2.ほどけなかった運命の糸
「新羅プロダクション」。それは、スーパーアイドル夢百合香稟の所属する事務所である。
従業員数は現在十数名。他の事務所に比べれば、決して多くはない人数だ。数ある芸能事務所の中でも、小レベルな事務所と言える。
ちょうど今、新羅プロダクションの社長室では、大きな雷鳴が鳴り響いていた。
「このバッカもんがぁ!!おまえは何考えとるんだぁ!?」
その怒鳴り声を上げるのは、新羅プロダクション社長の新羅恒男である。
薄めな髪の毛に、裕福さを絵に描いたような小太りの体型。この社長の第一印象は、ざっとこんな感じであろう。
彼は真っ赤な顔して、フロア中に響かんばかりの怒号をまき散らしている。
その矛先にいるのは、一時の自由を求めて下界へと舞い降りた、事務所の稼ぎ頭の夢百合香稟だった。彼女はこのたびの脱走劇のことで、激しく叱られていたのだ。
「おい今日子、おまえもおまえだ!何のためにマネージャーをやらせてると思っとるんだ!?」
うつむく香稟と一緒に怒られているのは、彼女のマネージャーの新羅今日子である。
「申し訳ありません。今後はこのようなことがないよう、細心の注意を払うつもりです...。」
「いいか、よく聞け!今日の不祥事で穴を開けたバラエティー番組はな、ヒット番組をいくつも手がけるプロデューサーが仕切っていた番組だったんだ。その意味わかってるのか?おい、今日子、どうなんだ!?」
「も、もちろんわかってます!こんな失礼なことをした以上、二度と出演依頼の申し出がないかも知れないと、そうおっしゃりたいんでしょ?」
「ああ、そうだ!おまえの不注意のせいだぞ。どう責任を取る気だ?」
「......。」
社長の口ぶりは、いくら大きな失態だったとはいえ、あまりにも彼女にキツク当たり過ぎているように感じる。
それはなぜか?彼女こと新羅今日子は、怒鳴りまくるこの社長の実の娘だったからだ。
香稟は、自分の身勝手のために叱られる今日子を見て、いてもたってもいられなくなった。
「待って下さい、社長!今日子さんは悪くないです。悪いのはみんなあたしです。あたしが...。あたしがすべての責任を負いますから!」
『ドン!!』
血管がぶち切れるような形相で、社長は握り拳を机に叩き付けた。
「生意気言ってんじゃない!!おまえのような子供に、どう責任を取れるっていうんだ、バカ者が!おまえは黙って反省していろぉ!」
その大きな声に、身動きできなくなってしまった香稟。彼女の口は、必然的に密閉されていた。
「もういい!今度こういうことがあったら承知しないぞ!わかったか二人とも!?」
地獄のような説教が終わり、女性二人は社長室から出ていく。
お互い顔を見合わすこともできず、フロア奥の休憩室へと歩いていた。
重たい空気が漂う中、最初に口を開いたのは香稟であった。
「今日子さん、ゴメンなさい。あたしの行動が、こんな大問題になるなんて知らなくて...。自分勝手な行動して、本当にゴメンなさい!」
「聞いて香稟。今日のことは、あたしと社長の二人でなんとかするわ。あなたは何の心配もいらない。だから、もう二度とあんな真似はしないと誓って!いいわね?」
「...はい。」
新羅は、振り向き様に香稟を叱った。しかしそれは、思いやりのある愛情を持った言葉のようでもあった。少なくとも、香稟だけはそう感じていたようだ。
新羅はたった一人で、早足に休憩室の方へと歩いていった。
そんなやり取りの直後、立ち止まったまま反省している香稟に、背後から声を掛ける女性がいた。
「聞いたわよ、香稟ちゃん。」
「!」
香稟の背後には、彼女の先輩である女優の九埼まりみがいた。
九埼はニヤニヤしながら、香稟の元へと歩み寄ってきた。
