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3.そこにある真実はひとつ

 唐草潤太の自宅の居間は、何とも言えない沈黙に包まれていた。

 ごく一般家庭に現れた人物。それは、決して有り得ない現実だった。

 不思議な出会いで知り合った女の子、信楽由里。

 弟の拳太が叫んだ名前、スーパーアイドルの夢百合香稟。

 潤太の頭の中は、混乱という激しい渦に飲み込まれていた。

 潤太は、突然訪れたその女の子を居間に通し、その真意について尋ねてみることにした。

「き、君は、あの時の、女の子だよね?」

「ええ。」

「ど、どうしてボクの家がわかったの?」

「あなたの学校の先生から教えてもらったの。」

「え!?ど、どうしてボクの学校を知ってるの?」

「今日、あなたの学校に行ったからよ。ドラマの撮影のためにね。」

「き、君はいったい...!?」

 頭が整理できない潤太に、拳太が苛立つように水を差す。

「兄貴、さっきから言ってるじゃないか!この人は、あの夢百合香稟ちゃんだってば。顔を見ればわかるじゃないか。」

「う、うるさいな。おまえは黙ってろよ。」

 香稟は、戸惑う潤太にすべてを打ち明ける。

「弟さんの言う通りよ。あたしの名前は夢百合香稟。今日、あなたの学校でドラマの撮影があってね。でも、びっくりしたわ。下駄箱の名札にあなたの名前があったんですもの。」

「ちょ、ちょっと待ってよ!あの時、君が名乗った信楽由里って、いったい誰なのさ!?」

「それもあたしよ。信楽由里は、あたしの本名。夢百合香稟は芸名なの。」

「ほ、本名!?」

 ここまで来ても、まだ頭の整理ができていない潤太。

「そ、それなら、どうしてそのことハッキリ言わなかったの!?ホントのことどうして隠したりしたんだい?」

「そ、それは...。」

 香稟は悲しそうにうつむいてしまった。

「...だって、もしホントのことを言ったら、あなたはきっと、あたしのことをアイドルとして見てしまうと思ったから。」

「そ、それはどういう意味!?」

 香稟はゆっくりと顔を上げた。

「あの時あたし、テレビ局へ向かう車から逃げ出した後だったの。今時の高校生みたいに、自由気ままに遊んでみたかった。その想いが、あたしをそんな大胆な行動に走らせたわ。でも、逃げ出したのはいいけど、わざわざ変装したのに、あっさりばれちゃって。大勢の若い人達に追いかけられて、それはもう大変な目に遭ったわ。」

 潤太は、黙って彼女の話を聞き入っている。

「あたしを探してたマネージャーから逃げるため、あたしは薄暗い路地へと逃げ込んだ...。そこで、潤太クン、あなたに出会ったのよ。」

「あ、あの時、かくまってくれって言ったのは、そういう理由だったというの?」

「うん...。」

 彼女は話を続ける。

「でも、あなたは...。このあたしに気付かなかった。この人だったら、あたしを一人の普通の女の子として接してくれる。そう思ったの。」

 拳太は後頭部に手をあてて、悔しそうな顔で口を開く。

「何で兄貴ばっか、そういういい思いしてんだよぉ!オレもそんな出会いしてみてぇなぁ...。」

 香稟はかわいい笑みを浮かべて話す。

「無理なお願い聞いてくれて、すごく感謝してるの。だから今日は、そのお礼を言いたくて。」

 拳太は目を細めて、潤太の照れ顔を見つめた。

「ねぇ兄貴、香稟ちゃんに何お願いされたんだよ?」

「彼女と一緒に遊んだだけさ。渋谷とか原宿とかで。」

「な!な、何だとぉ!?」

 拳太はおののくように、座ったまま後ずさりしてしまった。

 悔しがる彼は、握り拳に力を込めながら叫ぶ。

「くぅ~!ホントに兄貴ばっかりぃ~!くやしいぃ...!!」

 握り拳を床に叩き付けている弟を後目に、兄は冷めた視線を彼女に送っている。

「申し訳ないけど、ボクはやっぱり信じられないよ。街中で偶然知り合った女の子が、実はスーパーアイドルだったなんて...。確かに顔はそっくりだけど、ほら、この世界には、三人は自分にそっくりな人間がいるっていうしね。」

