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5.知られざる過去と秘密

 芸能事務所「レンショウ・カンパニー」。歌手やタレント、それにお笑い芸人までもが所属する、一流芸能プロダクションである。

 ある日、この事務所の社長室には、所属する一人の男性タレントと、事務所の社長の姿があった。

 社長は、某テレビ局からある二時間番組の出演依頼を受けたようで、テレビ局側が名指しで指名した、その男性タレントと詳細内容を打ち合わせていた。

 その二時間番組とは、ある有名な作家が書いた、ミステリー小説をドラマ化したものらしい。

 そして、その男性タレントが演じる役は、主人公である高校生と共に活躍するちょっとキザな探偵役、ということだった。

「というわけだ、琢巳。おまえにとって悪い話ではないだろう?」

「めんどくさいな。オレにミステリー役を頼むなんて、そのテレビ局は何考えてんのかねぇ。」

 その男性タレントは、少々呆れた顔で答えた。

 彼は、この事務所の看板タレントである連章琢巳。将来有望の26歳。その名の通り、彼はこの事務所社長の息子である。

「まぁ、そう言うな。おまえもバラエティーばかりじゃ、長くは続かないぞ。ここは、おまえの違ったイメージを見せつけるチャンスだと思うが?」

「確かにね。父さんの言うことも、わからなくもない。だけどさ、何かこう、オレにとってやる気のでるきっかけってヤツが欲しいんだよね。」

「きっかけ?おいおい、仕事はあくまでも仕事だぞ?そんなわがまま言うんじゃない。」

「ふぅ...。」

 連章琢巳は溜め息一つこぼした。

「ねぇ、父さん。それより、そのドラマの相手役って誰なんだい?」

 社長は、テレビ局から渡された封書から資料を取り出して、一枚一枚目を通し始めた。

「お、これだな。ああ、新羅プロの...。」

「え?新羅プロって言ったら、あのビンボー事務所の新羅プロダクションかい?誰だよ、いったい?」

「夢百合香稟だよ。おまえも知ってるだろ?あのスーパーアイドルの。」

「ああ、知ってるよ。彼女を知らないヤツなんて、この業界にそうそういるもんじゃないからね。」

 連章琢巳はニヤっと、不敵な笑みを浮かべた。

「へぇ~、彼女が相手役ねぇ...。」

 彼は少し間を置いて、目の前の社長に了解の意思を示す。

「父さん、オレこの話乗るよ。」

「ん?さては、おまえ、夢百合香稟が相手だからか?おいおい、あまり過激な行動はするなよ。彼女は人気絶頂の売れっ子アイドルなんだからな。」

「心配すんなよ。何も取って食おうなんて考えちゃいないんだからさ。かる~く、つば付けとくだけだって。」

「まったく...。おまえというヤツは、本当に凝りん男だな。」

 ここにいる連章琢巳には、以前より悪い噂ばかりがこの芸能界に流れている。

 女性関係のゴシップが中心で、恋人発覚のスクープが報道されたかと思えば、その数ヶ月後には、また違う女性との噂が報道されてしまう、といった具合なのだ。

 確かに、二枚目タレントとして人気を博している彼だけに、女性にもてるのは間違いないが、本人もかなり女好きのようで、こういった噂が報道されるのもうなずける話なのである。