「あんた、逃げ出したんだってね。何でも、ゲイノーセイカツに疲れたっていう理由らしいけど...?いいわねぇ、売れっ子さんは。あたしもそういう気分味わってみたいわよねぇ。」
「......。」
後輩の香稟に、しつこく嫌味をぶつけてくる九埼。香稟は黙ったまま、先輩の嫉妬愚痴をひたすら聞くしかなかった。
「でもさ、あんた、ああやって社長に怒鳴られてもさ、さほど気にしてないんでしょ?だって、どんなミスをしようが、逃げ出そうが、社長があんたを見捨てるわけないもんね。あーあ、スーパーアイドルって、ホント、うらやましいですこと。フン!」
九埼は、凍りつく視線を香稟に浴びせながら、その場から離れていった。
その時の香稟は、ただ悔しい涙を浮かべて、その場に立ちつくすだけであった。
* ◇ *
次の日の朝のこと。
アイドルとのまさかのデートを、知らないままに体験していた唐草潤太は、いつも通りに学校へとやって来ていた。
彼が教室へと入ると、周りのクラスメイト達は何やらざわついていた。
そんなことなど目もくれず、彼は自分の机へと腰掛けた。
すると彼の元へ、ざわついていた群れの中から、二人組の男子生徒がやって来た。その内の一人は、一冊の雑誌を手に持っている。
「よう潤太、おはよー。」
「あ、おはよう。」
現れたのは、潤太とは中学校からの仲間である、色沼龍一と浜柄晋である。
「おいおい、おまえ昨日どこ行ってたのよ?オレ達、家訪ねたんだぜ。」
「あ、そうだったの?ゴメン、ゴメン。昨日は、ちょっと多摩の方にね。」
色沼と浜柄の二人は、乾いた笑みをこぼした。
「おいおい、もしかして、おまえまた絵を描きに行ってたのか?」
「う、うん。」
「相変わらず暗いなぁ。おい、コレを見てみろよ。」
色沼は、握り締めていた雑誌を潤太の机の上へ乗せた。
「これは?」
「見てわからんのか?この写真の子、知らないわけないよな。」
「ああ...。誰?」
頭をかきながら、恥ずかしそうな表情の潤太。
「しっかし、おまえの芸能音痴ぶりは筋金入りだなぁ。」
浜柄は、その雑誌に写る少女に中指を突き立てる。
「この子はな、スーパーアイドルの名を欲しいままにしている若干17歳、愛らしい乙女と異名をとる夢百合香稟だよ!」
「ユメユリカリン?あれ、どこかで聞いたことある名前だな。」
「まぁ、テレビ付けてりゃ、必ず一日一回はお目に掛かれる人物だしな。何たって、レギュラー番組4本、テレビCM6本、おまけについ最近リリースしたシングルなんか100万枚の大ヒットだもんな。」
「ふ~ん。それはすごいな。」
こういった話にまったくウトイ潤太でも、今の話で彼女の人気ぶりが何となくわかったようである。
「おまえさ、ホントにそう思ってんの?感情に表れてないじゃん。」
「え、そうかな?あははは。」
思わず苦笑する潤太。彼にとって、アイドルが売れようが売れまいが、どうでもいい話だったのだ。
「で、そのアイドルがどうかしたの?」
色沼と浜柄の二人は、目に余る感動的なニュースを潤太に伝える。
「どうしたもこうしたもねぇよ!来週の水曜日になんと、彼女がここへ来るんだよ!どうだ、ビックリ仰天だろ!?」
「何でも、ドラマの撮影らしいんだよ。彼女今度、学園もののヒロインを演じるらしいんだ。」
どうでもいいことには、本当に愛想のない潤太。
「ふ~ん。」
「ふ~~んっておまえさ。そんな調子でいいのか?スーパーアイドルがこの学校へ来るんだぞ。どういうことか理解してる!?」
「わかってるよ。そのドラマの撮影で、この学校へ来るんだろ?別におかしいことじゃないよ。だって、そうやってドラマは作られるんじゃないか。それぐらいは、テレビを見ないボクでも理解してるさ。」
「...コイツ。信じられないほどマヌケなヤツ。」
