4.彼女のはかない想い
とある日の夜、ここは唐草潤太の自宅である。
この夜は一家勢揃いで、和やかな夕食の時間が繰り広げられていた。
居間にあるテレビからは、ある青春学園ドラマが流れている。
そのドラマは、あの潤太の学校で撮影が行われた、あのラブコメドラマであった。
テレビのブラウン管から映し出された映像には、あの可憐にも愛らしいアイドル、夢百合香稟の姿が映っていた。
潤太と弟の拳太は、そのドラマを食い入るように視聴していた。
その執着心と言ったら、テーブルに並べられた夕食が、すっかり冷め切ってしまうほどであった。
「こら、あなた達!テレビばかり見てないで、ごはん早く食べてちょうだい!」
さすがに二人の母親は、その様に苛立たしさを感じていたようだ。
「わかってるよぉ。でも今、ちょうどいいところなんだよ。」
今の拳太にしたら、母親の文句などお構いなしといったところか。
「いいところって、ただの女の子が映ってるだけじゃない。」
「それがいいところだって言ってんの。あの香稟ちゃんが映ってんだよ。見逃すわけにはいかないよ!」
母親は不思議そうな顔をしている。
拳太の横に座る潤太は、そんな拳太と母親のやり取りにクスクスと微笑んでいた。
「あ、わかったわ。」
母親は何かに気付いたように、ポンと手を叩いて拳太に問いかける。
「この女の子が、これから誰かに殺されちゃうんでしょ?」
「ブッ!」
母親の突発的に出た一言に、兄弟二人は口に入れた食べ物を吹き出してしまった。
「そんなわけないだろぉ?これはそういうドラマじゃないんだよ!」
「あら、そうなの?」
「まったく。母さんがいつも見てるサスペンスものじゃないんだよ、これは。黙って見ててよ、もう。」
拳太はすっかり呆れ顔である。
「あら、つまんないわね。母さん、てっきり誰が殺されるんだろうって、ワクワクしながら見てたのに。残念ねぇ。」
「そ、そんなのにワクワクしないでよ、母さん!」
潤太は思わず、ガッカリする母親にそう突っ込まずにはいられなかった。
「せっかく犯人まで予想してたのに...。」
殺人が起こっていないドラマを見ながら、犯人というものを予想する母親も、ちょっと変わった人なのかも知れない。
潤太は、拳太同様にテレビに映る女子高生を眺めていた。
しいて言うなら、女子高生役を務める夢百合香稟の姿を見つめていたようだ。
その彼が、信楽由里イコール夢百合香稟と知ったあの夜、彼女宛に手紙を書いたあの夜以来、彼女からの返事は今日までなかった。
新宿の街中で偶然出会った彼女。お礼とばかりに、手料理をご馳走してくれた彼女。
潤太はいろいろな想いを胸に、彼女の生き生きとした演技を見つめ続けていた。
* ◇ *
ある晴れた日曜日。
潤太はその日、早々と目覚めて、やりかけの絵を完成させようと、出掛ける準備を整えていた。
「さてと...。それじゃあ、出掛けるか。」
彼はいつものスケッチブックを抱えて、すがすがしく自室を出ていく。
「潤太!電話よぉ。」
一階から響きわたる、彼の母親の大きな呼び声。
彼は駆け足で階段を降りていく。
電話の側で待っていた母親が、駆けつけた彼に受話器を差し出す。
「あんたも角に置けないわねぇ。クスクス。このこのぉ。」
にやけ顔の母親は、彼のお腹目掛けて肘鉄を喰らわした。
「な、何だよ!?」
何が何だかわかならい潤太は、手渡された受話器を耳にあてがう。
「もしもし...?」
受話器の先から聞こえた声は、彼にとっては懐かしく、待ちわびていたものだった。
「香稟です。お久しぶり、元気だった?」
その弾んだ声は、いつもテレビを通して聞いている、アイドルの美声そのものだった。
「か、香稟ちゃん!?ど、どど、どうしたの?」
いきなりの電話に、彼の動揺ぶりは半端ではない。