 連章琢巳は、打ち合わせを終えて社長室を出ていく。

 彼はドラマの資料を眺めながら、にやけた笑みをこぼした。

「夢百合香稟か...。へへ、これはおもしろくなってきたな。」


 * ◇ *

 ある晴れた日曜日の夕刻、ここは唐草潤太の自宅である。

 今日は特別ゲストとばかりに、スーパーアイドル夢百合香稟が、彼の家へと来訪していた。

 潤太と香稟の二人は時折、電話で会話したりして親睦を深めていた。

 彼女のオフの日には、二人でどこかへ出掛けたり、風景画を描きに行ったりと、もうすっかり友達以上、恋人未満な付き合いをしていた。

 今日はまさにその延長線であって、彼女は唐草家の夕食に招待されていたのである。

 予想もしなかった潤太のガールフレンドに、彼の母親が腕によりをかけて料理をこしらえている間、香稟の強い要望により、潤太は彼女を自室へと招き入れることになった。

「き、汚い部屋だけど、どうぞ。」

「ゴメンね、無理言って。ただね、潤太クンの部屋が見てみたかっただけなの。」

 香稟は、潤太の許しを得て、彼の部屋へと足を踏み入れる。

「わぁ...。」

 彼女は部屋一面を見回した。

 潤太の部屋の壁には、彼自作の風景画がいくつも飾ってある。

 キチンとした額縁で保管されているもの、スケッチブックから抜き取っただけのもの、そのすべてが、彼の展覧会のごとく華やかに飾られていた。

「はは、潤太クンの部屋って感じだね。」

「ああ、この絵を見て言ってるの?」

「あれ?あの額縁の絵、何かリボンが付いてるけど...。」

 香稟は、豪華な額縁で飾られた風景画の近くに歩み寄った。

 その額縁の側にある赤と白二色のリボンには、“第37回中学生風景画コンテスト佳作”と記されていた。

 彼女はびっくりした顔で、潤太の方へと向き返った。

「これ、賞取ったの!?すご~い。」

「そんなにすごいってほどのもんじゃないよ。小さい規模のコンテストだしさ。何とか佳作に食い込んだってとこかな。」

「でも、賞は賞よ!すごいことだよ。」

 褒めちぎる香稟を前に、彼は照れる一方であった。

「ふーん...。」

 彼女はもう一度、潤太の部屋を見回した。

「でも...。あたしが予想した、同世代の男の子の部屋と違ってるな、ここ。」

「え、予想って、どういうの予想してたのさ?」

「もっとね、何て言うのかな。男臭いというか、むさ苦しいというかぁ...。」

「なるほど。ボクの部屋には、確かにそういう雰囲気はないかもね。」

 彼女はおもむろに、潤太のベッドの方へと歩み寄り、その場にしゃがみ込んだと思いきや、いきなりベッドの周囲を物色し始めた。

「か、香稟ちゃん!な、なな、何してんの!?」

 香稟の不可解な行動に、彼はびっくりして大声で叫んだ。

 彼女はニッコリ顔で振り向く。

「探してるのよ、ほら、ア・レ!」

「ア・レ...?」

 思わせぶりな言葉に、潤太の頭に疑問符が浮かぶ。

「ほら、男の子ってみんな、枕元とかにエッチな本とか隠すじゃない?だからぁ、潤太クンもそうじゃないかなぁってね!」

「い!?な、なな、何言ってんのさ!?そ、そんなもの、そこにはないよ!」

 目を細めて、クスクスと微笑む香稟。

「えぇ~?ホントかなぁ...。でも、探してみればわかるもんね。」

 彼女はまさぐるように、ベッドの中を調査し始めた。

「わ、わ、や、やめろってぇ!」

 潤太は慌てて、彼女を止めようとした。

「わわっ!?」

 彼は焦っていたばかりに、床に敷いてあったカーペットの淵に足を引っかけてしまい、勢いよくベッドの上へと倒れ込んだ。

「キャッ!?」

 彼の体は、ベッドにいた香稟に覆い被さってしまったのだ。

「...あっ!」

 ベッドの上には、向き合ったままの潤太と香稟がいる。

「......。」

「......。」

 二人は見つめ合ったまま押し黙っている。

 お互いの瞳に、お互いの恥らう顔が映っている。

 部屋にある壁掛け時計が、静かな音で秒針を刻み、窓の外からは、子供達の笑い声がこだまする。

 そんな音や声は、今の二人には届かない。

 二人だけの世界が続く中、香稟のうつろな瞳がそっと閉ざされていく...。

