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1.男と女の出会う街角

 「いやぁ、やっぱりかわいいよなぁ、香稟ちゃんは!」

「ん、カリン!?カリンって果物のことか?」

「何言ってんのさ!ほら、テレビに映ってる女の子だよ!」

 ここには、テレビの話題で会話する、ごく普通の少年二人がいる。

 その内の一人は、素知らぬ顔でテレビに目を向ける。

 もう一方は、そのテレビを見つめる少年に向かって、呆れた顔を見せつけている。

「へぇ...。この子がカリンちゃんなのか?」

「そうだよ!夢百合香稟っていって、今世紀最後のスーパーアイドルだよ!」

「ふ~ん。」

 興味なさそうな表情で、テレビから視線を逸らした少年。

 彼の名は、唐草潤太という。現在、高校3年生の17歳である。

 彼のすぐ側にいるもう一人の少年は、彼の弟である唐草拳太、現在14歳、中学生である。

 兄弟二人は、自宅の居間にて、それぞれの時間を過ごしていた。

 兄の潤太は、何やら写真の載った分厚い本を床に広げて、横になって眺めている。一方の弟の拳太は、テレビの人気歌番組を食い入るように眺めている。

 ここでは、それぞれのごく普通の楽しい一時が繰り広げられていたようだ。

 テレビのブラウン管を通して流れる、人気スーパーアイドルの曲、声、そのすべてが、遙か彼方からしか聞けないと思うのが普通であろう。

 ところが、そんな固定概念を覆すほどのとんでもない出来事が訪れることを、今の二人は知る由もなかったのである。


 * ◇ *

 ここは某テレビ局。

 ここでは、高視聴率をほこる人気歌番組の生放送が行われていた。

 放映時間が終わると、一人の人気アイドルが、周りのスタッフに声を掛けられながら、早足で控え室へと向かう。

 彼女は控え室へ戻るなり、その場に待機していた彼女専属のメイク係の側へとやって来た。

「お疲れさまでした~。」

 その専属メイク係は、目の前の椅子に腰掛けた、その人気アイドルの髪の毛をとかし始める。

「今日の曲は、新曲なんですってね。いい曲でしたよ。」

 正面の鏡に映る人気アイドルに向かって、専属メイク係は笑顔でささやいた。

「ありがとうございます...。」

 少し元気のないお礼を口にした人気アイドルは、控え室に備え付けてあるテレビを横目で眺めていた。

 そのテレビはある特集をしている。その特集とは、今時の女子高生相手の街頭インタビューであった。

「最近のお楽しみスポットを教えて下さい?」

「え~っとねぇ、やっぱ、渋谷かなぁ。あとね、原宿の表参道もいいよねぇ。」

「そうそう。やっぱそんな感じぃ~ってとこかな。」

 真っ黒に日焼けした女子高生は、満面の笑みでインタビューに答えている。テレビのブラウン管越しに流れるその姿を、人気アイドルは無言のまま見つめていた。

「いいですね。あの高校生達...。」

「え、何か言いました?」

「...ううん。何でもないです。」

 何気ない一言をボソッとささやいたのは、今世紀最後の人気スーパーアイドル、夢百合香稟であった。いったい彼女は、何を伝えようとしていたのだろうか...?


 ◇

「お疲れさま、香稟。今日はこれでお仕事終わりよ。一応、明日のスケジュールだけ伝えておくわね。」

 クールに澄ました表情の女性が、テレビ局から走り出した社用車に乗る夢百合香稟に話しかけた。

 そのクールな女性とは、香稟の専属マネージャーの新羅今日子である。

「明日は、朝8時から週刊誌の表紙の撮影、その後、朝日出版と写真集の打ち合わせでしょ。それが終わったら、今度はサンテレビでの収録があるわ。あ、そうそう、その間にね、あけぼのドリンクスのCM撮影の打ち合わせがあるんだったわ。」

 出るわ出るわと、香稟の多忙なスケジュールが明かされた。

 香稟は浮かない顔のまま、隣の新羅の話を聞いている。

「どうかしたの?今日はヤケに元気ないじゃない?」

「......。」

 ついうつむいてしまった香稟。彼女は蚊の泣くような声で、隣にいるマネージャーに語りかける。

「明日も...。あたし、明日もお休みないんですね。きっと、明後日もそうなんですね...。」

「え!?何それ、どういう意味よ?」

 言葉の意味が理解できない新羅は、少し怒り口調で彼女に問い返した。

「あたしは、ちゃんと学校に行っていれば高校3年生です。普通だったら、友達と街へ出掛けて、いろいろなところで楽しく遊んでる時期ですよね。それなのにあたしは...。来る日も来る日も仕事ばかりで、まともにお休みも取れない...。」