「あのね、あたし今日、久しぶりのオフなの。潤太クン、今日ってヒマかしら?」
彼はつい、誰にも見えやしないのに、スケッチブックを後ろへ隠す仕草をしながら、上擦った声で返答する。
「だ、だだ、大丈夫だよ。今日はまったく、全然、予定入ってないんだ。」
彼はあっという間に、本日の予定を抹消していた。
「もしよかったら。あたしに絵を教えてくれないかな?」
「“え”って、絵画のこと?」
「もう、当たり前でしょ!他にどういう“え”があるっていうのぉ?」
「そういわれてみれば、そうだね。ははは。」
二人は、すっかりお友達のような会話で盛り上がる。まぁこの二人はもう、まったくの他人同士とは言えないのも事実ではあるが...。
「そうと決まったら、これから待ち合わせしましょ。新宿駅西口の待合い室でいいかな?あなたもスケッチブックを持ってきて。」
「わ、わかった。これからすぐ行くよ。じゃあ!」
彼は喜びを噛みしめながら、ゆっくりと受話器を置いた。
彼の心臓の鼓動は、張り裂けんばかりに高鳴っている。
そんな彼の後ろには、相手の正体が気になっていた母親がたたずんでいた。
「ねぇ潤太、相手の女の子はだーれぇ?」
にやにやしながら問いかける母親。
「い、い、いや、その。と、友達だよ。そう、学校の友達なんだ。」
「あら?あんた同じ学校に、女の子の友達なんていたかしら?」
「い、いるよ!一人や二人ぐらい...。」
彼はうまくごまかそうと躍起になっている。本当のところ、母親の言う通り、彼は同じ学校に、女の子の友達などいなかったのだ。
「と、とにかく、ボク出掛けるからさ。行ってきまーす!」
彼は、母親の冷やかしを背中に受けながら、待ち合わせ場所の新宿駅へと向かうのだった。
◇
日曜日の新宿は、さすがに様々な人々でごった返していた。
満員電車の中から、潤太は押し出されるように、新宿駅のプラットホームへと降り立った。
彼は早足に、待ち合わせ場所の西口待合室へと向かう。
行き交う人々とすれ違いながら、彼は待合室へと駆けつけた。
「まだ来てないのかな?」
彼はグルグルと辺りを見渡したが、彼女らしき人物を捕らえることはできない。
ここまで急いで来たせいか、彼の額には汗がにじんでいた。
彼が、ポケットから取り出したハンカチで汗を拭っていると、背中の真ん中を誰かにツンとつつかれた。
彼がおもむろに振り返ると、そこには、茶色い帽子をかぶり、黒いフレームの眼鏡を掛けた、シックな色合いの衣装をまとった女の子が立っていた。
「おす、遅かったじゃない。」
「え、も、もしかして香稟ちゃん?」
「ピンポーン、正解!どう、なかなかの変装でしょ?」
彼女は、周りの人達に気付かれないような小声で話している。
「お、驚いたよ。髪型も違う気がするけど?」
「へへへ。実はね、演技用のかつらをかぶってきたのでーす。」
「ど、どうりで。」
彼女は、大きめな手提げ袋からスケッチブックを取り出す。
「ほら見て。この機に買ったんだよ。」
「あ!結構高いヤツ買ったんだね。ボクのよりグレードがいいヤツだよ、それ。」
「へぇ~。さすがに、そういうところにも詳しいんだね。」
「ま、まぁね...。」
感心している香稟を前に、頭をかきながら照れている潤太。
「それじゃあ、行こうか!」
「う、うん。」
彼女は、潤太の腕を掴んで引っ張るように走り出す。
まるで、出会ったあの時のように、潤太をリードする香稟。彼女の目指す方向は、山手線乗り場であった。
「ま、待って。香稟ちゃん、ど、どこに行く気なの!?」
「横浜だよ!」
「よっ、横浜!?横浜って、“ヨコハマたそがれ”のあの横浜?」
「うん!たそがれようが、たそがれまいが、今日行くところは横浜なの!」
香稟はニコニコ顔で、潤太の背中を押しながら、品川方面へ向かう山手線の電車へと乗り込んだ。