潤太はふと、机の上に置かれた雑誌に目を向ける。
そこには、ミーハーコンビの注目の的であるアイドル、夢百合香稟が写っている。
「この女の子って。」
彼は心の中でささやく。
「昨日の...。信楽由里ちゃんに似てるな。」
* ◇ *
あの脱走事件から数日経ち、スーパーアイドル夢百合香稟は、芸能人の一人として真面目に仕事をこなしていた。
数ある雑誌の写真撮影、テレビCM撮影、テレビ番組の収録と、彼女は休む間もなく働き続けていた。
そんなある日、大忙しの彼女は、彼女自身の主演するドラマ「明日こそ愛あれ」の記者会見を終えて、事務所へ戻る途中の首都高速道路の上にいた。
社用車には彼女はもちろん、彼女のマネージャー新羅今日子も乗車している。
「お疲れさま。今日は最後に、ラジオの収録があるからもうひと踏ん張りよ。」
「はい。」
香稟はあの事件以降、逃げ出したいとか、自由になりたいといったわがままを言わなくなっていた。少なくとも、マネージャーの新羅の前では...。
あの事件の夜、新羅は収録番組に穴を開けたことを、同番組のプロデューサーに繰り返し謝罪することで、この一連の責任を許してもらっていたのだ。
つまり香稟は、功労者である彼女に頭が上がらないのである。
「でもよかったわね、香稟。あなたが演じたかった役、見事に取れたんだから。」
「はい。今日子さんのおかげです。今日子さんが、あたしのために必死になってテレビ局へアプローチを掛けてくれたから。」
「それだけじゃないわ。あなたの生まれ持ってのスター性がものを言ったのよ。いい、香稟。この役は絶対に成功させなきゃダメよ!」
「大丈夫です。あたし、ようやくドラマでヒロインを演じることができるんだもん。念願の女子高校生役に...。」
香稟の表情は、とても充実感を感じさせる。
新羅は、そんな彼女を見て心なしか安心していた。
香凛がまた、普通の女子高生に戻りたい!といったことも言わないだろうと、彼女なりにそう感じていたのかも知れない。
新羅は、香稟の肩にそっと手を置いてやさしく声を掛ける。
「よし、今日は特別にお祝いしてあげよう。」
「え!?」
新羅は身を乗り出して、運転手に話しかける。
「早乙女クン、ちょっと寄り道するわよ。葛西インターチェンジで降りてくれる?」
「で、でも、早く戻らないと社長がうるさいですよぉ?」
「いいわよ、ちょっとぐらい。たまには香稟にものんびりさせてあげなくちゃ!」
微笑みながらウインクする新羅に、香稟もうれしさから微笑みを返した。
「今日子さん...。」
社用車は、首都高速を葛西インターチェンジで降りて、海岸線へと向かっていく。
しばらくすると、香稟の視界には、青く透き通った大海原が現れた。
「わぁ、海だぁ!」
「いい眺めでしょう?わたしも昔はよく、この海岸線を通ってストレスを発散したものよ。」
ある浜辺につながる道へと突き進む社用車。
さっきから見えていた海はますます近くなり、見る者にさらなる雄大さを実感させてくれる。
社用車が浜辺付近で止まると、香稟は勢いよく外へ飛び出した。
「わぁ!すっごくきれーい!」
砂浜を走る彼女を目で追いながら、新羅も砂浜へと降り立つ。
「フフ、すっかりはしゃいじゃって...。」
「今日子さーん、30分だけですよぉ!それ以上遅れると、オレが怒られちゃいますからね。」
「うるさいな!わかってるわよ、もう。」
押し寄せる波の音が、疲れ切ったアイドルの心を癒していく。
辺り一面の潮の香りが、彼女の気持ちを落ち着かせる。
香稟は、遠くを見つめるような瞳で、東京湾のさざ波を観賞していた。
「いいな、海。こうやって近くで見る海って、ホントにきれい。」
浜辺に佇む彼女の側へやって来た新羅。