「香稟、あなた...。」

 新羅は呆気にとられて、彼女の想いなど理解できない様子だ。

「何言ってるのよ。あなたはこの芸能界で最高のスーパーアイドルなのよ。他の高校生と一緒の生活なんてする女の子じゃないのよ。それに、ヒマがないほど忙しいのは、人気がある証拠じゃない。この芸能界にはね、あなたと違っていつまでも芽の出ないアイドルだっていっぱいいるんだから。ふざけたこと言っちゃダメじゃない!」

 その厳しい言葉に、香稟は涙を浮かべて訴える。

「それじゃあ、あたしは周りにいる同じ高校生とは違う人種なんですか!?その子達と同じように、楽しく遊んだり、どこか出掛けたりしちゃいけないんですか!?そんなのおかしいわ。あたしだって、みんなと同じように生まれてきたのに...!」

 困惑めいた表情をする新羅。彼女は、泣き叫ぶ香稟をなだめようとする。

「いったいどうしたって言うの?いきなり今日になって、そんなこと言うなんて...。今まで、芸能生活が楽しいって、あなた自身あんなに喜んでたじゃない。」

 新羅から視線を逸らす香稟。彼女は、涙目を虚空に浮かべている。

「最近...。ううん、もっと前から何となく感じてました。あたしにとって、アイドルと呼ばれることの意味って何なんだろうって...。所詮は、人を喜ばせて楽しませてるだけ。肝心のあたしの楽しみはどうなるんだろうって...。」

 新羅は納得できず、憤りを抑えきれなくなっていた。

「それは、あなたの屁理屈に過ぎないわ。芸能界に籍を置く者は、みんなそうやって生きてるのよ。決してあなただけじゃないわ。」

「わかってます...。あたしだって、人前で好きなだけ歌が歌えたらどんなに素敵だろうって、そう思っていたからこそ、この芸能界へ入ったんですから。」

 若き少女は、芸能人という自分の立場を悔いている。しかしその気持ちは、どう言葉を並べても、結局は言い訳にしか聞こえない空しい言葉でもあった。

「とにかく、香稟。今後、そういう話はしないでくれる?あなたには、わたしのなし得なかった夢がかかってるのよ。お願いだから、もうそんな思いを抱かないでちょうだい。」

 香稟は、マネージャーの説教じみたセリフに、口を閉ざしたままうなずいた。彼女はこれ以上、不平不満を口にできる状況ではなかった。

 そして、二人を乗せた社用車は、夜のネオン街を走り抜けていった。


 * ◇ *

 とある日曜日のこと。

 ここは、東京都杉並区にある「唐草」と書かれた表札を掲げる家である。

「あれ、母さんは?」

「さっき出掛けたよ。何でも近所のスーパー大安売りなんだってさ。」

「ふ~ん。」

 大きなスケッチブックを腕に挟ませて、ブルーのリュックサックを背負った唐草潤太は、居間で寝転がっている弟の拳太に声を掛けた。

 その格好からして、潤太はどこかに出掛けるようである。

「それじゃあ、ボク出掛けるから。母さんに伝えておいてくれよ。」

「出掛けるって...。兄貴ぃ~。またアレかよぉ。」

「うるさいな。おまえには関係ないだろぉ!」

 潤太は、弟の拳太に呆れられつつ、自宅を飛び出していった。


 ◇

 唐草潤太は、最寄りの駅から電車へと乗り込み、ゴミゴミした都内を離れていく。

 彼の目指す場所は、東京都内から少し離れた、自然に囲まれたすがすがしい場所だった。

 電車を降りてから徒歩30分ほど、その目的地が彼の目に飛び込んだ。

「はぁ、やっと着いたぁ。」

 そこは、緩やかな坂を登ったところにある、小さな公園であった。

 彼は到着するなり、辺りをキョロキョロ見渡し始めた。

「あ、ここだここだ。」

 彼は何かを見つけたように、その場所にあるベンチへと腰掛けて、おもむろにスケッチブックを広げた。彼はいったい何を始める気なのだろうか?