二人は隣り合って、空いている座席へと腰掛ける。
「で、でもどうして横浜に?どこか行きたいところでも?」
「八景島!」
「え、ハッケイジマっていったら...。八景島シーパラダイス?」
「そう!あたしね、まだ行ったことなかったんだぁ。それに、八景島は景色もすっごくきれいって言うから、そこで絵を描くのもいいかなぁって思ったの。」
胸躍らせる二人を乗せて、電車は一路品川駅へと走行していった。
◇
二人は、品川駅から京浜急行線へと乗り換えて、金沢八景駅へと辿り着く。そこからシーサイドラインを5分少々進んだ先に、八景島シーパラダイスは存在した。
「わぁ、いいところだわ。うんうん!やっぱり海が近いっていいわね。」
「ホントに島の上なんだね、ここって。ボク今まで、八景島ってただの地名だと思ってたよ。」
入場券を購入した二人は、ワイワイと賑わう園内へと入っていく。
「それじゃあ、まずはねぇー。アクアミュージアムへレッツゴォ!」
「あれ、絵を描きに来たんじゃないの!?」
「その前に、まずは視察を兼ねて思いっきり遊ばなきゃ!せっかくここまで来たんだもん。」
「そ、そりゃそうだけど...。」
どうも潤太は、こういったアミューズメント施設に馴染めない様子だった。
そんな彼などお構いなしに、ウキウキ気分の香稟は、及び腰な彼を引き連れて、アクアミュージアムへと駆け出していった。
◇
二人の訪れたアクアミュージアムは、いわば大規模な水族館といったところだ。
大きな水槽を優雅に泳ぐ海の生き物達、人気者のラッコやイルカといった動物達が、二人の来訪をあどけない顔で出迎えていた。
「見て見て!スタジアムでショーがあるみたいよ。行ってみましょう?」
「そうだね。」
二人がアクアスタジアムを訪れると、ものすごい人の数が辺りを埋め尽くしていた。
混み合うスタジアムをかき分けながら、二人はショーの見える位置まで足を運ぶ。
「あ、ここにしましょう。」
二人は、空いていた二人掛けのベンチへと腰掛けた。
スタジアム中央から、ショーに参加するであろう飼育係の人が姿を見せ始めた。
ショーの主役となるイルカやアシカ達が、大きな水槽の中で気持ちよさそうに遊泳している。
マイクを握った飼育係の一声で、海の生き物達の華麗なるショーの幕が上がった。
スタジアム内は、割れんばかりの大きな声援に包まれる。
まず始めに、ビーチボールと戯れるアシカが姿を見せて、お茶らけた芸を披露している。
「おお、うまいもんだね、あのオットセイ。」
「やだ潤太クン!あれアシカよ。」
「え?そ、そうなの!?ボク、アシカとオットセイの区別、わかんないんだよね...。ははは。」
「似てなくもないもんね。フフフ。」
二人は和やかな雰囲気の中、アシカの楽しいショーを見学していた。
それに続くのは、このショーの華であるイルカのショーである。
「あ、いよいよイルカさんだよ。」
「へぇ、どんなことするんだろう!?」
ワクワクしながら、今か今かと水槽を見つめる二人。
飼育係の指示の元、イルカ達は水しぶきを上げながら天高く舞い上がったり、台座に体を乗せては甲高い声を発して、観客席の歓声を我がものにしていた。
ファンサービス旺盛なイルカ達は、観客の期待に応えるように、すばらしいパフォーマンスを披露していた。
その様に、観客席からとてつもない拍手が巻き起こる。無論、香稟と潤太もその仲間であった。
「キャー、すっごーい!」
「うわぁ、イルカって器用なんだね!」
楽しいショーも終わり、二人はかわいい海の動物達に見送られながら、水族館内へと戻っていく。
「あ、こっちにペンギンがいるみたい!潤太クン、ほら行くよ!」
「わ、ちょ、ちょっと、香稟ちゃん...!」
香稟もこの時ばかりは、忙しい仕事も忘れてひらすら楽しんでいた。