「来てよかったでしょ?この大きな海はね、悲しい時も辛い時も、いつも勇気をくれるのよ。」
「そうですね。何だか、すっごく気持ちいいです。」
「ここに来ると、いつもこういったきれいな景色をわたしたちに見せてくれるわ。」
香稟はその時、新羅の「きれいな景色」という言葉に、胸の奥にしまっていたある記憶を思い出した。
「きれいな景色...。フフ、彼がこの海を見たらきっと、きれいな絵を描くんだろうな。」
「ん、何か言った、香稟?」
「あ、ううん。別に何でもないです。」
彼女はその記憶を、また胸の奥へとしまい込んだ。
あれから数日経った今日、彼女の記憶の中には、絵を描くことをこよなく愛する、あの唐草潤太の姿が映っていた。
「そろそろ行きませんか?」
「うん、そうね。」
嫌なモヤモヤを吹き飛ばした二人は、勇気と希望を与えてくれる大海原を後にした。
* ◇ *
ここは、唐草潤太の自宅である。
彼はこの日、家に帰るなり宿題もせず、描き上げていた絵の色づけをしていた。これも、彼の日常茶飯事なライフスタイルなのである。
「潤太、ごはんの準備手伝ってちょうだーい!」
色づけに没頭している潤太に、一階にいる彼の母親が大声で呼びかけた。
彼は一段落付いたところで、二階の自分の部屋から出ていく。
階段を降りて台所へ行くと、彼の母親が今日の夕食の支度を始めていた。
「もう、いつも遅いわね、あんたは。母さんが呼んだら、すぐに来なきゃダメじゃないのよ。母さんはね、あんたをそんな不良に育てた覚えはないわよ。」
「大げさに言うなよ。不良だったら、母親の料理の手伝いなんかしないでしょ?」
彼にとって、夕食の手伝いも日課の一つとなっていた。
彼は手を洗ってから、母親の指示を仰ぎながら、料理の手伝いを始める。
「母さん、今日は何作るんだい?」
「あんた、大根の皮むいててわかんないの?まさか、大根使ってビーフシチューでも作るとでも思ったの!?」
「そんなわけないでしょ!」
ちょっと、軽いボケをかます彼の母親であった。
彼のしつこい問いかけにより、今日の夕食はふろふき大根だとわかった。
「ねぇ母さん、たまにでいいからさ、リッチな夕食が食べたいよ、ボク。」
「リッチ!?サンドリッチかい?夕食にパンだと、母さんうれしくないわね。」
「それをいうならサンドイッチ。リッチっていうのは、高級って意味だよ。例えばさ、ウニイクラ丼とか、松坂牛しゃぶしゃぶ膳とかさぁ。あと北京ダックもいいよね。」
高校生の分際で、やけにリッチな料理を知っている男である。
「あんたね、そういうことは父さんに言いなさい。それに何よ、そのペキンダックって?ディズニーみたいじゃないの。」
「それはドナルドダックでしょーが!」
ここにいる親子は、いつもこういった会話の中で料理を続けるのであった。
そんな和やかな親子の会話を遮るように、怒り狂うような叫び声で割り込んできたのは、帰宅したばかりの潤太の弟である唐草拳太だった。
「お~い、兄貴ぃ~!いたら返事してくれよぉ~!」
拳太は怒鳴りながら、廊下をドタドタと駆け抜けていた。
「おい、拳太。ボクならここにいるぞ。」
潤太の声を聞きつけて、拳太は台所へと駆けつけた。
「はぁ、はぁ...!」
拳太は中腰の姿勢で息を切らせている。
「おいおい、落ち着けよ。どうかしたのか!?」
「どうしたもこうしたもねぇよぉ!来週兄貴の学校に、あの香稟ちゃんが撮影に来るんだって!?」
平然とした顔で答える潤太。
「そうみたいだな。でも、おまえよく知ってるな。」
「さっき兄貴の学校の人がさ、そんな話してんの偶然聞いちゃったんだよ!」
拳太はまるでケンカを売るような仕草で、兄に向かって怒鳴りちらす。