『ゴク...』

 大きな息を飲み込む潤太。

 彼は止めようのない衝動に、その身をゆだねていく...。

『コンコン!!』

 突然、潤太の部屋のドアがノックされた。

 二人はハッと我に返るように、ベッドから逃げるように離れた。

「おい、兄貴ぃ!ごはんできたってさぁ!」

 ドアの先から聞こえた声は、彼の弟である拳太のものだった。どうやら彼は、夕食の支度が整ったことを知らせにきたようだ。

『カチャ!』

 拳太は勢いよくドアを開けた。

「おい兄貴、ごはんだって。」

「わ、わかったよ、すぐ行くから...。」

 拳太は、潤太のことなど目もくれず、赤ら顔の香稟に愛想のいい笑顔を振りまく。

「香稟ちゃん、早く行こ!ほらほら!」

「あ、ちょ、ちょっと待って、拳太クン...!」

 拳太は無理やり、彼女の細い手を引っ張っていった。

 潤太は苦笑しながら、急ぎ足の二人の後に付いていった。


 ◇

 本日の唐草家の夕食は、いつも以上に豪勢なものであった。

 メインディッシュの牛肉ソテー、サイドメニューのコンソメスープにフレンチサラダ、そのすべてが、この家でめったに見ることのない料理ばかりだ。

「さぁさぁ、どうぞ召し上がって。」

 潤太と拳太の母親が、香稟に向かって暖かい声を掛けた。

「どうも今日はありがとうございます。」

 彼女は丁寧な姿勢で、彼らの両親に一礼した。

 彼らの父親は三日月のような目をして、うれしそうに大きく笑う。

「いやぁ、まさか潤太がこんなかわいいギャルを連れてくるなんてな、ホントにビックリだよ。ワッハッハッハ!」

「いやぁねぇ、お父さん!ギャグだなんて。彼女はお笑い芸人じゃないのよ。」

「おいおい、母さん、ギャグじゃなくてギャル。オレが言ってるのはギャルだよ。」

 間の抜けた会話で盛り上がる夫婦。

「そ、そんなのどうでもいいよ。早くいただきますしよう。」

 潤太の仕切りにより、全員が合掌し、ようやく夕食タイムとなった。

「どれも、とってもおいしいです。」

「まぁ、どうもありがとう。」

 どうやら母親の作った料理は、香稟の口にピッタリだったようだ。

「あ、香稟ちゃんだぁ!」

 突然、テレビを見ていた拳太が叫んだ。

 一同は、その声にビクッと体を震わせる。

 拳太の指さすテレビの画面には、夢百合香稟が登場するCMが放映されていた。

「な、何だ、テレビのことか。」

 潤太は、ブラウン管越しの香稟を見つめた。

「おぉ!?おいおい、このテレビの子、彼女にそっくりじゃないか?」

 父親のとんでもない一言に、思わずずっこける唐草兄弟。

「と、父さ~ん、何言ってんだよぉ。ここにいる香稟ちゃんと同一人物だってぇ!」

「何!?そ、そんなバカな!だって、おまえ。彼女、テレビの中で動いてるぞ?ま、まさか二人いるわけじゃないだろうが!?」

 父親は、テレビに映る香稟と目の前にいる彼女を見比べて、ただひたすら驚いている。

 そんな大ボケな父親に、潤太は冷静沈着に事情を説明する。

「あのね、父さん。テレビに映ってる彼女は、VTRっていって、いわゆるビデオに映った彼女なんだよ。つまり、テレビの中の彼女は、ここにいる彼女の少し前の彼女というわけなんだ。」

「彼女彼女って...。おまえ、もう少しわかりやすく説明せんかっ!」

 これ以上、どうわかりやすく説明できるのだろうか...?この時の潤太は戸惑いながらそう思った。

「まぁ、いいじゃないの。それより早くご飯食べて下さいな、お父さん。」

「いやいや、そうはいかないぞ、母さん!この謎を解き明かさん限りは、オレはぁ、メシなぞ、のどを通らんからな!」

 父親は腕組みしたまま、頑固な姿勢を見せつける。

「あ、あの潤太クンのお父さん、よろしいですか?」

 この一連の会話を聞いていた香稟が、自ら事情説明に乗り出した。

「さっき潤太クンが言った通りで、テレビに映っていたあたしは、ビデオテープの中に映っていたものなんです。ほら、最近のお父さんお母さんも、お子さんをビデオに収めること多いじゃないですか。原理はそれと同じなんです。つまり本人を目の前にして、ビデオからその人物を見るといった感じで...。」