 その時の彼の表情は、現実味のないこの事態を認めたくないといった感じだった。

「それじゃあ聞くけど、どうしてあたしがここへ来ることが出来たのか、それを考えてみて?あたしが夢百合香稟じゃなかったら、あたしはどうやって、ここの住所を知ることができたというの?」

「そ、それは...。もしかしたら、学校にいるボクを見かけて、先生に尋ねたのかも知れないし。」

 潤太はやはり、彼女のことが信用できない様子だ。

 そんな彼に焦れたのか、香稟は口調を徐々に強めていた。

「その方が不自然過ぎるわ。確かに、見かけたとすれば、尋ねたりできるだろうけど、そんな一般人に、先生が易々とあなたの住所を教えてくれると思う?」

「で、でも不可能じゃないと思うし...。」

「もう!どうして信じてくれないのよ!?」

 香稟は我を忘れてヒートアップしている。

 そんな彼女の興奮を冷まそうと、拳太が偉そうな顔で割って入った。

「まぁまぁ、香稟ちゃん、落ち着いてよ。兄貴はさ、どうも頭が固くてダメなんだよね。そこで、オレにいいアイデアがあるんだ。」

「ア、アイデアって...?」

 問いかける二人に、拳太はそのアイデアを説明する。

「オレが、香稟ちゃんにクイズを出すんだよ。そのクイズってのは、香稟ちゃん本人しかわからない問題ってヤツだ。もし、問題を間違えちゃったら、彼女は本物じゃないってことになる。いいアイデアだろ?」

 潤太は、偉そうにふんぞり返る拳太に問い返す。

「待てよ。本人しかわからない問題を、おまえがどうやって出題するんだ?」

 拳太は自慢げな笑みを浮かべる。

「フッフッフ!こう見えてもオレは、香稟ちゃんの超スペシャル大ビッグファンなんだぜ。香稟ちゃんのこと何でも知ってるこのオレだからこそ、このアイデアが使えるのさ。」

「おまえ、強調するのはいいけど、超とスペシャルは同じ意味だぞ。何か怪しいなぁ。」

「まぁまぁ、兄貴。オレを信じろって。」

 このままでは何の進展もないと判断した潤太は、拳太のアイデアに賛成することにした。無論、香稟の方も、やむを得ず納得した。

「よーし。それじゃあ、香稟ちゃん。オレの問題に答えてね。」

「う、うん。」

 いくら自分にまつわる問題とは言え、妙な緊張感に包まれた香稟。彼女の鼓動は、大きく打ち鳴らされていた。

「じゃあ、第一問。香稟ちゃんの生年月日は?」

「1983年、9月14日よ。」

「ピンポ~ン、正解でーす!」

 わからないはずのない、自分自身の生年月日を回答しただけなのに、なぜかホッとしている香稟であった。

「おいおい、そんな問題じゃ意味ないぞ。」

 潤太は冷めた口調で、拳太の作成した問題にケチを付けた。

 拳太はにやにやと笑いながら、次の問題へと進む。

「ほんの小手調べだよ。それじゃあ次の第二問いくよ。香稟ちゃんの出身地はどこでしょう?」

「神奈川県の藤沢市。」

 本人だから当たり前だが、迷うことなく淡々と答える香稟。

「え...!?」

 拳太はギョッと目を大きくした。その怪しげな顔に驚く香稟。

「う、嘘じゃないわ!間違いないはずよ!」

「へへへ~。せいかーい!ビックリした?」

「もう!冗談は止めてよ!」

 彼女は怒りながらも、ホッと胸をなで下ろす。そんなに自分の答えに自信がないのだろうか?

