。あのマスコミのしつこさは。」

「仕方がないわ。あれが、あの人達の仕事だもの。ほとぼりが冷めるまでは、わたし達から動かない方が無難よ。」

 新羅は溜め息交じりでつぶやいた。

「...でも、誰なんですかね。例のFAXをマスコミに流したの。だって、事務所の人間なのは間違いないんでしょ?」

「ええ...。」

 香稟はうつむいたまま黙っている。

 彼女にしてみれば、同じ事務所の関係者がFAXを流したと思いたくはなかった。仲間と慕っている誰かに嫌がらせをされたことに、彼女は深いショックを受けていたのだ。

「...でも、見当は付いてるわ。」

「え!?」

 新羅の一言に、香稟と運転手はドキっとした。

「マ、マジすか、それぇ?」

「ええ。今日、その真相を問いただすつもりよ。」

「...!」

 香稟の心は激しく動揺している。

 その人物が誰なのか...!?彼女は知りたくない気持ちを抑えつつ、真実が明らかになるべく事務所へと向かっていった。


 ◇

『コンコン...』

「はい、どうぞ...。」

 ここは「新羅プロダクション」のミーティングルームである。

「あ、新羅さん...。」

「ちょっといいかしら?圭子。」

 ミーティングルームには、女優の九埼まりみのマネージャーを務める薙沢圭子がいた。

 彼女は、九埼まりみのシステム手帳に、何やら書き込みをしている最中だった。

 そんな彼女の元へ、新羅と香稟の二人は歩み寄った。

「どうしたんですか?新羅さんに香稟ちゃん。」

「あなたにね、ちょっと聞きたいことがあるの。」

「はい?な、何ですか...?」

 新羅は単刀直入に、その質問をスパッと口にする。

「正直に答えて。香稟の交際肯定のFAX、マスコミ各社に流したの。あれ、あなたでしょ?」

「は!?」

 鳩が豆鉄砲を喰らったような顔の薙沢。

「とぼけても無駄よ。あなた以外に、あのFAXを送付できた人はいないのよ。」

 確信を持ったような口調の新羅。

 しかし薙沢は、まるで何のことと言わんばかりに反論する。

「ちょっと待って下さいよ。どうして、わたしがそんなことを?第一、わたしにそんなことをして、何のメリットがあるって言うんです?」

「確かにあなたにはメリットはないでしょうね...。だけど、まりみにはあったんじゃなくて?」

「...!」

 突如、薙沢は顔色を曇らせる。

 彼女の態度を伺いながら、新羅はさらに追求していく。

「まりみにとって、香稟の存在は邪魔に他ならなかった。以前から彼女、香稟に対して辛く当たってたしね。自分の方が先輩なのに、年下の香稟の方が人気があることに嫉妬していた。わたしがそのことに気付いていなかったとでも?」

「......。」

 険しい表情で口ごもる薙沢。

 新羅は探偵気取りで、この事件の真相を打ち明ける。

「まりみは、香稟のスキャンダルをきっかけに、香稟を徹底的に陥れる作戦を思いついた。彼女は、ワープロで作成した文章をあなたに手渡し、その紙をマスコミ各社へ送付しろと命令した。あなたは逆らうことができず、引き受けるしかなかった...。どう?ここまでの推理間違ってる?」

「...新羅さん、勝手に推理するのは構いませんけど。それって、あくまでも憶測ですよね。わたしが送付したという物的証拠はあるんですか?」

 容疑を否認する薙沢に、新羅はハンドバッグから取り出した紙切れを差し出した。

「何ですか、これ?」

「よく見てみて。これ、システム手帳の切れ端よね?この紙の柄って、今あなたが握ってるシステム手帳と同じ柄じゃない?」

「...!」

 薙沢は動揺のあまり顔面蒼白と化した。

「そう。これはまりみのシステム手帳の切れ端よ。彼女、あなたにFAXを送る命令を、システム手帳を利用して行ったようね。電話や、口答でのやり取りだと、誰かに気付かれる可能性があったはず。だから彼女は、いつものあなた達の連絡のやり取りを利用したのよ。」