 香稟の例題を添えた説明に、父親はウンウンとわかったようにうなずいた。

「おお、なーるほど!そういうことだったのかぁ。いやぁ、さすがはゲイノージンだね、キミは。わっはっはっは!」

「いえ、別に芸能人だからという理由は、ちょっと違うと思いますけど、わかっていただけてよかったです。」

 高笑いの父親に、ちょっと照れ気味の香稟だった。

「おい潤太!おまえも、彼女みたいにちゃんと、わかりやすく説明できるよう勉強せんかっ!ホントにこの息子どもは、どうも口べたでいかんなぁ。」

 潤太は心の中でつぶやく。

「...彼女の説明って、ボクの説明と、さほど変わらない気もしたんだけどなぁ。」

 ちょっとおかしな、そんな和やかな会話が飛び交う中、唐草家の夕食会は楽しく続くのだった。


 ◇

 どっぷり暗闇に包まれた午後9時過ぎ。

 楽しい夕食会も終わり、香稟が唐草家を後にする時間となっていた。

 香稟は、潤太の両親に深々と頭を下げて、この上ない感謝を伝えていた。

 潤太は、彼女を駅まで送るため、彼女と一緒に家を出ていく。

「あ、待ってくれぇ!オレも送るよぉ!」

「ダメだ、拳太!おまえは今日、ご飯の後片づけをする日じゃないかっ!」

「そ、そんなぁ~...。」

 拳太は肩を落として、居間の方へと消えていった。

 潤太と香稟の二人は、薄暗い電灯の下を歩き始める。

「今日はありがとう。楽しかったし、お料理もとってもおいしかったわ。」

「母さん、かなりがんばったみたいだからね。いつもだったら、あんな豪勢なおかずなんて作らないもん。よほど、香稟ちゃんの来訪がうれしかったと見えるな。」

「そう言ってもらえると、遊びに来た甲斐があったわ。フフフ。」

 二人は、肩を触れ合わす程度に接近して歩いている。それは、明らかに出会った頃とは違っていた。以前と違うお互いの気持ちを、近づくことで意識し合っているようだ。

「あ、そうだ!」

「ん、どうかしたの?」

 香稟はうれしそうな顔で、すぐ側にいる潤太の腕を掴んだ。

「あたしね、今度二時間ドラマの主役やるの!明日から撮影開始なんだ。」

「へぇ、そうかぁ。どんな役なんだい?」

 その二時間ドラマのあらすじを熱く語る香稟。

「あたしが演じる高校生が通う学校でね、殺人事件が起こるの。そこで、この高校生がある私立探偵と一緒になって、犯人を突き止めていくっていう物語なの。」

「おお、ちょっとかっこいい役なんだね。がんばってね。」

「うん。放映はね、二週間後の金曜日、午後9時からの“金曜サスペンス劇場”だから。絶対に見てよね。」

「了解!」

 香稟の表情からは、仕事に対する前向きさが伝わってくる。それは、これからの芸能活動に、新たな希望の光が射し込んだことによる、彼女なりの喜びでもあった。

 芸能人としての生活に嫌気が差し、移動中の社用車から逃げ出したあの香稟は、少しずつだが、自分の仕事に張り合いを持ち始めていたようだ。

 潤太は、まぶしいほど輝くアイドルを横に見て、心なしか自分が誇らしく思えた。


 * ◇ *

 某テレビ局Dスタジオである。

 本日ここでは、“金曜サスペンス劇場”の撮影が行われる。

 スタジオ内には、撮影スタッフを始め、出演者達がぞろぞろと集まってきた。夢百合香稟もその中の一人であった。

 彼女が緊張気味にスタジオへ入ってくると、彼女を待っていたかのように、一人の役者が声を掛けてくる。

「やぁ、香稟ちゃん。オレは連章琢巳。今日からの撮影、よろしくたのむよ。」

 クールな表情にキザな話し方、このドラマで香稟の相手役を演じる連章琢巳である。

「あ、よろしくお願いします!」

 香稟は、いつも通りの元気なあいさつを交わした。


 ◇

「よーし、それじゃあ本番行ってみよーかぁ!」

 簡単なリハーサルも終わり、撮影監督の大きな声がスタジオ中に鳴り響く。

 このドラマの主演に抜擢された香稟は、緊張な面もちで、いざ“スタート”の声を待ち望んでいる。

 相手役の連章は台本片手に、自分のセリフの最終確認をしている。

「よーい、スターッ!」

 撮影監督の一声で、スタジオ内はドラマの舞台へと変わった。

 ここで撮影されるシーンは、主人公の高校生が、知人に紹介された私立探偵事務所を訪ねに来るといった設定である。

「あ、あの、あたし、霞丘麗子といいます...。あ、あなたが、探偵の雲野内さんですか?」

「...そうだけど?オレに何か用かい?」

「あ、あの...。じ、実は、あたしの通う学校で、さ、殺人事件が起こっちゃって...。」