潤太もそれを気遣ってか、彼女の言うがままに行動を共にしていた。
大きな敷地の中に、砦のような建造物が立ち並ぶ場所、そこはコウテイペンギンの住処である。
二人は、よちよち歩くコウテイペンギンを眺めている。
「かわいいね、ペンギン。」
「あ、エサ与えてるよ、ほら、あそこ。」
「え、どこどこ?あ、ホントだぁ。」
コウテイペンギンの憩いのプールに、無数の魚が投げ込まれると、コウテイペンギンの群れは一斉にそのプールへと飛び込んでいく。
「すごい勢いだね。あのペンギンがあんなに早く走るなんて。」
「ははは。やっぱりお腹が空くと、人間もペンギンも変わんないね。ボクと一緒だ。」
「え!?潤太クン、ごはん食べる時、あんなにがめついの?」
「君も見ただろ?ほら、君が夕食ご馳走してくれた時。」
「あ、思い出したぁ!そういえばそうだったね。あははは。」
「そ、そんなに笑わないでよ。ひどいなぁ...。」
二人はそんな雑談をしながらも、アクアミュージアムを思いっきり堪能していた。お互いが、今日という日を大切な思い出にするかのように。
◇
アクアミュージアムを後にした二人は、園内のレストランで軽く昼食を済ませて、次なる散策へと赴いていた。
「ねぇねぇ、次はあそこに行こう!」
「え?あ、あれ何...!?」
「行ってみればわかるよ。ほら、行くよ!」
二人が訪れた先は、プレジャーランドという遊園地であった。
そして香稟が指さしたもの、それは、このプレジャーランドの名物である「ブルーフォール」というアトラクションだった。
ブルーフォールは、107メートルという高さから急降下する乗り物で、なんと最高速度は125キロ、重力も4Gかかるほど、スリル満点のアトラクションである。
「ちょ、ちょちょ、ちょっと待って!ま、まま、まさか、あれに乗ろうなんて言うんじゃ...?」
「もちろん!」
「わぁ、そんなに腕を引っ張らないでぇ!!」
実をいうと、潤太はジェットコースターのような、こういったスリルのある乗り物が大の苦手なのである。
「大丈夫よ。あたしが一緒に乗るんだから。ね、これもいい勉強だと思ってさ。」
「勉強ったって...。こんな怖い思いする勉強なんて聞いたことないよぉ...。」
香稟は相変わらずマイペースで、怖がる彼の手を引っ張っていく。
とうとう覚悟を決めた潤太は、彼女と一緒に、ブルーフォールという驚異の地へと足を踏み入れる。
係員の注意を聞いた後、二人を乗せたゴンドラはゆっくりと上昇を始めた。
「こ、ここ、これ、あの上まで行くんでしょ...?」
潤太は全身を硬直させて、上空の落下ポイントに向かって視線を送る。
「大丈夫だよぉ。たった90秒で終わるんだからさ!」
「90秒!?そ、そそ、そんなに落下時間かかるのぉ!?」
潤太は祈るようなポーズで、体をガタガタ震わせている。
「どうかボクをお守り下さい...。どうかボクをお守り下さい...。どうかボクを...。」
ゴンドラが落下ポイントまで辿り着くと、スピーカーから何やら放送が流れてきた。
「...。6...。5...。4...。3...。」
落下前のカウントダウンが、潤太に激しい恐怖心を植え付ける。
『ゴクッ...』
潤太は目を閉じて、緊張の息を飲み込んだ。
「...。2...。1...。」
『ガタッ...!』
ブルーフォールはその名のままに、急激な落下をスタートさせた。
「ぎゃぁぁぁぁぁ...!!!」
時速120キロ、4Gの重力が、ゴンドラに乗る二人に襲いかかる。
香稟の長い髪の毛は、降下する引力によって振り乱される。かつらが飛ばされまいと、彼女は必死になって頭を押さえていた。
潤太の引きつった顔は、さらなる悪化の一途を辿る。目を閉じきって、歯を食いしばり、ひたすら悲鳴のような声を発していた。