「......。」

 新羅はさらに謎解きを続ける。

「あなた達は常に、そのシステム手帳でお互いのスケジュールの確認をしていたのよね。FAXを送る内容を確認したあなたは、証拠を隠滅しようと、システム手帳のその部分だけを破り捨てた。だけど、細かくちぎったせいか、この紙切れだけがゴミ箱に入らなかったみたい。」

 システム手帳を隠すように手で覆う薙沢。彼女は視点が定まらず、新羅と目を合わせることができない。

「運が悪かったわね、圭子。その紙切れにはね、はっきりと書いてあったの。あなたが送ったという証拠がね。」

「え...!?」

 その紙切れには、黒い文字が記されていた。

 “FAX→××出版社 → ○○テレビ”

「あっ!」

「ね?慌ててちぎったみたいだから、あなたはどこまで細かく破いたか確かめなかったようね。だから、そんな証拠を残しちゃったのよ。」

「......。」

「あとね、この事務所のFAXの送信履歴を辿ったわ。その紙切れに書いてある通りの順番でFAXが送られていた。つまり、例のFAXを送付できたのは、そのシステム手帳を管理できるまりみ本人か、マネージャーであるあなた以外には考えられない、というわけよ。」

「......。」

 薙沢はもう逃れられずただ押し黙っていた。

 目を閉じたまま、否定も肯定もしないといった感じで、彼女は黙秘権を貫き通していた。

「その様子だと、どうやらわたしの推理は間違ってないみたいね。やっぱり犯人はまりみなのね。」

「そ、そんな、まりみさんが...。」

 香稟はショックのあまり、青ざめた顔でささやいた。

「ねぇ、圭子。黙っていたって何にもならないわ。お願い、正直に答えて。あなたが、まりみに命令されてやったことなんでしょう?」

『カチャ!』

 突然、ミーティングルームのドアが開かれた。

 そのドアの側に立っていたのは、渦中の九埼まりみ本人だった。

「ま、まりみ...!」

「新羅さん、あなたのご推測通りよ。あのFAXを圭子に流すよう指示したのは、紛れもなくこのあたしよ。」

「そ、そんな...!」

 香稟はその真実に愕然とした。

 九埼はクスッと笑みを浮かべて、怯えている香稟を見据えた。

「あら、意外そうな顔してるわね。あなたには、すぐ悟られると思ってたのに...。」

 九埼は開き直ったように、事の真相をすべて明らかにする。

「単純なことよ。あたしにとって、香稟は邪魔者なだけ。この子がいなきゃ、このあたしが事務所で一番のスーパースターになるはずだったんだからね。だけど、ドイツもコイツも、香稟、香稟って騒いじゃってさ。ハッキリ言ってしゃくに触ったわよ!」