「よーし、今日はこの天気のおかげで、ボクのイメージ通りのいい絵が描けそうだな。」

 そうである。彼はこの場所へ、趣味である風景画を描きに来たのである。

 唐草潤太は高校2年生の時、ある絵画展へ風景画を出展し、なんと佳作をもらった経験があるほどの腕前なのだ。

 学校内では、勉学や運動ではさえない彼だが、これまた美術とあらば、ずば抜けた才能を発揮する少年である。ちなみに美術の成績は、ほぼ高判定をキープしているのだ。

 そんな彼の紹介をしている内も、彼はものすごい勢いで風景を描写し続ける。

 彼の持つスケッチブックには、公園に雄大にたたずむ木々と、その脇におとなしく佇む花壇が描かれていた。

 彼は絵を描き始めると、周りに泣き叫ぶ子供がいようが、イチャつくカップルがいようが、人に向かって吠えまくる犬がいようが、あまつさえ、首を振って群れる鳩の集団がいようとも、決して彼の手は止まることはなかった。それはまさに、絵画の世界に入り込んでいたと言っても過言ではないだろう。

 ところが、そんな彼の手を止める忌々しい集団が現れてしまった。

「あ。マジかよぉ...。」

 それは、彼のモチーフである花壇の中で遊び始めた幼い子供達だった。

 彼は、モチーフの中に邪魔者が存在すると、その絵を描くことを止めてしまうのだ。それがどうも、彼自身のこだわりのようである。

「まいったなぁ...。これじゃあ、花壇の絵が完成しないよぉ。とはいうものの、あんな子供相手に、出ていけなんて言えないしなぁ...。」

 彼はひたすら苦悩する。

 結局、彼はここまでの仕上がりで、今日のスケッチを終えることとなってしまった。

「ふぅ...。しょうがないな今日は。あ、そうだそうだ、帰るついでに絵の具でも買って帰ろうっと。」


 * ◇ *

 その頃都内では、シャドウのかかったウインドウに覆われた自動車が、混み合う車道をくぐり抜けている。

 その自動車には、これからテレビの収録に向かうアイドル、夢百合香稟と、そのマネージャーである新羅今日子が乗車していた。

 激しく混み合う渋滞の中で、その社用車はノロノロ運転を続けていた。

「もう!今日はやけに混んでるわね。ねぇ、早乙女クン!もう少しいい道ないの?このままじゃ、収録時間に遅れちゃうわよ。」

「いやぁ、この街道はほとんど抜け道がなくって、ははは...。」

「笑い事じゃないわ、何とかしなさいよ。香稟が収録に遅れたら、プロデューサーさんに悪い印象与え兼ねないわ。」

「新羅さん、無茶言わないで下さいよぉ~。それに、この街道に抜け道があったら、こんなに混むわけないじゃないですかぁ。」

 新羅と社用車の運転手は、怒りと苛立ちの混じり合う言葉を投げ合っていた。しかし、そんなじゃれ合いをしていても、このピンチを切り抜けられるわけでもない。

 社用車は走っては止まり、また走っては止まりを繰り返し、いっこうにテレビ局まで辿り着かない。

 新羅は頭を抱えて、後部座席のシートにうなだれてしまった。

「はぁ~。CMの打ち合わせが思ったより延びちゃったからなぁ...。どうしようかしら、もう。」

 苦悶している新羅を後目に、隣にいる香稟は、シャドウがかかった車窓から辺りの景色を見つめていた。

 そんな彼女の視界に入ったもの...。今風の衣装に身を包んだ少女達。街路樹の脇でたむろっている少年達。仲良さそうに、腕組みしながら寄り添い合うカップル達。

 そのすべては、今の彼女にとって、あまりにも新鮮でうらやましく思える光景だった。

 彼女の心の中には、自由という希望だけが渦巻いていた。

「よし、決めた!」

 彼女は心の中でつぶやいた。そのつぶやきは、大胆かつ衝撃的な行動を示唆していたのだ。

 彼女を乗せた社用車が、目の前の信号機の赤ランプに照らされた。

「ああ、また信号ストップじゃないのぉ!もうこれじゃあ、間に合わないわよぉ!」

「しょうがないですよ。こればっかりは無視できませんしねぇ。」

 その瞬間だった!