落下時間の90秒、その1分30秒は、潤太にとってあまりにも果てしなく、そして長かった。
107メートル上空から地上へ到着した時には、潤太は口の中から魂が抜けて、すっかり放心状態であった。
「だ、大丈夫!?ねぇ、潤太クン、しっかりしてぇ!」
さすがにブルーフォールの驚異は、スリルに免疫のない彼にはキツかったようだ。
彼を支えながら、香稟は近くのベンチまでやって来た。
「ごめんね。あたしも、あんなにすごいなんて思わなかったから...。」
「はは...。き、気にしなくていいよ...。ボ、ボク、だ、大丈夫だから...。」
上擦った声で受け答えする潤太。彼の青ざめた顔には、まだ恐怖感が残っている。
「ここで少し休みましょうか。あ、そうだ。あたし、そこで飲み物でも買ってくるね。」
香稟はそう言うと、オープンカフェのある方向へ駆けていった。
ブルーフォールの側には、軽く休憩できるオープンカフェが備えてあった。
彼女は、店員の女性にアイスコーヒーとオレンジジュースを注文した。
「はい、お待ちどうさまでーす。」
「あ、すいませーん。」
店員の女性は不思議そうな顔で、香稟のことを何度もチラ見している。もしかすると、目の前の女性が「夢百合香稟」に似ているなと、そう思っていたのかも知れない。
香稟は二つのカップを持って、潤太の待つベンチへと歩いていく。
「あ。」
彼女はふと立ち止まる。
彼女の視界には、広げたスケッチブックに集中する潤太の姿があった。
そっと潤太の側に近づく香稟。
彼のスケッチブックには、すでにサラサラと鉛筆の線が描かれていた。
「はーい、お待たせ。」
彼女は、作画に没頭している潤太の目の前に、アイスコーヒーのカップを差し出した。
「あ、ありがとう。」
「絵、描いてたんだね。」
「うん。ちょうど、ここからの角度が、何となくいいイメージに見えたから。」
スケッチブックには、園内に佇んでいる風景が、線の太さで上手に表現されている。
香稟はまたしても、才能ある目の前の少年に感動していた。
「香稟ちゃんは描かないの?」
「え?あ、ああ、そうだね。でも、あたしも自分で描きたいもの見つけたいから...。」
「ふ~ん。」
彼女は結局、潤太の描く風景画を横で見つめるだけだった。
真剣な眼差しで、モチーフとスケッチブックを交互ににらみつけ、何度も鉛筆で線を立てていく潤太。ただ無造作に描かれている線が、徐々に風景へと変化していくから不思議なものだ。
これこそが、彼自身の才能なのか、熟練された技術なのか、その真意は本人すらわからないのかも知れない。
「わぁ、きれいに出来たね。」
「ありがとう。急いで描いたから、ちょっと荒くなっちゃったけどね。」
「そうかなぁ。すごく丁寧に描かれてると思うけど。」
「香稟ちゃんは誉めるのうまいね。お世辞でもうれしいよ。」
「やだ、お世辞なんかじゃないわ。あたしの素直な感想よ。」
二人はのんびり休憩したあと、再び園内散策へと赴くことになった。
香稟は、スリルなものは極力避けようと、ゆったり型のアトラクションへ潤太を誘っていた。
二人が乗車したのは、高さ90メートルもある展望塔、その名は「シーパラダイスタワー」である。
「これなら大丈夫でしょ?」
「う、うん。ごめんね、気遣わせちゃって...。」
「ううん、気にしないで。せっかくここまで来て、お互いが楽しめなきゃ意味ないもんね。」
二人を乗せたドーナツ型の円盤は、ゆっくりと上昇し始める。
ガラス越しから見える景色は、それはもう言葉では言い表せないほどの絶景であった。
香稟はガラスにへばりついて、はるかかなたの遠景に心を奪われていた。
「あ、あそこに島が見えない?あそこ、どこかしら?」
「多分、房総半島じゃないかな。」
「ボウソウ?ボウソウって暴走族の島かなにか?」