「ちくしょー!いいよなぁ、兄貴んとこの学校はよぉ!何で、オレの中学に来ないで、あんな汚くて、あんな貧乏くさくて、おまけにろくな生徒がいない学校なんかに香稟ちゃんがぁ~!」
「悔しがるのは構わないけどさ、おまえ、かなりキツイ悪口言ってるぞ。」
拳太は、潤太の胸ぐらを掴んで、悔しがる顔を思いっきり近づけた。
「何言ってんだよ、この幸福やろぉ!オレにもその幸運を分けてくれぇ!」
「そんなこと言われてもなぁ...。こればっかりは、ボクにはどうしようもないよ。」
「ぐぞぉ~!憶えてろよぉ、この薄情者ぉ...!!」
拳太はそう吐き捨てると、涙目で二階へと駆け上っていった。
「ボクのどこが薄情者なんだよ、まったく...。」
呆れた表情の潤太に、流し台にいる母親が叫び声を上げる。
「潤太、早く大根の皮むいちゃいなさい!」
* ◇ *
時は瞬く間に流れた。
今日は、潤太の通う学校に、あのスーパーアイドル夢百合香稟が、ドラマ撮影のために来訪する日であった。
学校には朝早々と、テレビ局のスタッフがわんさかと姿を見せ始めた。
テレビ局の大きなトラックが次々とやって来て、それを待っていたスタッフの面々が、大きな撮影機器などをグラウンドへと運び出している。
そんな慌ただしい中、めったにお目に掛かれない有名人を一目見ようと、一般人がぞろぞろと学校内のグラウンドへと集まっていた。
とはいえ、撮影自体はまだ先のことなので、この時間には主役の夢百合香稟どころか、脇役の役者すらこの場にはいないのである。
◇
それからしばらく経ち、学生達が通常通りに登校してきた。
登校してきた学生達は皆、その物々しさに唖然とするばかりであった。
その中の一人である唐草潤太は、生徒達で賑わうグラウンドを横目に登校していた。
「あれ!?」
彼はふと、歩いている足を止めた。
「あいつ...!」
彼は小走りで、混み合うグラウンドの中へと割って入っていく。
「おい!おまえ何してんだ!?」
「あっ!」
潤太の腕に捕まれた人物は、どんなことをしても夢百合香稟に会おうと踏ん張っていた、彼の弟の拳太であった。
「おまえ、学校へ行く時間じゃないか!こんなとこにいる場合か!?」
「いる場合だい!オレは絶対に香稟ちゃんに会うんだもーん!」
「ガキみたいなこと言ってんじゃない!ほら、早く学校へ行くんだ!ズル休みは許さないぞ!」
だだをこねる拳太を、潤太は無理やりグラウンドから引っぱり出した。
「ちきしょ~!バカ兄貴めぇ~、いつかギャフンと言わせてやるからなぁ~!」
悔し涙を流す拳太は、潤太をにらみつけながら走り去っていった。
「アイツときたら、ホントにいつまでも子供なんだから。」
潤太は生意気なことを口にしながら、慌ただしい校舎内へと入っていった。
◇
いくらドラマの撮影があるといっても、今日が普通の平日であることには変わりない。そのため、学校では平常通りに授業が執り行われていた。
お昼時間になると、生徒達はこぞって早々と昼食を済ませて、撮影現場となるグラウンドへと足を運んでいた。
潤太のクラスでも、それは他人事ではなかった。教室内には、お昼休み15分後だというのに、すでに数名しか残っていない。もちろんのその中には、芸能界にまったく興味のない潤太もいた。
「おーい、潤太。何してんだよ。早くグラウンドに行くぞ!」
「噂だと、そろそろ夢百合香稟が到着するらしいんだ。急げよ、おい!」
自分の机にポツンと座る潤太に、大声で話しかけたのは、彼の親友である色沼と浜柄の二人であった。
二人とも、スーパーアイドルをぜひとも拝んでおこうと、いてもたってもいられない様子だ。
「ボクはいいよ。おまえ達だけで行きなよ。」
この騒ぎを前にしても、潤太はいつも通りに過ごそうとする。