 香稟と連章のツーショットが続く。

 二人はセリフを噛むことなく、すっかりドラマの世界へ入り込んでいるようだ。

「はいオッケー!二人ともお疲れさーん!」

 このシーンでは、少しのNGはあったものの、わずか二時間というスピードで撮影を終えていた。

 ようやく緊張の糸がほぐれた香稟は、顔をほころばせながら、撮影スタッフにあいさつする。

 そんな彼女の側へやって来た、彼女のマネージャーの新羅今日子。

「ご苦労さま。いい演技だったわね。」

「ありがとうございます。」

 真面目に仕事に取り組む香稟の姿は、新羅にとってこの上ない喜びだったようだ。

「いやぁ、すばらしい演技だったね。さすがはスーパーアイドル夢百合香稟。その名を汚さない迫真の演技だったよ。」

 にやけた顔で現れた男、相手役の連章琢巳である。

 彼はサラサラとした髪の毛をかき分けて、香稟の側へとやって来た。

「ありがとうございます。明日もよろしくお願いします。」

「もちろんだよ。キミのような魅力的な女性の相手役なんて、こんな光栄なことはないからね。オレの方こそ、よろしくお願いするよ。」

 自慢の口説き文句を口にする連章。彼は得意の流し目で、香稟の横にいる新羅に目を向ける。

「これはこれは、新羅さんじゃないですか...。お元気そうで何よりで。ククク...。」

 凍りつくような彼の視線に、新羅の顔色が急変した。

「...連章クン、あなたも元気そうじゃなくて?」

「ええ。至って元気ですよ。今回はお世話になりますよ、新羅さん。あ、そうそう、社長さんによろしく伝えて下さいよ。今後ともよろしくってね。」

 新羅の目つきがいつになく鋭くなる。小刻みに震えながら、彼女は何かをこらえているようだ。

「それじゃあ、また。」

 連章はウインクを一つこぼすと、スタジオから軽やかに出ていった。

「...どうかしたんですか?今日子さん?」

「な、何でもないわ。さぁ、わたし達も早く出ましょう。」

 香稟の問いかけに答えを出さない新羅。

 彼女は平静を装いつつ、香稟の背中をそっと押しながら、スタジオから姿を消していった。


 * ◇ *

「よぉ、潤太クン!おっはよう!」

 いつもと変わらない朝、ここは潤太の通う高校だ。

 眠い目を擦る潤太に声を掛けたのは、いつも通りの“あの”二人だった。

「おはよう、ふあぁ...。」

「何だよ、おまえ。こんなすがすがしい朝なのに、そんなアホみたいなあくびしおってからに...。」

 色沼と浜柄の二人は、彼に呆れた表情をぶつけている。

「そんなこと言われてもさぁ。昨日、仕掛かってた絵があったもんだから。」

「相変わらずそれかい!おまえもホントに好きだなぁ。」

「まぁね。」

 “絵”というキーワードで、色沼・浜柄コンビは例の話題を持ち出す。

「おうおう、そういえばさ、彼女元気か?ほら、夢野香ちゃん!」

「相変わらず、二人で楽しくお絵かきしてんのか?」

 潤太は素っ気ない顔で、両手を大きく振り乱す。

「いやいや、会ってないよ全然。だってボクと彼女は、付き合っているわけじゃないしさ。ちょうどおまえ達と偶然出会った時以来、彼女とは会ってないよ。」

「ほう。そうか、そうか。それはよかったな。」

「な、何だよそれ?何でよかったのさ?」

 色沼は鋭い目つきで、潤太の顔に人差し指を突きつける。

「あたりめーだろぉ?おまえみたいな根暗なヤツが、あんな香稟ちゃん似の女の子と仲良くなるなんて、たとえお天道様が許しても、このオレ達は許さねぇぜ!」

「そうだそうだ!おまえに彼女なんてもったいないからな!」

 子供っぽくひがむ色沼と浜柄の二人に、溜め息を一つこぼす潤太であった。

「...おまえら、それでも仲間かよ...。ひどい言われようだね。」

 二人はニカッと笑みを浮かべて、彼を押し倒さんばかりに急接近してきた。

「というわけで!おい潤太、彼女の電話番号を教えろ!」

「は!?なっ、何が、というわけなんだよ!ボ、ボク電話番号なんて知らないよ!」

「何ぃ!?じゃあ、住所ぐらいは知ってるだろ!?」

「それも知らないんだよ!」

「何ぃぃ!?じゃあ、じゃあ、よく遊んでる場所ぐらいは聞いてるだろ!?」

「知らないって。そういったプライベートな話はしてないんだよ!」

「何ぃぃぃ!?そ、そそ、それじゃあ、趣味とか特技ぐらいは...!」

 この場が突如、シ~ンと静けさに包まれた。

「...おいおい、趣味と特技知ったところで、オレ達に何の得もねぇじゃねぇか...。」