「おいおい。わざとらしいボケだよ、それ。」
「あはは。これは失敬失敬。房総半島って、千葉県でしょ?」
「なーんだ、ちゃんと知ってるんじゃないかぁ。」
「えへへ、偉いでしょ?こう見えても、勉強はちゃんとしてた方なんだからね!」
「勉強かぁ...。」
潤太は、目の前に映る大パノラマを眺めながら、横に座る香稟にそっと話しかける。
「友達から聞いたんだけど、香稟ちゃん、高校やめちゃったんだってね?」
香稟は、少し寂しそうな表情で答える。
「うん。だって、とても学校に通える余裕はなかったから...。芸能活動と学業を両立させるのは、正直自信がなかったの。今になってね、結構後悔してるんだぁ。学校辞めちゃったこと。」
潤太は無意識の内に、うつむき加減の彼女を見つめていた。
「学校にいた時は友達もいたし、いろいろなところへ寄り道したりとか、楽しいこといっぱいしてたけど。でも、いざ自分がアイドルになってしまうと、そんなヒマなんかなくって、昔の友達にも声を掛けにくくなっちゃうし、最初はすごく孤立しちゃったんだなと思ったわ。」
やるせない胸の内を口にする彼女に、潤太は同情の眼差しを向けていた。
「やっぱり芸能人っていうのは、ボク達のように自由が利かないんだね。」
「まぁね...。あたしね、小さい頃、当時のアイドル歌手に憧れて、テレビを見ながら一緒になって歌ったりしてた。あたしは、人前で歌を歌ったり、演技したり、みんなに見られることが大好きなんだって...。あたしは今でもそう思ってる。だから、この世界に入ったこと後悔はしてない。だけど...。」
「だけど?」
そう聞き返す潤太。
「いざ芸能界に入ってみると、決して華やかなスター街道ばかりじゃなくって、楽しいことよりも、辛いことの方が多かった気がするな...。」
芸能活動を振り返り、悲哀感を漂わしている香稟。彼女はこれ以上、多くを語ることはなかった。
潤太は、そんな彼女に気遣って、声を掛けることが出来なかった。
彼女の瞳は、満たされない虚空を見つめている。その先には、果たして何が見えていたのだろうか?
それは、一般人の潤太の知る由もない、芸能界で生きる者の孤独感だったのかも知れない。
二人はその後、広い園内をぶらぶらと散歩してから、素晴らしい休日を過ごさせてくれた八景島に別れを告げた。
◇
二人は電車を乗り継いで、夕暮れ染まる代々木公園へと足を運んでいた。
香稟のスケッチブックは、この時間まで真っ白なままであった。
潤太が、そのことについて彼女に触れてみると、いい風景が見つからないと、彼女は微笑みながらごまかしていた。
そして二人は、お互いにとって思い出の風景に辿り着く。
「ここね。あたしにくれたあの風景画。」
「え?よくわかったね。」
「当然でしょ。だってあの絵の風景、あたしも一緒に見てたんだもん。」
「ははは、そりゃそうか。」
二人は、その風景画を一望できるベンチへと腰掛けた。
「あれから数週間が経ったんだね。まるで昨日のことみたい...。」
「今思うと不思議だよ。どうしてボクと君があんな形で出会ったんだろうってね。」
「それって、運命だとか言いたいの?」
「運命かぁ...。そうだとしたら、おもしろい運命だね。」
香稟は、手提げカバンからスケッチブックを取り出す。
「あ、ここの風景描くの?」
「うん。練習兼ねがね。あたしの方から誘っておいて、何も描かないんじゃ、裏切り行為だし。」
「それは言えてる。」
彼女は鉛筆を手に持ち、潤太の指導を受けながら、一筆一筆白いキャンパスに線を入れていく。
さすがに素人のキャンパスには、思い通りの風景はなかなか写ってはくれないようである。
「う~。どうもイメージ通りにならないなぁ...。」