「バカ野郎!おまえ、こんなチャンス二度とないんだぞ。いいから黙って付いてこい!」
「わぁ!?いいってボクはぁ!」
潤太は、色沼に無理やり廊下へと連れ出された挙句、結局、グラウンドへと向かう羽目になるのだった。
◇
グラウンドには、スーパーアイドルのお出ましを心待ちにする生徒達で溢れていた。こともあろうか生徒達だけでなく、教職員までもが集まっている。
いよいよテレビ局のスタッフが、撮影用のテレビカメラのチェックを始めた。
監督らしき人物がディレクターズチェアに座って、メガホン越しに大声を上げている。
『ウォォォ...!』
突如、野次馬連中がどよめき始めた。
そうである。このドラマの主人公である夢百合香稟が、控え室として貸し出されていた柔剣道場から姿を現したのだ。
「お、出てきたみたいだな。くっそー、ここじゃよく見えねぇーよ!」
色沼と浜柄の二人は、覗き見しようとその場でジャンプしている。
一方の潤太は、どうでもいいよといった表情で、その状況を人混みの隙間から眺めていた。
さっそうと可憐に現れた夢百合香稟は、撮影用の学生服に身を包んでいた。
このドラマ「明日こそ愛あれ」は、簡単に言えば青春ラブコメドラマである。
主人公である女子学生が、ある事情で都会の学校へ転校してくるところから物語が始まり、そこで出会ったある男子生徒と、スポーツを通じて親愛になっていくといったラブストーリーである。
「これ以上は入らないでくださーい!」
やんややんやと大騒ぎの見学者達を、テレビ局のスタッフが必死になって制止している。
ざわつきがおさまった頃を見計らい、“シーン3”と記載されたカチンコが、テレビカメラの前に掲げられた。
「それじゃあ、本番。よ~い...。アクション!」
監督の第一声で、いよいよ香稟の登場するシーンの撮影がスタートした。
主人公である女子学生が、最後となる学校の校舎を、寂しい想いで見つめているといったシーンを撮影しているようだ。
わずかに3分少々のシーンではあったが、ドラマの中では重要なシーンだったらしく、非常に重みを感じさせるものがあった。
カットのかけ声と共に、香稟は再び控え室の方へと戻っていく。彼女の姿を見送った見学者達も、校舎の方へと戻っていった。
「いやぁ、香稟ちゃん、いい演技してたなぁ。」
「あれなら、彼女はもう女優としてもやっていけるな。」
色沼と浜柄の二人は、満足そうな顔で話し込んでいた。
「あ、もう昼休み終わっちゃうよ...。ついてないや。」
撮影現場に来て、満足している者の気持ちが理解できない様子の潤太。
彼は天を仰ぎながら、午後の授業に向けて教室へと戻っていった。
◇
ドラマの撮影は着々と進んでいた。
校舎内のシーンや、体育館内のシーン、そして教室内のシーンと、香稟は憧れだった主人公を演じ続けていた。
テレビ局のスタッフと役者の面々は、この日最後の撮影場所となる玄関へとやって来た。
そのシーンは、下校しようと主人公の女子高生が下駄箱へやって来ると、後ろから相手役の男子生徒に声を掛けられて、それに対して恥じらいながら返事をするといったシチュエーションである。
藍色の制服姿の香稟は、下駄箱でスタンバイする。
声を掛ける男子生徒役の役者も、下駄箱奥の廊下で待機している。
準備完了の合図に、アシスタントディレクターが大きな声を上げた。
テレビカメラが静かに回りだした。
「......。」
無言のままで、自分用の下駄箱を目で追う女子高生。
彼女は、予め用意されていた下駄箱へと、少しずつ視線を合わせていく。
そして、彼女は恐ろしいほどの偶然を体験する。
「...!!」
監督はその時、彼女の視線の方向が台本通りではないことに気付いたが、さほど気にすることでもないと判断し、そのまま撮影を続行した。