 香稟はいきなりドアのロックを外して、勢いよくドアをこじ開けた。

「え!?」

 何が起きたのかと驚く新羅。しかし、時すでに遅し。

 香稟はドアから抜け出して、自由の世界へ飛び出してしまったのだ。

「ちょ、ちょっと、香稟、あなた何してるの!?」

 呆然とした顔で叫ぶ新羅に、香稟は振り向き様に手を合わせた。

「新羅さん、ゴメンなさい!今日だけ、今日一日だけ、あたしに自由時間を下さい!お願い、あたしのワガママを許して!」

「待ちなさい、香稟ー!」

 思いっきり手を伸ばした新羅だったが、その手は空しく空気を掴む。

 社用車から逃げ出した香稟は、街路樹を仕切る柵を飛び越えて、人混みの歩道へと姿を消していった。

「探すのよ、早乙女~!何としても香稟を見つけなさ~い!」

「は、はいです~!」

 鬼の形相で大声を上げた新羅に指示されるがまま、その運転手は青信号と同時にフルアクセルで発進した。とはいうものの...。

 結局、社用車は数メートル進んで停止する運命であった。

「この渋滞じゃあ、車だとどうしようもなかったわね...。こうなったら、わたしが探すしかないじゃないのよ!」

 新羅は社用車から勢いよく飛び出し、失踪したアイドルの捜索へと走り出していった。


 ◇

 都内新宿である。

 自由の世界へとやって来た香稟は、人目を気にしながら、歩道沿いの雑貨屋へと駆け込んだ。

 さすがは売れっ子アイドルだけに、気付かれたらどうなるか知れたものじゃないと思ったのか、彼女は変装するための帽子とサングラスを、少ないポケットマネーで購入した。

 彼女は素早く変装して、普段歩き慣れない歩道へと現れた。彼女はまさに、下界に舞い降りた天使そのものであった。

 行き交う人々に流されるように、彼女は見知らぬ街を散策し始めた。

「信じられないな。3年前までは、こんな道を普通に歩いていたはずなのに。何だか体が宙を浮いてるみたい...。不思議~。」

 彼女は、すっかり忘れかけていた学生時代を思い起こしながら歩いていた。

 何百人といった人間で溢れる新宿駅付近。辺りを見渡しながら歩く彼女は、新宿駅の側にある大きなテレビモニターに目を向ける。

「あ!あたしが映ってる。」

 そのテレビモニターには、香稟が映っているCMがたまたま放映されていた。

 何十回も見ているシーンにも関わらず、彼女はモニター越しの自分自身を、まるで他人を見るように眺めていた。

 ちょうど彼女の側には、若い男の子二人組が、その流れるCMを眺めていた。

「おお、やっぱり夢百合香稟ってかわいいじゃん!?」

「えぇ?そうかなぁ。オレは末広竜子のほうがいいけどなぁ。」

「スエヒロより絶対いいぜ、香稟はさぁ!おまえの目腐ってんじゃねぇの!?」

「何ぃ~!?おまえの方がおっかしいぜ。絶対スエヒロだっ!」

 そんな言い合いをする二人の正面を、香稟はクスクス笑いながら横切る。

 その二人はまさか、話のネタとなった張本人が、自分達の真ん前を横切ったことなど、とても想像できなかったであろう。

 彼女はその後、一人のごく普通の少女として、ぶらぶら街中を突き進んでいく。

 深々とかぶる赤色の帽子、厚手レンズのサングラス、彼女の変装は、予想以上に完璧に見えた、が、しかし...。やはり彼女は、伊達にスーパーアイドルと呼ばれてはいなかった。