「そうだな...。」

 色沼と浜柄の二人、そして潤太が、空しい風に吹かれていた、そんな矢先だった。

 潤太の耳に、夢百合香稟の名前が飛び込んだ。

 教室内にいる彼のクラスメイト達が、何やら彼女のネタで盛り上がっている。

 彼がそわそわしながら、その話題に聞き耳を立てる中、色沼はいち早く、クラスメイト達の会話を理解したようだ。

「おお、そういえば香稟ちゃん、今度二時間ドラマやるんだったな。」

 それを聞いて、浜柄は相づちを打つ。

「ああ、例の金曜サスペンスだろ?確か二週間後の放送だったよな?」

 その時、潤太は正直驚いていた。目の前にいる二人の、夢百合香稟に対する情報の早さに脱帽していたのだ。

「...でもよ、相手役がちょっと気になるよなぁ。」

「ああ~、アイツな。確かにうれしい相手役じゃないな。」

 “気になる相手役”に、素朴な疑問を抱いた潤太。

「ねぇ。何が気になるの?」

 色沼は芸能オタクとばかりに、彼の質問にすぐさま答える。

「いやな、相手役の連章琢巳っていうのはさ、言ってみれば、芸能界のスケコマシって感じでな。連章さ、昔はろくに売れないタレントだったんだけど、ある有名女優と不倫疑惑が持ち上がった途端、あっという間にスターの仲間入りしちゃったんだ。」

「ふ~ん。そういうことってあるのかぁ。」

「いやそれがさ、今でもヤツは性懲りもなく、そういった女絡みの噂が絶えない男なんだよ、またこれが。」

「ふ~ん...。で?」

 色沼の言わんとする意図を、まったく理解できていない様子の潤太。

 色沼と浜柄の二人は呆れ顔で、おとぼけた彼に念を押すように釘を刺す。

「おいおい、おまえ、鈍いヤツだなぁ。つまり、香稟ちゃんがヤツに目を付けられる可能性があるってことだよ!」

「つまり、ゲイノースキャンダル!夢百合香稟、連章琢巳とラブラブかぁ、とかいうニュースが飛び込んでくるかもってこと!」

「えっ!そ、それって。そんな、まさか!?」

 潤太はその衝撃に愕然とした。

 この事実は、一般人には味わえない優越感を味わっていた彼にとって、この上ない焦燥感の到来を告げていた。

「そ、そんな!か、彼女に限って、まさか...!」

「おいおい、何だよその言い方は~?まるで、香稟ちゃんを自分の彼女みたいにいいやがって。」

「え!?あ、い、いや。そ、そそ、そういうわけじゃないんだけど...。あは、あはは...。」

 今の彼は、乾ききった笑みでこの場をやり過ごすしかなかった。

 なぜなら彼の心境は、ただならぬ不安さに支配されていたからである。


 * ◇ *

 それから一週間が過ぎた。

 次週放映される金曜サスペンスドラマの撮影は、完成度120%の出来で無事終了した。

 今夜、このドラマ関係者が集まる打ち上げパーティーが、都内の某高級ホテルのラウンジで開催されていた。

 番組スポンサーのお偉いさんの堅いあいさつが終わると、会場に集まった関係者達が、テーブルの上に飾られたオードブルに舌鼓を打つ。

「いやぁ、今回は非常にいいね。大変結構、結構!」

「ありがとうございます。今後ともよろしくお願いします。」

 スポンサーのお偉いさんはすっかり大喜びで、テレビ局のプロデューサーはさらにご機嫌を取ろうと、必死に両手をすり合わせていた。

 ドラマの撮影監督や番組のディレクターもが、恐縮しながら二人の会話に参加している。

 一つのドラマの打ち上げとは、こういうしがないものなのである。

 その頃香稟は、女性のスタッフや共演者達と、撮影時の苦労話に華を咲かせていた。

 そこへ現れたのは、彼女の相手役を演じたあの連章琢巳である。

「やぁ、香稟ちゃん。今回はお疲れさま。」

「あ、連章さん。どうもお疲れさまでした。」

 連章はほくそ笑みながら、ドレスアップした香稟を見つめた。

「ほう。いつも素敵だけど、今夜は一段ときれいだね。改めてキミの美しさを知ったな...。」

「そ、そんな...。」

 歯の浮くような連章のセリフに、香稟は恥ずかしそうにはにかんだ。

「あれ香稟ちゃん。ジュースなんか飲んでるのかい?せっかくのパーティーなんだから、ワインでもどうかな?」

「え...。だ、だけど、あたしはまだ未成年ですし...。それにお酒なんて、まともに飲んだことないですから。」

「それじゃあ、なおさら飲まなきゃ。せっかくの打ち上げなんだよ。今夜ぐらいは、少し羽目をはずしてさ、みんなと一緒に楽しまなきゃ。それに大人になるためにも、少しぐらいお酒をたしなむことも大事だと思うけどな。」