 香稟の怯えはさらに激しくなった。

「まりみ!たとえ、理由がどうであろうと、あなたのしでかしたことは許されないわ!」

 声を荒げる新羅を、九埼はギロッとにらみつけた。

「フン、調子のいいこと言わないでよ!あんたにそんなこと言われる筋合いはないわ。あんたが昔、アイドルだった頃のスキャンダル、みんな知ってんのよ、あたし。」

「そ、それ、どういう意味よ!?」

「フフフ、あたしね、連章琢巳と付き合ってるのよ。1年ぐらい前からね。」

「何ですって!?」

 新羅の表情が一瞬でこわばる。

 新羅と連章の忌まわしい過去を知っていた香稟も、九埼の邪悪な笑みに背筋が凍りついた。

「FAXのことだけど、真相を公表しても構わないわよ。だけど、その真実をどれだけの人が信用するかしらね?フフフ...。」

「...まりみ。あなた、ここまでやったのなら、それなりの覚悟はあるんでしょうね?」

「ええ。この話、あんたの父上にでも報告したら?あたしの処分はどうぞお好きなように...。」

 九埼はほくそ笑みながら、ミーティングルームを出ていった。

 それを見ていた新羅は、彼女の計算尽くめの策略にショックを隠しきれない。

 香稟も、九埼まりみの仕業と知ったことに、肩を落として立ちつくしている。

 マネージャーの薙沢は、この事件の罪の大きさに反省してか、テーブルの上で大泣きしている。

 芸能界で生き残るためにはどうすべきか?いかなる手段を使おうとも、一番を極めなければ意味がない。たとえそれが、いかに卑劣な行為であっても...。

 香稟の頭の中に、信じたくない辛い現実が傷跡のように焼き付いていた。


 * ◇ *

 数日後、夢百合香稟と連章琢巳の新たなる報道が巷を賑わした。

 “夢百合香稟 連章琢巳との交際は誤報!”

 “事務所内のいざこざが原因か!?”

 そんな報道が流れたにも関わらず、潤太の気持ちは相変わらずのままであった。

 彼は今、のどかな昼下がりの学校の教室にいた。

 クラス内は、やはりこの一連の報道に、やんややんやの大騒ぎであった。

「よ、相変わらず黄昏てんなぁ。」

 潤太に声を掛けたのは、彼の友人の色沼であった。

「おまえさ。いい加減その暗い雰囲気やめにしないか?見てるとこっちまで気が滅入るよ。」

「放っておいてくれ...。」

「まったく!彼女、めちゃめちゃ怒ってたぞ。ほら、この前の日曜日の。たしかルミちゃんだったかな?」

「あ、そう...。」

 抜け殻のような潤太からは、やる気といったものがまったく感じられない。まるで、無気力を絵に描いたような姿だった。

「そういえば、もう知ってるよな。香稟ちゃんの交際の誤報のこと。」

 もちろん、その辺の情報は、すでに潤太の耳には届いていた。

「ああ、知ってるよ。朝のワイドショーでやってたから...。」

「何でも、同じ事務所にいた九埼まりみが勝手にやったらしいな。オレの見た雑誌によると、九埼ってのはどうも、事務所と確執があったみたいなんだ。まぁ、今回の事件はさ、彼女にとっては、事務所を出ていくいいきっかけだったんじゃないかな?」