「最初はみんなそうだよ。最初から上手に描ける人なんていないさ。少しずつ慣れていけば、きっとうまくなると思うよ。」
「ん~、複雑ぅ~。すぐ上手になりたーいぃ!」
こういう時ばかり、子供っぽくダダッ子ぶる香稟。
そんな彼女さえも、潤太の目にはかわいらしく見えていたようだ。
微笑ましい一時を過ごしていたその刹那、二人の背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「あれぇ!?おい、潤太じゃないか!」
『ドキッ...!』
彼はビクッと、瞬時に体を震わせた。
その声の方向へ振り向くと、なんとそこには、彼の友達代表といっても過言ではない、色沼と浜柄のコンビがゆっくり近づいていた。
「や、やや、やばい...!」
彼は心の中でそう叫んだ。
「おいおい、潤太、何してる...。あら?そこの女の子は...!」
やはり邪魔者二人は、彼の横にいる香稟の存在に気付いたようだ。
「あ!あ、いや、この子はその...!」
気の焦りから、口がおぼつかない潤太。
「あれ?その子、夢百合香稟にちょっと似てないか!?」
「おお、ホントだ!髪型は違うけど、そっくりさんじゃないかっ!」
邪魔者二人は、夢百合香稟の話題で盛り上がり始めた。
その二人の言動に、潤太はこれまで以上にしどろもどろになってしまった。
「あ、あのあたしは、夢野香といいます。」
「え!?」
あたふたする潤太に見兼ねてか、香稟はその場に立ち上がって自己紹介した。
しかも、彼女の口から出てきた名前は、聞き覚えのない名前であった。彼女の名乗った“夢野香”とはいったい...!?
「あたしと潤太クンは、お互い絵を描くお友達なんです。あの、あなた達も潤太クンのお友達ですか?」
「はいはい、オレは色沼っていいます!あ、ちなみにコイツは浜柄っていいます!」
潤太は唖然として、その場のやり取りを眺めていた。
「おい潤太!ちょっとこっちに来い!」
「わ、わぁ!?」
潤太は、色沼にいきなり腕を掴まれて、彼女から少し離れたところへ連れ出された。
「な、何だよぉ!?」
「おい、おまえ、いつの間にあんなカワイイ子と知り合ったんだ!?しかも彼女、香稟ちゃんにそっくりじゃないかっ!」
「そうだそうだ!おまえばっかりズルイじゃねぇかっ!」
二人は理不尽な理由で、潤太を頭ごなしに怒鳴りつける。
それもそうだろう。なんたって彼女が、あのスーパーアイドルに瓜二つときたら、この二人もたまったもんじゃないといったところだ。
「ちょうどこの前の日曜日にさ、たまたまここで絵を描いてたら、彼女と偶然出会ったんだよ。そこで、いろいろ絵の話してたら、仲良くなってさ。」
ごまかそうとする潤太に、二人は冷ややかな視線を送っている。
「ほう、それはまた偶然だなぁ。ケッ、運がいいことで!」
「おまえ、何でそういうことを、このオレ達に報告しなかったんだよ?幸せ独り占めってヤツか、おい!?」
「そ、そうじゃないって!か、彼女はただの友達だしさ。それに、どうしておまえ達に報告する必要があるんだよっ!」
色沼と浜柄の二人は、潤太の困り顔までグッと接近した。
「おいおい、そういう言い方すんなよぉ。オレ達昔からの友達じゃないか?」
「そうそう、そういう言い方はよくない。オレ達は友情で結ばれてんだぞ?」
潤太はしかめっ面で口を尖らせる。
「何言ってんだよ。こういう時ばっかり、そんなこと言ってさぁ。正直に話したんだからさ、もう放っておいてくれよ。」
二人はにやけた顔を見合わせる。
「まぁ、いいよ今日は。オレ達もこれから行くとこあるしさ。」
「コレに関しては、明日にでも、じーっくり伺うとするかぁ!」
「か、勘弁してよぉ...。」
邪魔者二人は、ベンチに一人座る彼女に愛想を振りまいて、この場を離れていった。
疲れ切った顔で、彼女の元へと戻ってきた潤太。