 潤太は一人冷静に、拳太に冷ややかな視線を送っていた。

「おい拳太。ふざけてないで真面目にやれよ。」

「わかってるって。そんなマジな顔すんなよぉ。さーて、いよいよ第三問といきますか!」

 次なる問題を前に、なぜか香稟は身構えた。

「...い、いいわよ。」

「んじゃあ、香稟ちゃんのスリーサイズを答えて下さーい!」

「えぇ!?ちょ、ちょっと、待ってよ!そ、そんなこと...!」

 香稟は真っ赤な顔して叫んだ。それもそのはずで、香稟はプロフィール上、スリーサイズなど公表していなかったからである。

「そ、それは...。」

 恥らいながら口ごもる香稟。

 彼女はおもむろに、にやけた顔した拳太から視線を逸らせてしまった。

「おい、そんな問題はやめろよ!彼女に失礼だろう!」

 潤太は眉を吊り上げて、卑しい笑顔の拳太に文句を付けた。

 香稟は、そんな潤太の制止を聞く間もなく、思いっきり目を閉じたまま、鉄扉のような重たい口を開く。

「83、54、86...。」

「うそ!?」

 拳太は思わず驚いた。

 潤太も、素直に答えた彼女を前にたじろいでしまった。

「へぇ、スタイルいいんだね、香稟ちゃん。わーい、いいこと聞いちゃった!」

「え...!?も、もしかして、それって。」

「ハハハ、実はひっかけだったんでーす!いやぁ、まさか本気で言ってくれると思わなかったなぁ!」

「ひ、ひどいわぁ!」

 香稟はこの意地悪に涙目で叫んだ。顔をさらに真っ赤にして、恥ずかしさを手で覆い隠した。

「ハハハ、ほんのジョークだったんだ。ゴメンね、香稟ちゃん。」

 次の瞬間、拳太の襟元に衝撃が走った。

「いたたた!」

 ものすごい力で、拳太は首根っこをつままれた。

 彼の襟元にある力強い手、それは、怒り狂う表情をした潤太の右手であった。

「おまえ、いい加減にしろよ!これ以上、彼女に失礼なことしてみろ?このままじゃ済まさないからな!!」

 拳太もこの時ばかりは、兄の威厳に焦りを見せた。

「わ、悪かったよぉ!も、もうしないからさぁ...!」

『ゴツッ...!』

「いったぁぁ!」

 潤太は、空いていた左手を高々と挙げて、拳太の頭上に硬い岩石を落とした。

「いいか拳太!まだふざけるつもりなら、ここから追い出すぞ!」

「も、もう何にも言わないからさぁ、追い出すのだけは勘弁してくれぇ...!」

 いつもおとなしい潤太でも、一度スイッチが入ってしまうと、この上ないほど怒り狂うようだ。どうやら、弟の拳太はそのことを知っていたらしい。

 拳太は地面の中のミミズのように、小さく縮こまって反省していた。

「ゴメン。弟の失言はボクから謝るよ。本当に申し訳ない。」

 香稟の目の前で、潤太は床に頭を付けて謝罪した。

「い、いいよ、そこまでしなくても...。そんなに謝られると、どう返していいのか、わからなくなっちゃう。」

 香稟は両手を左右に振って、頭を下げる潤太にそう告げた。

 よほど恥ずかしかったのだろう、彼女の頬は未だに真っ赤だった。

「もうやめようよ。君が信楽由里だろうが、夢百合香稟だろうが、そんなことどうでもいいことだよ。今日はお礼に来てくれてありがとう。」

「......。」

 香稟は黙り込んでしまった。

 この居間に、再び険悪な沈黙が訪れた。

 潤太と香稟は、口を閉ざしたままうつむいている。

 拳太も、余計なことを言うまいと、口のチャックを閉めたままだ。