 ウエイターからワイングラスを受け取った連章は、琥珀色に輝くそのグラスを香稟に差し出した。

「ほら...。このワインはね、ボジョレー・ルマンといって、成功を祝うワインなんだ。今日という日にピッタリだと思わないかい?」

「そ、そうですけど...。」

 彼女は未だにためらっている。今一歩、常識という壁を越えられない。

「さぁ、乾杯しようよ。オレとキミの出会いを祝してさ。」

「え、え...。」

 不安そうな顔の彼女に、連章は無理やりワイングラスを持たせた。

「乾杯...。」

 ニヒルを気取る連章は、手にしていたグラスをグイッと飲み干した。

「どうしたの、香稟ちゃん。さぁ、キミも飲みなよ。記念すべき二人の祝いの美酒を...。」

 彼の巧みな語りかけに、香稟の心はいつしか、不思議なぐらい解放されていた。

 彼女はついに、手にしたグラスに注がれた、成功を意味するワインに口を付けた。

「どう、おいしいでしょ?」

 香稟はスッキリとした表情で、素直なままに口を開いた。

「ホントだ、すごくおいしい...。ワインって、こういう味なんですね。」

「ハハハ。このワインは高級なんだよ。その辺のスーパーで安売りしてるワインとは別格だからね。」

「そうかぁ...。それじゃあ、これはめったに飲めないワインなんですね?」

「そういうことさ。」

 一口のボジョレー・ルマンによって、こわばっていた彼女の心は自然と和らぎ始めていた。

 連章はニヤっと不敵な笑みをこぼす。その笑みは嫌なほど、彼の裏側にある卑しさを感じさせる。

「この女も、もうオレの手の中だな...。」

 彼の欲望がそうささやいていた。

 香稟は酔いしれて、目の前にいる色欲魔にすっかり心を許している。

 ガードが甘くなった女性ほど、あっけないものはない...。連章は妖しげにそうつぶやく。

 連章の強引とも言える酒の誘いに、香稟は徐々に理性が失われていく。そして彼女は、果てしない後悔の渦へと巻き込まれていくのだった...。


 * ◇ *

「う、うう...。ん...。」

 香稟はゆっくり目を開ける。

 彼女の開けた瞳に映るもの。それは、豪華な装飾をあしらったシャンデリア。

 彼女は、その見慣れない天井に放心状態となる。

「よう...。ようやく目覚めたかい?」

 聞き覚えのある声。

 香稟は激しい頭痛に襲われながら、ゆっくりとその身を起こした。

「...ここは?」

 彼女は朦朧とした意識の中、辺りを見渡す。

 まったく見たことのない戸棚、洋服ダンス、机、ソファーベッド、そして...。

「れ、連章さん...!?」

「ぐっすり眠っていたようだな。まぁ、あれだけワインを飲んじゃ、無理もないがね...。」

 連章はクスクス笑いながら、ブランデーグラスをテーブルへ乗せた。

「こ、ここはどこですか!?」

「オレの家さ。とはいえ、オレがプライベートで借りてるマンションの一室だけどな。」

「え!?そ、それじゃあ、今日子さんはどこに...?」

「心配することはない。彼女にはオレから言っておいたからさ。」

「え、どういうこと...!?」

 連章は目を細めて、香稟に向かってにやけた顔を突きつけた。

「...今夜、オレの家でかわいがってやるから、さっさと帰りなってな。」

「!!」

 香稟は恐怖のあまり青ざめた。

 さすがの純情な彼女でも、このシチュエーションと連章の言葉に、今置かれている状況がどういうことなのかハッキリとわかっていた。

 捕われの猫のように、体を震わせて身構える香稟。

「ハハハ、安心しなよ。別に痛い思いなんてさせないからさ。」

 じわりじわりと、連章は彼女の元へ歩み寄っていく。

 酒の影響からか、彼女はふらつくほどに気分が悪くなっていた。

 それでも彼女は、目の前の色欲魔から、逃げるように後ずさりしていく。

「い、いや...!こ、こないで...!」

「おいおい、そんなに嫌がるなよ。おまえのマネージャーから了解もらってるんだぜ?言う通りにするのがアイドルってもんだろうが!」

「そ、そんな、まさか今日子さんが...!?」

 連章は怒涛のごとく、ソファーにいる香稟目掛けてなだれ込んできた。

「キャアァ...!!」

 抵抗する彼女の手をわし掴みする連章。ここにいる男は、あのニヒルでクールなタレントの連章琢巳などではなかった。

「お、おとなしくしろぉ...!ヘヘヘ...。いい思いさせてやるからよ...。」

「だ、誰か助けてぇー!!」

「へへ、誰もいるわけねぇだろうがぁ!!さぁ、おとなしく観念するんだ!!」

「いやぁぁ...!!」