 彼女とすれ違う若者達が、うっすらと彼女の正体に気付き始めていたのだ。

 怪しまれないように、うつむき加減で歩き続ける香稟。

 しかし、若者達とすれ違うたびに、彼女の名前がかすかに聞こえてくる。

 まずい、このままじゃ気付かれる!そう察知した彼女の足取りは、心なしか小走り気味であった。

 その足は、一歩、また一歩と速くなっていく。

「!」

 そんな最中であった。

 香稟は、背後からとてつもない悪寒を感じ取った。

 思わず立ち止まった彼女は、心拍数をあげながら、静かに顔を後ろへ向けていく...。

「!!」

 なんと彼女の背後には、数十人、いや百人はいるかも知れないほどの若者たちで埋め尽くされていたのだ。

 無論、それは彼女がスーパーアイドルの夢百合香稟ではないか? と疑う者達の集団だったのだろう。

 彼女はその惨状に圧倒されて、ただその場に立ちつくしている。

「あ、やっぱり香稟ちゃんだぁ!!」

 その集団の内の一人の声は、このあとの地獄絵図を知らせていた。

 その一声に触発された若者達が、ドッと彼女に、まるで津波のように押し寄せてきたのだ。

「逃げなきゃ!」

 サインを求める者、握手を要求する者、おまけに体に触れようとする者までいる。

「来ないでぇ!!」

 香稟は両手を振り回しながら、猛ダッシュで走り出した。もちろん、その集団は彼女を追いかける。

 彼女は必死になって逃げまどう。それを追い続ける若者達。それはもう、映画の世界の「ゾンビ」を彷彿とさせていた。

「はぁ、はぁ...。」

 息を切らせて走り続ける香稟。彼女は運がよかった。

 大きな交差点の横断歩道を渡り切ったあと、信号機の色がタイミングよく赤となり、横断歩道の前で立ち往生した若者達の群れから、彼女は何とか逃げ切れたのだった。

 彼女はこの隙に、素早く細い路地へと駆け込む。

「はぁ、はぁ、はぁ...。こ、ここまで来れば...。」

 薄暗い路地へと入り込んだ彼女は、壁に手を当てながら激しい息を吐き続けた。

「まいったなぁ。あたしって、そんなに人気があったんだ...。」

 彼女はますます、スーパーアイドルという自分の肩書きに嫌気が差していたようだ。

 その場で5分ほど、落ち着きを取り戻した彼女は、ゆっくりと細い路地を抜けていく。

 辺りを警戒しながら、彼女は恐る恐る人混みの中へと紛れていった。

「ここには、さっきの人たちはいないみたいね...。ホッ。」

 彼女は肩をなで下ろす。その姿は、まるで警察官に追われる犯罪者のようにも見える。

 彼女はさっきよりもゆとりのある足取りで、真っ直ぐな歩道を歩き続けた。

 すると...!