 そんな重苦しい雰囲気の中、沈黙を打ち破ったのは、あまりにも意外な音だった。

『グウゥゥゥゥ...』

 その音は、悲しいほど居間中に鳴り響いた。

「わっ!?」

 潤太は反射的に自分のお腹を押さえていた。

「...もしかして、お腹空いてる?」

 香稟はためらいがちに、顔を赤らめた潤太に問いかけた。

「はは。じ、実はさ、ボク達まだ夕食食べてなかったんだ。君が訪ねてきた時ちょうど、おかずをこしらえていたところだったから...。」

 彼女はふと、台所の方へと顔を向けた。

「潤太クンが料理するの?」

 潤太はブンブンと手を振って否定する。

「ま、まさか!ボクにそんな特技はないよ。今日はたまたま母さんがいなくてね、しょうがなくボクが作ることになっちゃったんだ。」

「ふーん、そうなの...。」

 香稟はいきなり立ち上がり、台所に向かって歩き出した。

「え!?ど、どうしたの?」

 彼女は笑顔で振り向く。

「あたしが料理を作ってあげる。この前のお礼を兼ねてね。」

「えぇ!?」

 潤太は思わず上擦った声を上げた。黙っていた拳太まで、ビックリ仰天な奇声を上げた。

「そ、そんな!そこまでしてもらうなんてできないよ!」

「あ、気にしないで。こう見えてもね、あたし結構料理得意なんだ。まずい料理は作らないから安心して。」

 拳太は感動のあまり、目をうるうるさせている。

「うれしいぃ...!あの香稟ちゃんの手料理が頂けるなんてぇ!!はぁ、オレは何て幸せ者なんだろぉ!」

 拳太は思いっきり顔を緩ませて、側にいた潤太にすがりついてきた。

「お兄たま~!やっぱりあなたはボクの素敵なお兄たまです~!」

「わ、やめろバカ!抱きつくんじゃないってーの!」

 和気あいあいと戯れる兄弟を見つめて、香稟の口元はうれしそうにほころんでいた。


 ◇

『コポコポ...』

 お鍋に入ったお湯が、ゆらゆらと湯気を立ち上らせる。

『トントン、トントントン』

 包丁がまな板を叩く音が、おいしい料理を呼んでいる。

 唐草兄弟の母親のエプロンを身にまとい、アイドルの香稟は一生懸命にクッキングを続けている。

 唐草兄弟の兄である潤太は、散らかったテーブルや、辺り一面をきれいに掃除している。

 弟である拳太は、意欲的に彼女の料理を手伝っている。

 潤太は、普段まともに手伝わない拳太の姿を見て、呆れ顔で溜め息一つこぼしていた。

 しばらくすると、台所から居間の方へと、おいしそうなにおいが漂い始めた。それは、彼女の自慢の料理の完成を知らせていた。

「お待ちどうさま~。出来たよ。」

「わぁ、うまそー!」

 拳太は、手渡された料理を見てうれしそうに叫んだ。

 そのおいしそうな料理は、居間にあるテーブルへと飾られていく。

 座って待機していた潤太も、その華やかな料理に見入っている。

「さぁ、拳太クンも座って。」

「はーい!」

 唐草兄弟は、豪勢なディナーを前にして、箸を抱えた両手で合掌した。

 二人とも相当お腹が空いていたらしく、まるで馬車馬のように、彼女の手料理を食いあさる。

「お味の方はどうかな?」

 その問いかけに、二人は声を揃えて答える。

「うまい!!」

「よかったぁ!作った甲斐があったわ。」

 わずか30分足らず、二人は一気に夕食を平らげてしまっていた。


 ◇

 外はすっかり暗くなり、静かな夜がやって来た。

 唐草家の玄関には、精一杯のお礼を済ませた香稟が、唐草兄弟に別れを告げていた。