撮影は次の展開となり、待機していた男子生徒がカメラの前へと現れて、硬直する彼女に声を掛ける。
「やあ!今帰るところ?」
「......。」
彼女は、声を掛けられたことに気付かない。しかしこれは、台本通りではなかった。
「......。」
待つこと数秒、セリフが発せられないこの状況に、監督はついにしびれを切らした。
「はい、カーットォ!!」
「あ!」
監督の大声に、我に返った女子学生。
「おいおい、どうしたのよ、香稟ちゃん!?ここで君のセリフだったはずだよ!」
「ゴ、ゴメンなさい!つ、ついボーっとしちゃって...。」
彼女は深々と頭を下げた。
その姿勢のまま、彼女はもう一度横目で、ある下駄箱を見つめた。“唐草潤太”の名前がついた下駄箱を...。
* ◇ *
夕方過ぎ、ようやく撮影は終わりを告げた。
テレビ局のスタッフや役者達が、教職員とお礼を兼ねたあいさつを交わす。
主人公役の香稟も、学校の教頭先生らしき人物にあいさつをした。
「いやぁ、今日はご苦労さまでした。わたしの息子が、あなたの大ファンでしてね。いやははは。もしよかったら、サインなんかを頂けないでしょうかね?」
香稟は快く了解した。しかし、ある条件付きで...。
「あの、その代わり、ひとつ教えて頂きたいことがあるんですけど。」
◇
テレビ局のスタッフは、次々と学校から出発していく。
役者達も、移動用のロケバスへと乗り込む。しかし香稟だけは、社用車での移動だった。それを見る限り、彼女は他の役者達と違ってVIP待遇とも言えるだろう。
彼女は、マネージャーの新羅今日子と共に、社用車へと乗り込んだ。
「香稟、今日はお疲れさま。初日とはいえ、よくがんばったわね。」
「ありがとう、今日子さん。でも、三回もNG出しちゃったし、ちょっと反省しなきゃ。」
「フフ、いい心掛けよ、それ。その意気で、明日からの撮影もがんばってね。」
「はい。」
運転手がエンジンを掛ける。
ゆっくりとアクセルが踏み込まれて、社用車は静かに発進した。
「ねぇ、今日子さん。ひとつだけ、あたしのワガママ聞いてくれませんか?」
「えっ!?」
今日子は一瞬ドキッとした。また、逃げ出したいとか考えてるのでは!?と思ったのであろう。
「な、何?ワガママって...!?」
「実はですね。あたしが前に逃げ出した時に、お世話になった人がいるんです。」
「そ、それで、どうしろと?」
* ◇ *
「ただいまぁ~。」
潤太は一日の勉学を終えて、自宅へと辿り着いた。
「......。」
家の中から返事がしない。しかし、居間の方に明かりが見える。それは誰かがいる証拠だ。
潤太が恐る恐る居間のふすまを開けると、寝転がってマンガ本を読んでいる弟の拳太がいた。
「何だよ、いるんだったら返事ぐらいしろよ。泥棒かと思うだろ?」
「ヘン!話し掛けんなよ、バカ兄貴!」
拳太は口を尖らせて、潤太に対してあまりにも素っ気ない。
拳太はまだ、夢百合香稟に会うことを邪魔した兄貴に、ひどく嫉妬心を抱いていたようである。
「おまえなぁ、まだ朝のことで怒ってるのか?いい加減大人になれよ。」
「うるさい!オレはまだ子供だもんね!」
「開き直ってどーする!?」
潤太は、ツンケンする弟を見ながら、いささか呆れた表情を浮かべていた。
「あああ~!いいよなぁ兄貴はよぉ!香稟ちゃんをそのいかがわしい目で見たんだろぉ?」
「いかがわしい目じゃないけど、ちょっぴり見たよ。無理やり連れていかれてな。」
拳太は読んでいたマンガ本を投げ出して、寝転がってジタバタと暴れ出した。
「くっそ~!どうして味気ない兄貴なんかが見れてさぁ、味わいあるオレが見れないんだよぉ!この世の中、何かおかしいぞぉ!!」