「ふ~ん。難しいんだな、芸能界ってのは...。」

「まぁな。この報道と一緒にさ、九埼まりみの事務所移転報道も一緒にやってたよ。でも香稟ちゃん不幸だよな。九埼の裏切り行為の標的にされちゃったんだから...。」

「......。」

 潤太は、これからどうすればいいのか、その答えは未だに見つかってはいない。

 たとえ、香稟の交際報道が誤報だったとしても、今更彼女にどう接したらいいのかわからず、彼の心情は行き場のないせつなさに満たされていた。


 * ◇ *

 その日の夜である。

「さてと...。それじゃあ行ってくるか。」

 潤太は夜にも関わらず、スケッチブックを抱えて静まり返った屋外へと出掛けていった。

 彼は、描きかけの風景画の色づけに手間取っていたため、自分の目で新しい色を見つけようと考えていた。

 夜7時過ぎ、一人の少年が夜の闇へと消えていった。


 * ◇ *

『キンコーン...』

 潤太が出掛けて数十分、唐草家に来訪者が現れた。

 居間でくつろいでいた潤太の母親は、予想もしない呼び出し音に戸惑いながら、玄関先の電灯を灯す。

 シルエットに映るその来訪者は、髪の長い体の小さな女の子であった。

 カギを開けて玄関の扉を開けた母親。

「どうも、こんばんは...。」

「あらぁ!あなたは確か、えっと、そうそう、アイドルの!」

「ご無沙汰してます。夢百合香稟です。こんな時間にすみません。」

 母親は、いきなり来訪した香稟に暖かく接していた。

「何言ってるの。そんなこと気にしなくていいわよぉ。」

「あの...。潤太クンは?」

「あの子ね。さっき出掛けちゃったのよぉ。何でも、描きかけの絵の色がどうのこうのって言ってたわね。」

 香稟は残念な思いに肩を落とした。

「...そうですか。この時間ならいると思ったんですけど。」

「ゴメンなさいねぇ。でも、そんな遠くには行ってないはずよ。確かねぇ...。」

 母親は腕組みしながら、潤太の行き先を思い起こそうとした。

 数秒後、その答えは香稟の耳へと伝わった。

「そうそう!駅前のタカラビルの屋上って言ってたわ!」


 * ◇ *

「わぁ。今日は一段と夜景がきれいだ...。これなら、いい色を見つけることができそうだ。」

 潤太は駅前のタカラビルの屋上へと来ていた。

 このタカラビルは、地上15階建てのオフィスビルである。

 このビルはオフィスビルだが、毎晩11時までは、夜景を楽しむ一般人向けに、屋上だけを開放する気の利いたサービスを行っているのだ。

 というわけで、潤太の周りには、夜景を楽しむ人達が少なからず見受けられる。

 彼はそんな人の目も気に留めず、明かりが照らす手すりの上にスケッチブックを広げた。

「そうか、ここはこういう色がいいかも。」

 彼は描きかけの絵に、下書き用の色鉛筆を当て始めた。

 何色もの色鉛筆を取り出し、彼はネオンサインの夜景から新しい色を探し出している。

「......。」

 彼はふと、走らせていた手を止めた。

「...どうしてだろう?なぜ、いい色にならない?どうしてなんだ!」

 彼は頭を垂らして心の中で嘆き苦しんだ。

 このスランプから脱出するきっかけはどこにもないのか!?そんな苦悩に、全身を覆い尽くされそうなった瞬間だった。

「...?」

 彼は、背後からやって来るやわらかい風を感じた。

 その風はほのかに暖かく、彼の体を温めながら、闇の中へと吹き抜けていく。

 そして、その風に乗って届いた声は、懐かしいほどやさしい彼女の声だった。

「きれいだね、ここの夜景。」

「!!」

 潤太は勢いよく振り向く。

 彼の後ろに立っていたのは、彼が思っても見なかった人物だった。

「か、香稟ちゃん...!」

 彼はつい大声を上げそうになったが、周りにいる人々に気付かれたらマズイと思って、声のトーンをグッと抑えた。

「お家を訪ねたらね、おばさまがここにいるって教えてくれたの。」

「そ、そう...。」

 香稟は、潤太のすぐ隣の手すりまで歩み寄り、遠くまで見える夜景へと視線を送った。

「こんなところに、こんな素敵な場所があったなんてびっくり。よく来るの?ここ。」

「う、うん。気が向いたらね...。」

 潤太はおもむろに、すぐ側にいる香稟を見つめる。

 彼女の容姿は、遠くのネオンに反射するかのように、透き通るぐらいに輝いていた。

 忘れることが出来なかった潤太のはかない想いが、彼女をそんな風に見せていたのかも知れない。

「もう、会えないと思ってた。この先、ずっと、あなたに会えないと思ってた。」