「今日はありがとう。あんなおいしい料理ご馳走してくれて。おかげで助かったよ。」

「ううん。喜んでくれただけで、あたしもうれしかった。フフ、いいお礼ができたわ。」

 潤太は、彼女の帰りを玄関先まで見送る。

「じゃあ、あたし、帰るね...。」

「う、うん。さよなら...。」

 言葉では表現しないが、お互い、どうもこの別れを惜しんでいるようだ。二人はチラッと顔を見合わせて、軽い会釈を交わした。

 潤太の側から離れていく香稟。

 彼は、香稟の小さな背中を見つめている。

 そして、彼女の姿が闇の中に溶け込むその瞬間だった。

「潤太クン!」

 彼女はいきなり立ち止まり、潤太の方へと振り向いた。

「な、何!?」

「毎週日曜日、夜10時から、JPS放送のラジオで、夢百合香稟がパーソナリティーをしてる番組があるの。今週の日曜日、絶対にそれを聴いて。お願いよ!」

「わ、わかった、絶対に聴くよ!」

「日曜日の夜10時だからね。忘れないでね...!」

 彼女はそう言い残すと、足早にその場から走り去っていった。

 それだけ念を押されたことに、潤太は意味も理解できないまま、ただ消えゆく彼女を見送っていた。


 * ◇ *

 次の日、潤太の学校では、前日のドラマ撮影の話題で持ちきりだった。

 潤太は相変わらず、その話を他人事のように受け止めている。

 クラス内で賑わうそんな会話にも参加することなく、彼はただいつも通りの自然体を保っていた。

 ここぞとばかりに孤立する潤太に見兼ねてか、彼の友達である色沼と浜柄が、彼の元へと近寄ってきた。

「おーい、潤太。相変わらずだなぁ、おまえは。」

「おまえも少しぐらいさ、話題性のある会話に付いていこうとしなよ。」

 二人の励ましの言葉は、彼の耳の中を通り抜けても、心の奥までは届かなかったようだ。

「別にいいよ、そんなの。おまえ達の方こそ、いつまでもそんな下らないことに情熱燃やしてないで、現実を見つめ直した方がいいと思うよ。」

「コイツ、生意気言ってくれるじゃん。はっはっは!」

 潤太はこの機会を利用して、この二人に“夢百合香稟”について、それなりに聞いてみることにした。

「なぁ、ちょっと聞いてもいいかな?」

「ん、何だよ?」

「あのさ、夢百合香稟のことに詳しいか?」

「お、どうしちゃったんだ?さては、おまえも昨日をきっかけに、彼女に惚れこんじまったのかな!?」

「あ、いや、そうじゃないんだけどさ。わーきゃー騒いでるぐらいだから、おまえ達がどこまで知ってんのかなぁって思ってさ。」

 色沼と浜柄の二人は自信満々に、これ見よがしに“夢百合香稟”を語り始める。

「本名は信楽由里。神奈川県藤沢市出身だ。藤沢の高校に通ってる時に、たまたま東京でスカウトされたんだ。今は、芸能活動に専念するために高校は辞めちゃったけどな。」

「ふ~ん。」

「所属事務所は新羅プロダクション。あとね、身長は162センチだったかな。生年月日は、昭和58年9月14日のA型だよ。スリーサイズはね、残念ながら彼女、公にしてないんだなぁ、これが。ははは。」

「ふ~ん。」

 潤太は心の中でつぶやく。

「彼女の言った通りだ...。で、でもそんなわけないよな。スーパーアイドルが、ボクの家にやって来て、おまけに手料理まで振る舞うなんて。やっぱりあの子は、ボクを引っかけようとしてるんだ。きっとそうに決まってる。」