「あ、今日子さんだ!」

 香稟の向かう先には、血眼になって彼女の行方を追う、鬼マネージャーの新羅の姿があった。

 まだこの下界を満喫し切れていない彼女は、新羅の追撃をかわそうと、焦る思いで隠れる場所を目で追った。

 しかし、相手がまずかった。新羅は、さすがにデビュー当時から彼女のマネージャーをしているだけに、変装している彼女に気付いたようだ。

「ま、まずい!」

 心の中でそう叫ぶ香稟は、隠れる場所を横目で探しながら、ゆっくり後ずさりし始めた。

 新羅は、確信を持ったとばかりに、駆け足で彼女に近づいていく。

 追い込まれた香稟は、建物と建物の隙間にある路地を見つけるなり、ダッシュでその暗がりへと駆け込んだ。

『タタタタッ...』

 この時、香稟にとって思いがけない出会いが待っていた。

『ドッタ~~ン!!』

「キャッ!?」

「うわぁ!?」

 彼女は突然の強い衝撃に、跳ね返されるように吹き飛んだ。

 地面に尻餅をついた彼女の、そのかすかな視界に入ったもの。それは、自分と同じように地面に倒れ込んだ、紛れもない人の形をした少年であった。

「いってぇぇ...。」

 彼女とぶつかったその少年は、ゆっくりとその場に起き上がる。

「だ、大丈夫ですか?」

 やさしく手を差し伸べる少年に、彼女はお礼を言いながら細い手を差し出した。

「あ!急がなきゃ!」

「え、な、何!?」

 突然の悲鳴じみた彼女の声に、たじろぐ少年。

 彼女は、追っ手の新羅から逃れるため、この場を離れようとしたが、どうやらお尻を強打していたらしく、思うように足を踏み出すことができなかった。

「う、いた~い...。」

「だ、大丈夫!?」

 心配そうな視線を送るその少年。彼女は、その少年に向かって最後の博打を打つ。

「ねぇ、お願い!あたしをかくまって!!」

「えっ!?」

「あたし、追われてるの!どうかお願い!!」

 少年は呆気にとられた顔で、じっと彼女を見つめている。

 その頼み込む彼女の姿に、ただならぬ気配を感じた少年は、彼女に協力することにした。

「わ、わかったよ。えーとね...。あ、ここに隠れて!」


 ◇

「はぁ、はぁ!」

 眉をつり上げ、鼻息を荒くして、牙をむき出したような形相の鬼マネージャー新羅は、香稟の逃げ込んだ路地へと突入してきた。

 彼女は、その路地に立ちつくす少年を見つけると、襲いかかるように飛びかかってきた。

「ちょっとあなた!この道を高校生ぐらいの女の子が通り過ぎて行かなかった!?ねぇ、どうなの!?正直に答えなさい!」

「あわわ...。い、いい、行きましたよぉ...。む、向こうですぅ...。」

 その少年は、彼女の放つ威圧感に体を震わせながら、路地の奥を指し示した。

「そう、ありがとう!」

 新羅は細い路地も何のそので、華麗な走行フォームで駆け抜けていった。

 少年は気が抜けたように、その場にひざまずくように腰を下ろした。

「こ、怖かったぁ...。」

『ガポ~~ン!!』

 突如、少年の側にあった業務用のゴミ箱のふたが開いた。

 なんとその中から、鬼マネージャーから難を逃れた香稟が、ムッとした表情で顔を出した。

「ちょっと、あなた!かくまってもらって言うのもなんだけど、ゴミ箱に投げ入れるなんてひどいんじゃない!?あたしだって、れっきとしたレディなんだからね!」

「そ、そんなこと言われてもさ...。こんな路地で、かくまう場所なんてないでしょ?」

「それは、そうだけどぉ!」

 まんざらハズレていない言い分だが、どうも釈然としない表情の香稟。

 彼女を救ったこの少年、もうお気付きだと思うが、彼はさっきまで風景画に没頭していたあの唐草潤太である。

 彼の手を借りて、香稟はようやく大きなゴミ箱から脱出した。

「ふぅ...。とりあえず助かったわ、どうもありがとう。」

 潤太は、勢いに任せて助けた彼女のことを、疑惑の眼差しで見つめている。

「あ、あのさ、君ってもしかして...。脱獄犯?」

「あのねぇ!こんなかわいい脱獄犯がどこにいるのよ!?そんなわけないでしょう!」

 彼女の言う通り、かわいい脱獄犯には、できることならお目にかかりたくはないだろう。

「そ、それじゃあ、どうして逃げ回ってるの?何か悪さしたんじゃないの?」

「ん~。悪さといえば悪さかな。しいて言うなら、ちょっとしたイタズラかしらね。」

「ふ~ん。」

 香稟はこの時、ある不思議なことに気付いた。それは、彼がスーパーアイドルを目の前にしても、驚かないばかりか平然としているからだ。

「ねぇ?」

「ん、何?」

「あなた、あたしのこと...。もちろん知ってるよね?」

「い、いや、初めて会うと思うけど...。」

「うそ!?ホントに知らない?」

 香稟は思わずおののく。

 それは無理もない。潤太ぐらいの年齢で、夢百合香稟を知らない者はいないと、彼女自身そう思っていたからだ。少しばかり、自意識過剰というべきところだが...。

「う、うん。ボクと、どこかで会ったことある?」

「あ、いや、知らないなら、それでいいんだけど...。」

「?」

 不思議そうな顔の潤太。彼は、香稟の思わせぶりな表現に、ただただ首を傾げている。

「それじゃあ、ボクもう行くから。」

 潤太は、目の前の不審な少女に別れを告げて、彼女のもとから離れようとする。

 そんな彼の背中を、香稟は大声で呼び止める。

「ちょっと待って!ねぇ、もう一つお願いしてもいいかな?」

「え!?ま、まだあるの?」

 眉をしかめて振り向く潤太。

「あ、何よその顔!?そんなに迷惑そうな顔しなくてもいいじゃないの!」

「だ、だって、君、何だか怪しいんだもの。」

 失礼ねーと言わんばかりに、口を尖らせている香稟。

「ア・ヤ・シ・クない!あたしは、ごくフツ~の女の子だもん!」

「わかったよぉ。で、そのお願いっていうのは?」

 香稟は人差し指を掲げて、満面の笑顔で答える。

「あのね、あたしに渋谷、原宿界隈を案内してくれない?」

「へ!?」

 いきなり何を言い出すんだ!?といった表情の潤太。

「あたしね、あまり遊んだことないのよ、渋谷とか原宿。だから、これから、あたしを案内してほしいの。」

「あ、案内って言われても...。ボクだって、そんなによく知ってるわけじゃないし。」

「そこは気にしないで。ただ一緒に付き合ってくれればそれでいいから。」

「へ?」

 彼女はこの時、目の前にいるこの少年を、うまく利用しようと企んでいた。

 それは、彼と一緒に行動することで、巷の若者達が、香稟の正体に気付きにくくなると読んだのだ。それに、一人で行動するよりは、明らかに安全であることも事実だったからだ。