「...ゴメンね。ボクの勝手ばかりで。」

「ううん。あなたは何も悪くないわ。悪いのは、全部あたしの方だから...。」

「悪いのはキミじゃないよ!同じ事務所にいた、えっと、あれ、誰だったかな...?」

 戸惑うばかりの潤太に、悲しげな顔をそっと向ける香稟。

「元をただせば、あたしがいけないの。あたしに、アイドルなんて肩書きさえなければ...。」

 彼女の表情は、やりきれない想いをそのまま映していた。

「放っておいてくれと言われたのに、勝手に会いに来ちゃってゴメンなさい。正直言って迷惑だったでしょ?」

「いや、そんな、迷惑なんかじゃないよ。」

 香稟はもう一度、美しく輝く夜景へと目を向けた。

「あたしね。もう、あなたに会えないなら、最後に言っておきたいことがあったんだ。」

「え...?」

 香稟は口元を緩めて、かわいらしい笑みをこぼした。

「あなたと初めて会った日...。ホントに、偶然としか思えない出会いだったよね?」

「うん。今思えば、あんなこと現実にあるのが不思議だったよ...。」

「あたしのわがまま無理やり聞いてもらっちゃって。あの時、すごく楽しかった...。」

「ボクもすごく楽しかった...。あんな風に女の子と遊んだこと、今までなかったからなおさらだったよ。」

「一緒に横浜の八景島にも行ったよね?あの時の潤太クン、おもしろかったわ。フフフ。」

「や、やだな...。その笑い、さてはあの落下するヤツのことだろ?やなこと思い出さないでくれよ~。」

「フフフ、ゴメンね。でもみんな、あたしにとって絶対に忘れることのできない、最高の思い出...。」

「それは、ボクもだよ...。」

 二人はいくつもの思い出を振り返る。お互いが、その思い出の一つ一つを忘れたくなかったかのように...。

「...いつからかわからないけどね、あたし、大切なことに気付いたの。」

「何を?」

「一緒にいる楽しさを...。」

「え?」

 香稟は、潤太と目を合わせる。

 彼女の瞳には、ドキッとした顔の潤太が映っていた。

「あなたと一緒にいることの楽しさを...。これからもずっと感じていたかった...。」

「か、香稟ちゃん...!?」

 香稟の垂らした頭は、横にいる彼の胸の中にあった。

 夜風になびいた彼女の長い髪が、潤太の照れた頬をやさしく撫でている。

「...。」

 思いも寄らぬ展開に、潤太の体はカチンコチンに硬直した。

 自分の胸の中には、あのスーパーアイドルの顔がある。

 ドックン、ドックンと、彼の鼓動はますます激しくなる。

「あたしね...。あなたの絵を初めて見た時、今までに感じたことのない衝撃を受けたの。それは、絵の上手さにびっくりしたんじゃなく、何て言っていいのかわからないけど、胸がね、すごく熱くなった気がしたの...。」

「香稟ちゃん...。」

 潤太にもたれかかったまま、胸の内を語り続ける香稟。

「あなたの描く風景には、人は描かれていないけど、その風景を見ている人がいるわ。あなたが、あたしにくれた代々木公園の絵画、今でも大事にしてるよ...。あたしだけじゃなくて、あなたも一緒に見ている、あの絵の中にある思い出の景色を...。」

 彼女はゆっくりと、潤太の胸から離れた。

「...潤太クン。今まで、ホントにありがとう。素敵な思い出をくれて...。」

 彼女の瞳から、宝石のようなまばゆい涙がこぼれていた。

「さようなら...。」

 彼女は、立ちつくす潤太の側から一歩、そして一歩と離れていく。

 潤太は無意識の内に、彼女に向かって叫んでいた。

「香稟ちゃん!ま、待ってよ...!」

 彼女の足がピタリと止まった。

「ずるいよ香稟ちゃん!自分のことばかり告げて行っちゃうなんてさ!ボクの気持ちはどうなるんだよ!?」

「潤太クン...。」

 香稟は泣き顔のまま振り返った。

「この絵を見てよ...。」

「え...?」

 潤太は、書きかけの風景画を彼女に見せる。

「もしかして、その絵って、ここ?」

「ああ。今日、どうしてここに来たのか...。それは、この絵を仕上げるために、新しい色を見つけるためだったんだ。」

「でも、潤太クンは、色を考えたり、色づけするのは、いつも自宅でするはずでしょ?どうして今日に限って...?」

 スケッチブックを掲げる潤太の両手が、知らず知らずの内に震えだした。

「できなかったんだ。色が、いい色が見つからないんだよ...。こんなこと、絵を描き始めてから初めてだった。どうしていいのか、どうしてこんなことになったのか。自分でも、その答えがわからなかった...。」