「おい、どうかしたのか?」

 ハッと我に返った潤太。

「あ、いや、何でもないよ。それはそうと、彼女さ、日曜日の夜にラジオのパーソナリティーをやってるんだって?」

 潤太の意外な詳しさに、驚きを隠せない色沼と浜柄の二人。

「なーんだよ、おまえ詳しいじゃんか。まさか、彼女のこと調べてんじゃねぇのか!?」

「そうじゃないって!弟から聞いたんだよ。でさ、どんな番組か知ってるか?」

 そのラジオ番組について、二人は親切に説明する。

「えーとね、最初は歌がメインなんだけど、最後の方でね、最近の話題っていうコーナーをやってるんだ。そのコーナーが結構いいよ。たまに彼女のプライベートな話も聴けるしね。」

「そうか、どうもありがとう。」

 潤太はその時、自宅に来た彼女が信じられず、自分なりの答えを見つけることはできなかった。

 彼はその答えを見つけられないまま、時間だけが瞬く間に過ぎ去っていく...。


 * ◇ *

 あっという間に日曜日の夜である。

 この日の潤太は、二階にある自分の部屋で、描き上げた風景画の細かい部分を色づけしていた。

 その絵は、以前香稟と一緒に行った代々木公園の風景である。

 彼はあの時の情景を思い浮かべながら、一筆一筆慎重にカラフルな色を入れていた。

「ふぅ。やっぱり現地じゃないとうまくいかないもんだなぁ...。」

 彼はこの絵にうまく色づけできず、少し不服そうである。

「よし、この辺はもう少し濃い色にしてみるかっ!」

 気合いを入れて、両手を高々と振り上げた潤太。

 机に向かう彼の視界に、壁掛け時計の長針が飛び込んだ、まさにその時だった。

「あっ、そういえば!」

 彼は逸らした視線を、もう一度壁掛け時計へ向けた。

「し、しまった!もう10時30分じゃないかっ!」

 そうである。今夜は、夢百合香稟がパーソナリティを務める、例のラジオ番組が放送される日だったのだ。

「わわっ、約束しておきながら、聴かなかったらマズイよ!」

 彼は持っていた絵筆を投げ出して、慌てて自室のベッドへと飛び込んだ。

 枕元にあるラジカセを手にして、彼は机へと運ぶため急旋回した、まさにその瞬間!