「もう過ぎたことだろ?見れた見れないなんて、たいしたことじゃないよ。アイドルだって、ボク達と同じ人間なんだもん。見れたからって、全然うらやましく思えないさ。」
「そこが兄貴のマヌケなところなんだよ。相手は普通の女の子じゃないんだっ!今世紀最後のスーパーアイドルなんだぞ!私生活も、着る物も、食う物も、寝る場所も、すべてが別格なんだってばぁ!!」
「そんなものなのかな、アイドルって...?」
潤太は、弟の力説にうなずくことができず、素朴な疑問を浮かべていた。
「あれ、そういえば。」
母親がいないこの状況に気付いた潤太は、ふてくされる拳太に確認する。
「なぁ、母さんは出掛けてんのか?もうすぐ夕食の時間じゃないか。」
「今日は父さんとデートだってさ。だからオレ達はオレ達で食えって。テーブルの上にメモが乗ってるよ。」
テーブルの上にあるメモ紙に目を通した潤太。
「...今日は二人の結婚記念日だったんだな。おまえ知ってた?」
「ぜーんぜん!」
この息子たちにしてみたら、両親の結婚記念日など、ごく普通の一日に過ぎないのだろう。
潤太はメモに書いてある通りに、冷蔵庫の中を調べてみる。
「あれ!な、何にもないじゃないか!」
「ええ!?そんなわけないじゃんか!」
拳太はすぐさま立ち上がり、潤太の側へと駆け寄った。
「何だぁ!?しょ、食材そのまんましか入ってないじゃん!」
「もしかして母さん、これを使って、ボク達に作れと...?」
「ジョ~ダンじゃないぜ、おい!オレに料理なんか作れるわけないよ!兄貴が作ってよ!」
潤太は慌てふためき、自分自身に人差し指を突き立てる。
「えぇ!?ボ、ボクが作るのかぁ?」
「だって、兄貴はよく母さんの手伝いしてるじゃないか!」
「手伝いったって、大根とか人参の皮むきぐらいで、まともに料理やったことなんて、ボクだってないんだぞ。」
唐草兄弟はひたすら口論を続けたが、最終的には、年長者の兄である潤太が見よう見まねで料理することになった。
「言っておくけど、拳太。出来が悪くても文句言えないからな。」
「わかってるよ、そんなこと。それより、何でもいいから早く作ってよ。」
潤太は似合わないエプロン姿で、まな板に並べた豚肉に包丁を入れ始めた。
『キンコーン...』
「おい、お客さんが来たぞ。拳太、出てくれよ。」
「へ~い。」
拳太は、渋々と玄関の方へと歩いていった。
接客を拳太に任せた潤太は、そのまま料理を続ける。
「う~ん。豚肉切ったのはいいけど、これどういう料理にするかなぁ...。」
何を作るか決めずに料理を始めた潤太。
そんな彼が、いろいろな料理を頭に浮かべていたその時だった。
「わぁ、わぁあぁあぁ、わぁあぁあぁ、わぁあぁあぁぁ!!」
突然、拳太の意味不明な絶叫が家中にこだました。
「な、何だぁ!?」
潤太は包丁を投げ出して、勢いよく居間から玄関へと駆け出していった。
玄関には、倒れ込んで身震いしている拳太がいた。
「お、おい拳太!ど、どうしたんだ、おまえ!?」
拳太の右手の人差し指は、玄関先に立っている女性に向けられていた。
その来訪した女性に、そっと目を向ける潤太。
「えっ!!」
「お久しぶり、潤太クン!」
「き、君は、信楽由里...サン!?」
「あの時のお礼に来たの。」
拳太は、その理解不能な二人の会話に、すごい形相で割り込んでくる。
「な、何わけわかんないこと言ってんだよ、兄貴ぃ!こ、この人はなぁ、あ、あの、ゆ、ゆゆ、夢百合香稟ちゃんだよぉ!!」
「へっ!?」
とある日曜日に偶然に知り合った二人は、またこうして偶然に再会した。
潤太は、いきなり来訪した彼女を呆然と見つめていた。
目の前にいる女性は、いったい何者なんだ!?彼の頭の中で、その疑問だけがグルグル回り続けるのであった。