「......。」

 香稟は口をつぐんだまま、潤太のせつない声に耳を傾ける。

「でも、やっとわかったんだ...。ボクは、絵を手で描いていたんじゃなく、心で描いていたってことに...。」

「心で...?」

「ボクの心が絵を描こうとしなければ、ボクの絵は完成しない。絵を描きたい、描かなきゃいけないと、ボクの心がそう感じれば、ボクの絵は完成するんだ。」

「それじゃあ、潤太クンの今の心は、絵を描こうとしていないっていうの?」

 香稟の問いかけに、小さくうなずく潤太。

「ボクの心は今、キミを見ているんだ...。ボクがどんなにきれいな景色を見つけても、ボクの心はキミを追っている...。ボクが美しい絵を描いても、ボクの心はキミの姿を描いている...。」

「潤太クン...。」

「香稟ちゃん、素直な気持ちで伝えるよ。ボクはキミのことが好きだ...。」

 香稟と潤太の二人は、互いに見つめ合い、互いの気持ちが一緒だったことを確信した。

「だけど、ボクにはそれを言える勇気がなかった...。言ってしまったら、ボクはきっと、辛い想いをすることになる。そう思ったんだ。」

「どうして...?」

「キミがアイドルだから、芸能人だからだよ。所詮、ボクとキミは住む世界が違う。ボクはただの普通の高校生。でもキミは、日本中から騒がれるスーパーアイドル。どう見ても、好きになっちゃいけない人だ。そう思ったら、ボク何も言えなくなっちゃってさ...。」

「そんなの違う!」

「え?」

 香稟は髪の毛を振り乱し、頭を大きく左右に振った。

 大粒の涙を流し、彼女は大声で叫んだ。

「あたしは!あたしは何も違わない!あなたと何も変わらないわ!あなたと同じように遊んで、楽しんで、そして泣いて...。あたしは、あなたと同じ17歳の女の子よ!!」

 香稟は泣きながら駆け出して、潤太の胸の中へ思い切り飛び込んだ。

「香稟ちゃん...。」

「香稟じゃない。あたしは由里...。今のあたしは、信楽由里よ。お願い、アイドルじゃないあたしを見て...。香稟じゃなく、由里のあたしを...。」

 二人はしばらくの間、そのまま抱き合っていた。

 周りにいたギャラリーも、横目でチラチラ二人のことを見ていたが、薄暗かったせいか、まさか女性の方があのスーパーアイドルだとは、誰も気付くことはなかった。

「もう帰ろうか...。」

「うん...。」

 気持ちを通わせた二人は、輝かしい夜景に別れを告げた。


 ◇

 二人は腕を組みながら、夜の街を歩いていた。

 時々、お互い顔を見合わせて、喜びを噛みしめるような笑みを見せ合っていた。

 二人は新宿駅へとやって来た。ここは、二人にとって一時の別れの場所でもあった。

「ありがとう。ここまで送ってくれて。」

「ううん。できる限り一緒にいたかったんだ。」

「うれしい。」

 もう二人の会話は、恋人同士そのものだった。

 つながれた二人の手は、離れたくない気持ちを伝わせている。

「じゃあ、行くね。」

「ああ。ボクからも電話するよ。」

「うん。待ってる...。」

 彼女は大きく手を振って、駅構内の人混み中へと消えていった。

 潤太は、そんな彼女を見送りながら、心の中で決意をあらわにした。

「ボクはもう迷わないよ。どんなことがあっても、ボクは好きな人を信じ続ける。今も、そして、これからも...。」

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