『ガツン!』

 慌てていたことが、彼にあまりにも悲しい不幸を招いた。

「わぁ!?」

 ラジカセは、勢いよくベッドの柱に叩きつけられて、その反動で彼の手から投げ出されて、そのまま床へと落下してしまったのだ。

「おいおい、だ、大丈夫かぁ!?」

 彼はすぐさまラジカセを持ち上げて、無意味にも、壊れていないかどうか呼びかけた。

「ぎゃあぁ!!」

 ラジオを見るなり、彼はムンクの叫びのような仕草で、轟く奇声を上げた。なんと、ラジカセのアンテナが、落下したショックで折れ曲がってしまっていたのだ。

 彼は慌ててラジカセを机に置くと、電源を入れてラジオモードに切り替えた。

 かすかなノイズ音と共に、意味不明な声がスピーカーから聞こえてくる。

 彼は、JPS放送局の周波数に合わせてみたが、ノイズ音ばかりで香稟の声らしきものは聞こえない。

「ちくしょ~!壊れちゃったな、こりゃ。」

 彼は腕組みして、立ちつくしながら考え込む。どうすればいい!?彼は必死に打開策を練った。

「あ、そういえば拳太がいるじゃないか!」

 彼は怒濤のごとく自室を飛び出し、隣の部屋である弟の拳太の部屋を訪ねた。

「おい拳太、入れてくれ!」

「何だよ!?」

「いいからここを開けろぉ!」

 拳太は眠そうな顔して、自室のドアを開けた。

「何か用かい?オレもう寝るとこなんだけど...。」

「あ、ああ、あのさ...!」

「ハッキリしゃべりなよ。何そんなに慌ててんの?」

 潤太は息を切らせて、強めの口調で訴えかける。

「おまえのラジカセ、今すぐ貸してくれないか!?ボクのヤツ、ついさっき壊しちゃってさ、どうにもならないんだよ!」

 拳太は顔を掻きながら、苦笑いで答える。

「あ、そう。実はさ、オレのも壊れてんだよね。このまえ本棚の上から落ちちゃってから、どうも調子が悪くてさ。アハハハハ。」

 潤太は、拳太の胸ぐらを掴んで怒鳴り散らす。

「笑い事じゃねぇ!キサマ、こういう時に限って、どうして壊すんだよ、このやろう!」

「な、何他人事みたいに言ってんだよ!自分だって、ついさっき壊したんだろうがぁ!」

 潤太はもうダメだと諦め、その場にひざまづいてしまった。

「...どうしよう、約束したのに。」

 彼はうなだれながらも、このまま諦めきれないのか、ラジオを聴く方法を必死になって模索する。

 ラジオが聴ける場所...。ラジオが聴ける場所...?ラジオが聴ける場所...!

「そうだっ!あそこがあったんだぁ!!」

 潤太は勢いよく立ち上がると、一目散に階段を駆け降りていった。

「な、何なんだよ兄貴のヤツ...?」

 不可解な行動の潤太に、思わず首をひねる拳太であった。

『ドタドタドタ!』

 廊下をさっそうと駆け抜ける潤太。

 彼は玄関の靴箱の上から、銀縁のカギを持ち出し外へと飛び出した。

 彼の向かう先は、彼の父親の乗用車が止めてある庭先の車庫だった。

 持ち出したカギでドアを開けて、運転席へと乗り込んだ彼は、乗用車のエンジンをかけた。

「えっと、これか。」

 彼は焦る思いで、ラジオの電源スイッチを押して、バンドボタンで周波数を合わせてみた。

 かすかに女の子の声がスピーカーから流れてくる。

「...そういう...。で、よろしく...。それでは一旦CMです。」

 途切れ途切れに聞こえたその声は、聞き覚えのある、夢百合香稟の美声そのものであった。

「よかった...。」

 ホッと胸をなで下ろす潤太。時刻はすでに、車内のデジタル時計で10時53分を表示していた。

 ラジオのCMが終わり、軽快な音楽と共に、香稟の声が聞こえてきた。

「はーい。それでは、最後のコーナー、題して、香稟の最近の話題、の時間でーす。」

「まいったな、もう終わりじゃないか...。」

 彼は座席にもたれかかって、両手を後頭部にあてる。

 彼のうつろな視線は、乗用車のフロントガラス越しに映る、おぼろげな満月に向いていた。

 途方に暮れる彼を後目に、香稟の語らう声だけが、車内に弾むようにこだましている。

「えっとですね。今夜は、ついこの前知り合った、あたしのお友達についてお話しようと思います。」

「......。」

 潤太は目を閉じて聴いている。

「そのお友達はね、とってもきれいな風景画を描く人なんです。」

「...!」

 潤太は目を見開いて、ガバっと起きあがる。

 彼の耳は、一瞬にして像の耳のように大きくなった。

「何でも絵を描き始めたきっかけは、北海道に旅行へ行った時に、ある絵描きさんに自作の絵を見てもらったら、いい評価をもらったことだそうです。そこで、本格的に絵を描き始めたとのことです。いいですよねぇ、こういうエピソードって。あたしにもそういう才能があればいいけど。アハハ、あるわけないかな!?」