「これから、一緒に付き合ってよ。ね?」

 たじろぐ潤太は、頬を赤く染めている。

「あ、あの、それって...。もしかして、逆ナンパ?」

「ちが~う!そんなんじゃないって!あなた本気でぶつわよ、もう!」

「わわっ、ゴメンゴメン!」

 黄金の右腕を振りかざす香稟に、彼は頭を抱えて謝っていた。

 半ば強制的ではあるが、潤太はやむなく、彼女の二つ目のお願いを聞くことになってしまった。


 ◇

 様々な人々で埋め尽くされた渋谷。そこには、今を楽しく生きる若者達で溢れている。

 そんなにぎやかな街へとやって来た、スーパーアイドルの香稟とその付き人役の潤太。二人は、そんな街中を散策していた。

「へぇ~。いろいろなお店があるんだね。」

「うん。ホントだ。」

「あ、あそこ入ってみよう!」

「え!あそこって...!?」

 ここでは、もうすっかり香稟のペースである。彼女のリーダーシップに、一生懸命に付き合う潤太であった。

 二人は、おしゃれな雑貨屋や、オープンカフェなどで有意義な時間を過ごしていた。

 アイスクリームショップで買った、3段重ねのアイスクリームをおいしそうに口にしている香稟。そのすぐ脇で、微笑んでいる彼女のことを見つめる潤太。

 その姿は、この一時を楽しむ恋人同士に見えなくもなかった。


 ◇

 二人は渋谷、原宿を回って、代々木公園へと足を運んだ。

 日曜日の公園には、老若男女いろいろな人々が集まって、様々なライフスタイルを楽しんでいた。

 二人は休憩しようと、空いているベンチへと腰掛けた。

「あ~。今日は気持ちいい天気だね。」

 香稟は両手を大きく掲げて、目一杯全身を伸ばした。

「そうだね。」

 潤太も彼女を真似るように、大きく伸びる。

「そういえばさ、ちょっと気になったんだけど...。」

「ん、何?」

 香稟は、隣にいる潤太が抱えるスケッチブックを指さした。

「これ、スケッチブックだよね。何でこんなの持ってるの?」

「何で持ってるって、絵を描くからに決まってるでしょ。まさか、うちわ代わりにでもすると思ったの?」

「そんなわけないでしょ!そんな大きいうちわじゃ、まともに仰げないじゃない!」

 何とも下らない会話である。

「でも、意外!あなたが絵を描くなんて、ハッキリいって似合わないなぁ。」

「ムッ!悪かったね。どうせボクは、絵を描くより恥かく方が似合うっていいたいんだろ?」

「あははは。あなた、その表現うまいわね。おもしろい。」

「全然、フォローしないんだね。」

 お腹を抱えて笑う香稟は、彼の持つスケッチブックに興味が湧いたようだ。

「ねぇ、ちょっと中見せてよ。あなたがどんな絵描くのか知りたいな。」

「ヤダ!ボクのことバカにしたくせに。絶対見せてやんないよ~だ!」

「もうバカにしないから、お願いよぉー。あ、もしかして!あなた女の裸体とか描いてるんじゃないでしょうね!?」

「ち、ち、違うよっ!ボクは、そんな絵なんか...!」

「じゃあ、何でそこまでして隠すのぉ!?あーやし~!」

 まるで小学生同士のような、子供じみた会話をしている二人。

 香稟に甘えるようにしつこく頼まれて、年頃の潤太はさすがに断り切れず、抱えていたスケッチブックを彼女に手渡した。

「わぁ、サンキュー。さ~て、どんな絵描いてんのかな!?」

「言っておくけど、そんなに笑わないでくれよ。こう見えても、人に見せるの恥ずかしいんだからさ。」

 香稟は、スケッチブックのボタンを外して、その一ページ目を広げる。

「...!」

 彼女の笑顔が一瞬で消えた。

 無言のままスケッチブックを見つめる彼女に、潤太は気が気じゃない様子だ。

「な、何で黙ってんのさ?あー、さては笑いこらえてるなー?」

 横でわめく潤太に目もくれず、彼女はつぶやくように口を開く。

「上手だね...。」

「...へ!?」

「すごくきれいに描けてるね。ハッキリいって、これはすごいよ!」

「そ、そうかな。」

 思いも寄らぬお褒めの言葉に、似合わない照れ隠しをする潤太。

 香稟は、スケッチブックをさらにめくり、その優秀な絵画をくまなく見入っている。めくるたびに、彼女はすごいすごいと感心していた。

「すごいな...。あなた絵描きさんになれるんじゃないの?」

「そんなことないよ。絵描きで生きていくには、こんな中途半端な絵じゃやっていけないよ。ボクの絵なんて、まだまだ子供だましだもん。」