「何話してたの?」
「大したことじゃないよ。ただ、君が誰なんだとか、どこで知り合ったんだとか、そういったつまらない話だよ。」
「なるほどね...。つまり、あの人達はあたし達を見て、恋人同士かと思ったのかな?」
予想もしない香稟の言葉に、潤太は思わず顔を赤らめた。
「え!?ど、どど、どうなのかなぁ。よくわかんないなぁ。」
慌てている潤太に、香稟は真剣な眼差しを向けている。
「ねぇ、あたし達って、他の人達にどう見えるのかな?友達同士...?それとも兄妹...?それとも...?」
目の前にいるアイドルの思わせぶりな態度に、潤太の視線は空へと逃げていく。
「そ、そうだなぁ...。ど、どど、どうなんだろうね!?あは、あはは...!」
香稟は立ち上がると、夕焼け空を見つめる潤太の側へと歩み寄る。
彼女の小さい肩が、潤太の腕にそっと触れる。
潤太は、心臓の音をバクバクさせている。その音はあまりに大きく、彼女の肩まで伝わるほどだ。
香稟は黙ったまま、横にいる彼に熱い視線を送っている。
そのつぶらな瞳を直視できない潤太は、とてつもない緊張感に言葉を失っていた。
「潤太クン...。」
香稟のやさしい呼びかけに、彼の体は硬直した。
「は、はいぃ!!」
彼女の方へ、赤ら顔を向ける潤太。
「......。」
「......。」
わずかな沈黙...。
その時の二人の視線は、お互いの気持ちを探り合っているようだった。
次の瞬間、彼女の艶っぽい唇がかすかに動く。
「もう、帰ろっか?」
「えっ!?」
香稟はニコッと、かわいい笑顔を見せる。
「あ、ああ、そ、そそ、そうだね...。」
どうやら潤太の気持ちは、彼女からの熱いラブコールを期待していたらしいが、残念ながら現実はそう甘くはなかった。
「そうだよな...。彼女は超一流のアイドルだもんな。所詮、ボクなんか手の届く人じゃないし...。」
彼は自分の気持ちをそう納得させていた。と言うよりは、そう言い聞かせていたのかも知れない。
彼女はクルッと振り向き、ゆっくりと帰り道へと進んでいく。
潤太は、想う気持ちを胸に秘めて、そんな彼女の後ろ姿を追っていった。
◇
「今日は楽しかった。付き合ってくれてありがとう。」
「ボクの方こそ、誘ってくれてうれしかったよ。」
潤太と香稟の二人は、この日の別れの舞台である新宿駅にいた。
駅構内は相変わらず、押し寄せる波のごとく、人々の群れで溢れている。
「それじゃあ...。」
「うん...。」
二人は片言な別れのあいさつを交わした。
香稟は改札口へと足を向ける。それを無言で見つめる潤太。
その直後、慌ただしかった駅構内に、ほんの一瞬だけ静けさが訪れた。
彼女はおもむろに振り向いた。
「潤太クン!また...。また、あたしに絵を教えてね!」
その声は、駅構内に高々に反響する。
「うん、いいよ!またいつでも電話してよ!」
数メートル離れた二人は、反響する声でキャッチボールした。
さすがは新宿駅。この静けさは、流れゆく人々によって、あっという間に壊されていく。
「うん、また電話する!また一緒に付き合って...!今度は、友達としてじゃなく...。」
香稟の言葉は途中で途切れた。
潤太の耳には、彼女の言葉が最後まで届かなかった。
「え?な、何!?」
潤太の問いかける声は、もう彼女の元には伝わらなかったようだ。
溢れんばかりの人の群れに、彼女は巻き込まれるように姿を消していた。
辺りの人々は、立ちつくす潤太の横を通り過ぎる。
彼の頭の中を、香稟が残した最後の言葉が繰り返し巡っている。
「友達としてじゃなく...。」
その先に続く言葉は何だったのだろうか?彼女は、潤太に何を伝えようとしたのか?
潤太はその答えを導けないまま、スケッチブックを強く抱きかかえ、中央線乗り場へと足を運んでいった。