 潤太は呆然としたまま、ラジオから流れる彼女の声を聴いていた。

 その様は、彼女を疑ってやまなかった自分自身が、間違っていたことに気付いた驚きを表していた。

「ボ、ボクのことだ!や、やっぱり彼女は...!」

 彼は真実を知った。ラジオから流れてきたその真実を。

 彼は心の中でつぶやく。

「あの時、絶対に聴いてって言ったのは、この話を聴かせるためだったんだ...。」

 夢百合香稟が打ち明けてくれた言葉。それは、唐草潤太にとって、あまりにも痛ましい言葉でもあった。

 どうして信じられなかったんだ!どうして信じようとしなかったんだ!彼はひたすら、自分の犯した過ちを悔いていた。

「ゴメン、香稟ちゃん...。」

 彼はハンドルに頭を打ち付けて、遠くにいる彼女に謝罪し続けた。

 街中で出会った信楽由里にではなく、スーパーアイドルの夢百合香稟に...。


 * ◇ *

 数日が過ぎたある日のこと。

 夢百合香稟とマネージャーの新羅今日子は、CM撮影のロケを終えて、事務所へと戻ってきた。

 控え室へ向かう二人に、事務所の事務員がうれしそうに声を掛けた。その事務員は、大きな段ボール箱を抱えている。

「これって、もしかして?」

 香稟が苦笑すると、事務員はその通りといった表情で答えを返す。

「はい。月一回恒例のファンレターですよ。今回もいっぱい来てますよ。」

 香稟はその大きな段ボールを抱えて、事務所の控え室までやって来た。

「本当にいっぱいあるわね。ちょうど次の仕事まで時間があるから、その間に軽く目を通したら?」

「そうですね。読まないわけにもいかないですし...。」

 新羅が打ち合わせのために控え室を出ていくと、一人残った香稟は、控え室のテーブルへと落ち着いた。

「さてと。」

 彼女は箱の中身を覗き込んだ。

 真っ白い手紙や、ピンク色したかわいい手紙、小さなものや大きなものと、様々なファンレターが溢れんばかりに詰め込まれていた。

「あれ?」

 彼女の目に止まった一通の手紙。

「これ、やけに厚いわ。何が入ってるんだろ?」

 その厚めの手紙を手にした彼女は、手紙の裏面を見つめて愕然とした。

「これ、潤太クンからだ...!」

 その手紙の裏面には、“唐草潤太”という文字が記載されている。

 彼女は慌てて、その手紙を開けて中身を取り出した。

 手紙の中には、数回に折りたたまれた厚手の紙切れと、一枚のメモ紙が入っている。

「何だろ、これ。」

 彼女は、厚手の紙切れを丁寧に広げていく。

「!」

 そこに現れたものは、グレーに染まった街並みに彩りを添える鮮やかな緑、見る者に感動を与えてくれる美しい風景画であった。

「これ、代々木公園だわ。しかも、あの時の。」

 潤太の描いた代々木公園は、彼女に懐かしい楽しさを思い出させていた。

「ありがとう、潤太クン。」

 彼女は、もう一つ同封されていたメモ紙を広げた。

 そのメモ紙には、次のようなことが書かれていた。

「お仕事ご苦労さまです。あなたのラジオ番組拝聴させてもらいました。それを聴いて、ボクが間違いだったと気付き、ひどいことを言ってしまったことを、今でも深く後悔しています。スーパーアイドルが、ボクなんかと一緒に遊んだりするわけがないと、ボクはそんな先入観だけで判断していました。そのことについて、深くお詫びします。最後に、もし許してもらえるなら、あなたがラジオで言っていた通り、ボクと友達でいてほしいです。無理やりなお願いかも知れないけど。いい返事を待っています。では、これからの活躍を祈っています。さようなら。」

 その文面は、今の潤太の心境をそのまま映し出していた。

 彼女はそっと、そのメモ紙をポケットの中へとしまい込み、テーブルに広げられた風景画を手にする。

「...先入観か。でもね、潤太クン。あたしも、あなたと同じように学び、遊び、楽しい思い出を作れる、一人の普通の女の子なんだよ。」

 彼女は、微笑ましく潤太作の風景画を見つめ続ける。その時の彼女は、この絵画の世界にある代々木公園へと引き寄せられていたようだ。

 あの偶然の出会いと、一緒に歩いたこの公園、彼女は側にいた少年と共に、楽しかった思い出に酔いしれていた。


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