 潤太は苦笑いを浮かべて、画家という職業の難しさを語った。

「そうなんだぁ...。ねぇねぇ!ほんのちょっとでいいから、ここの風景描いてみて。」

「え、い、今から?」

 香稟は、スケッチブックを丁寧に閉じて潤太に返した。

 彼はスケッチブックを開くと、モチーフとなる代々木公園の景色を眺める。

 風景とスケッチブックを交互に見て、すらすらと作画を始める潤太。その横で、彼の真顔をじっと見つめる香稟。

 ここ代々木公園に、二人だけの、ゆったりとした静かな時が流れていった。

「こ、こんな感じだけど。」

「あ、見せて、見せて!」

 わずかな時間で描き上げたとはいえ、潤太の描いた絵は、香稟の視界にある風景をとても上品に、繊細に表現していた。

「すっごく雰囲気出てるね。あなた、ホントに絵描きさんになりなよぉ。」

「ありがとう。がんばってみるよ。」

 香稟は、潤太の絵を鑑賞しながら、ふと思いついた疑問を投げかける。

「でも、どうして風景しか描かないの?例えば人物画とか、そういったのは?」

 潤太はスケッチブックを見つめたまま、その真意を打ち明ける。

「ボクさ、絵を描き始めたの、小学校の頃なんだけどさ。そのきっかけになったのが、家族旅行で北海道へ行った時なんだ。そこで、きれいな風景画を描いてる絵描きさんに出会ったんだ。」

 思い出を懐かしむように語る潤太。それを真面目な顔で聞いている香稟。

「その絵描きさんと話してたら、何だか無性に絵を描いてみたくなってしまって、旅行中にスケッチブックを親に買ってもらってさ、実際に描いてみたんだよ。自分では下手だなぁって、そう思ったけど、その絵を絵描きさんに見てもらったら、君は才能があるよって誉められてね。」

 潤太はうれしそうに、照れ笑いを浮かべていた。

「ちょっと有頂天になっちゃったけど、それから本格的に絵を描き始めたというわけ。だからボクは、今でも風景画以外に興味がないんだよ。」

「へぇ~。そんな昔から描いてたの。どうりで年期の入った絵に見えたわけね。」

 楽しい時間はあっという間に過ぎていくもの。いろんな思い出を残した二人に、別れる時刻が訪れた。


 ◇

 代々木公園を後にした二人は、黄昏に包まれながら新宿駅まで戻ってきた。

「今日は、本当にありがとう。すごく感謝してるよ。」

「ボクも楽しかったよ。めったにこの辺で遊んだりしないから、今日はすごくおもしろかった。」

 香稟は、深々と下ろした頭を上げると、少し寂しそうな表情で、目の前の潤太に別れを告げた。

 このまま消えてしまいそうな彼女に向かって、潤太は無意識の内に叫んでいた。

「ねぇ、ちょっと待って!」

「!?」

 彼女はクルッと振り向く。

「あ、あのさ、ボク達、お互い自己紹介してないよね?最後にさ、名前教えてくれないかな?」

 香稟は笑顔を浮かべて、彼の元にゆっくりと戻ってきた。

 潤太は紳士ぶって、彼女より先に名前を打ち明ける。

「ボクは、唐草潤太。高校3年生です。」

「へぇ、偶然だね。あたしと同じ歳なんて。あたしは...。」

 彼女は名乗ろうとした途端、一瞬言葉に詰まった。

「あ、あたしは、信楽...。信楽由里よ。」

 その時、彼女は誰もが知っている「夢百合香稟」の名前を伏せていた。彼女は、潤太に対して自分の本名を名乗ったのだ。

 それはなぜだったのか?周囲の人々に気付かれまいと思ったのか、それとも、目の前の少年にだけは、アイドルとしてではなく、普通の女の子として見続けてほしかったのだろうか。

「もし、また会う機会があったら、一緒に遊ぼうか。」

「う、うん。そうだね。また一緒に遊ぼう。」

 そう言い残すと、彼女は人混みの中へと消えていった。

 それは、スーパーアイドル夢百合香稟にとって、お忍びの冒険の終わりを告げるものだった。

 そんなこととはつゆ知らず、潤太は彼女を目で追い続けた。

 潤太は、とんだ偶然で知り合い、散々振り回されながらも、一緒に遊んだ彼女のことが気になってしまった。

 もう一度、こうやって会うことが出来るのかな...?

 潤太は、不思議な体験にちょっとだけ笑みをこぼし、夕闇迫る家路へと向かっていった。


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