 彼女のピンクの唇に、鬼畜のような顔が押し付けられる瞬間だった。

『ガツン...!』

「ぐあぁあぁ...!?」

 連章はうめき声を上げると、ソファーの下へと倒れ込んだ。

 香稟がそっと目を開くと、そこには、激しい息遣いをする、陶器製の花瓶を抱えた女性の姿があった。

「きょ、今日子さん...!?」

「さぁ、香稟!早く逃げるのよ!!」

 新羅今日子は、素早く彼女の手を掴んで、全速力で玄関へと駆けていく。

「く、くっそ~...!」

 叩き付けられた頭を抱えながら、痛さにうずくまる連章。

 彼の目には、二人の女性の駆け抜ける足下だけが映っていた。

 玄関のドアから急ぎ足で出ていく二人。そして二人は、マンションの前に止まっていた社用車へと乗り込んだ。

「早乙女クン、早く車出して!」

 社用車はタイヤを滑らせて、ハイスピードでその場から走り出した。

 香稟は、この事態が現実に感じられず、なかなか体の震えが止まらなかった。

「ゴメンなさい、香稟...。本当にゴメンなさい...。」

 涙をこらえている新羅は、彼女と目を合わさないまま静かにつぶやいた。

 香稟は唇を噛んで、この非常事態の真相を問いただす。

「...どういうことですか!?」

「......。」

「答えて下さい!あの人、今日子さんには話を付けたと言ってました!ちゃんと、あたしにわかるように説明して下さい!」

 涙を浮かべて、かすれた声で怒鳴りつける香稟。

「...今から6年前よ。」

 新羅は両手で顔を覆い隠し、彼女自身の秘められた過去を打ち明ける。

「わたしがまだ、芸能人という肩書きだった頃、わたしはあの男と出会った。その頃の彼は、今ほど売れてはいなかったけど、レギュラー番組を数本持つぐらいの仕事はこなしていたわ。それに引き替え、その頃のわたしは年齢を増すことで、アイドルという名声をなくしかけていた時期だった。」

 覆い隠した新羅の頬に、小さな涙がこぼれている。香稟の心はますます締め付けられる。

「事務所もその頃、あなたのようなスーパースターに恵まれず、資金繰りも悪化していたわ。あの男は、そんな火の車だった事務所を救ってやると、わたしに言い寄ってきたのよ...。」

 新羅は悔しそうに、両手をひざの上に叩き落とした。

「あの男、連章琢巳はその見返りとして、わたしの体を要求してきたのよ...!」

「え...!」

 ショックのあまり、香稟の表情が一瞬でこわばる。

「わたしは、社長である父を助けたくて、やむなくあの男と関係を持ったわ。だけど、そんな気の緩みが、この先の悪夢を生み出してしまったの...。」

「ど、どういうことですか...!?」

「わたしが犯した行為がね、収賄罪といって違法行為を招いてしまったの。あの男、それをいいことに、わたしの事務所を脅し始めたのよ。もし逆らえば、この事実をすべてマスコミの前で明らかにすると...。」

「そ、そんな!ひ、ひどすぎますよ、それ!」

 自分の犯した罪にさいなまれるかのように、新羅の表情は苦悩に満ちている。

「あの男、あなたに目を付けたのよ。わたしに向かってこう言ってきたわ。打ち上げパーティーから香稟を連れ出すから、その手伝いをしろってね。」

「......。」

 香稟はこの真相に、やるせない悲しみでいっぱいになった。

「...仕方がなかった。あなたをこんな目に遭わせたくはなかったけど...。仕方がなかったの...!」

「今日子さん...。」

 新羅は悔しい涙を流し続ける。その涙は、彼女の心にある忌々しい後悔そのものだった。

「そういう理由があったのに、どうしてあたしを助けてくれたんですか...?もし、このことがマスコミに知れたら、事務所が大変なことになるのに...。」

「耐えられなかったのよ...。あなたは、まだこれからなのよ。そんなあなたを、こんな形で傷物にしたくなかった。たとえ、わたしの身がどうなろうとも...。」

「きょ、今日子さん!!」

 香稟は涙をこぼして、新羅の温もりある胸に飛び込んだ。

 それを受け止めた新羅は、胸の中の香稟をやさしく抱きしめていた。

 首都高速を駆け抜ける社用車は、まるで何事もなかったかのように、ネオンきらめく市街地を走り去っていく。

 秘められた芸能界の裏側が明かされた夜。その夜は静かに閉じていく。

 しかし、この一連の出来事は、この日の夜のように静かには終わらない。

 なぜならこの先、香稟にとって思いも寄らぬ展開が待っていたからだった...。

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