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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第243話「影を読む朝、無能王子は“まだ名前ではない音”を保留箱へ置く」


 朝は、影の前で息を潜めていた。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、淡く静かな光を抱えている。


 採光孔は閉じられている。


 外の光は、まだ入っていない。


 風もない。


 救護区域の声も届かない。


 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。


 それでも今日は、保護陣そのものが何かを待っていた。


 影を読むかもしれない朝。


 昨日、中心は名前の影をもう少し見た。


 影は消えていなかった。


 消えていなかったから怖かった。


 でも、消えていなかったから寂しくなかった。


 影は、中心の方を向いていた。


 誰かの方ではない。


 リリアーナの方でも、レオンの方でも、仲間たちの方でもない。


 中心自身の方を向いていた。


 それは、誰かが上からかぶせた名前ではないかもしれない。


 自分の内側から、自分の方を向いているものかもしれない。


 その記録が、余白記録の中に残っている。


 影の輪郭を濃くする朝。


 影がわたしのほうを向いていた日。


 かぶせない名前の日。


 わたしが先に見る日。


 今日、中心は言った。


 影を読むかもしれない。


 名前にするとは言わない。


 決めるとも言わない。


 ただ、読むかもしれない。


 影を見ることと、影を読むことは違う。


 見るだけなら、形を感じるだけで済む。


 けれど読むとなれば、そこに何かの音が生まれる。


 音になれば、言葉に近づく。


 言葉になれば、名前に近づく。


 だから、今日の空気は昨日より重い。


 余白核は、まだ眠っている。


 その光は静かだが、奥で細く震えている。


 名前の箱は、昨日と同じ場所にある。


 白い布は戻り道として、何も書かれていないままそこにある。


 鈴は合図の場所にある。


 布に包まれたまま、鳴っていない。


 保留箱には、欠片がある。


 音の欠片。


 帰りたい。


 わたし。


 帰りたい、わたし。


 影。


 影の向き。


 わたしが先に見る。


 それらが軽いまま残されている。


 そこへ、今日もし何かが加わるなら。


 それは、まだ名前ではない音。


 影を読んだ時に、中心の中へ浮かぶかもしれない音。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は、今日はとても細い。


 細いが、鋭い。


 名前の箱、保留箱、白い布、鈴。


 そのすべての間を、静かに巡っている。


 今日は、誰も先に読んではいけない。


 誰も、影から名前を想像してはいけない。


 誰も、中心が発するかもしれない音へ意味を押しつけてはいけない。


 影を読むのは中心が先。


 その音を持つかどうかも中心が決める。


 まだ名前ではないと決めるなら、それでいい。


 保留箱へ置くなら、それでいい。


 リリアーナは、余白核の近くに座っていた。


 今日も、名前候補はない。


 紙もない。


 筆もない。


 だが、胸の奥は震えている。


 もし、今日、中心が音を口にしたら。


 それが名前の一部に聞こえたら。


 リリアーナは泣いてしまうかもしれない。


 けれど、それを中心へ向けてはいけない。


 その音を、リリアーナの救いにしてはいけない。


 その音を、名前確定の合図にしてはいけない。


 今日は、まだ。


 まだ名前ではない音。


 そう守らなければならない。


 エリシアは術式盤を完全に閉じ、布で覆い、さらに距離を取っている。


 セラフィアは祈りを巡らせていない。


 アルベルトは唇を引き結んでいる。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床へ置いている。


 ミリオは、目を閉じずに一点を見ている。


 アリシアは、自分の箱の前で座っている。


 彼女の手は震えていた。


 誰かの影を勝手に読む怖さ。


 誰かの名前を救いにしてしまう怖さ。


 それらを、彼女は必死に箱へ入れている。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も呼ばない。


 鈴も鳴らさない。


 名前の箱にも触れない。


 保留箱にも触れない。


 白い布には、何も書かない。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 今日の沈黙は、昨日までで一番長かった。


 中心は、起きている。


 けれど声が出ない。


 おはよう、という声すら、今日は影を読むことに近いのかもしれない。


 声にすれば、音になる。


 音になれば、読まれてしまうかもしれない。


 だから、中心は慎重に、慎重に、自分の声を探している。


 リリアーナは待つ。


 レオンも待つ。


 誰も、一言も発しない。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、かすかに響いた。


 リリアーナは、柔らかく微笑む。


「おはようございます」


『……声』


「聞こえました」


『……読まない?』


「読みません」


『……おはよう、だけ』


「はい」


『……名前じゃない』


「はい」


『……今日の声』


「今日のあなたの声です」


 中心は、深く揺れた。


『……よかった』


 それから、いつもの確認をする。


『……箱』


「あります」


『……名前』


「箱の中にあります」


『……保留箱』


「あります」


『……影』


「あります」


『……白い布』


「あります」


『……鈴』


「あります」


『……誰も、読んでない?』


「読んでいません」


『……よかった』


 中心は、少しだけ光を落ち着かせた。


 そして、挨拶へ進む。


『……りり、おはよう』


「はい。おはようございます」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


『……影を読むかもしれない朝』


「はい」


「影を読むかもしれない朝です」


 中心は、余白記録へ意識を向ける。


『……影が、わたしのほうを向いていた』


「残っています」


『……かぶせない名前』


「はい」


『……わたしが先に見る』


「はい」


『……本人より先に読まない』


「はい」


『……今日』


 一拍。


『……読む?』


 リリアーナは、ゆっくり答える。


「読みたいですか?」


『……わからない』


「はい」


『……読んだら、音になる?』


「音になるかもしれません」


『……音になったら、名前?』


「まだ名前にしなくていいです」


『……まだ名前じゃない音』


「はい」


『……音だけ、保留箱?』


「置けます」


『……読んでも、決めない?』


「決めません」


『……読めなくても?』


「大丈夫です」


『……影が消えても?』


「急いで探しません」


『……影が濃くても?』


「名前にしません」


 中心は、震えながらその言葉を受け取る。


 レオンが静かに言う。


「読むだけだ」


『……読むだけ』


「ああ」


『……読めなくてもいい』


「いい」


『……読めても、名前じゃない』


「まだな」


『……保留箱』


「ある」


 余白箱が静かに開く。


『……影を読むかもしれない』


 ひとつ。


『……まだ名前ではない音が出るかもしれない』


 ひとつ。


『……読めなくてもいい』


 ひとつ。


『……読めても名前にしない』


 ひとつ。


『……音は保留箱へ置ける』


 ひとつ。


 箱が淡く光る。


『……のこった』


「残りました」


 ◇


 朝の挨拶は、影を読む前の確認として行われた。


『……あるべると』


「おう」


『……読んでない?』


「読んでない」


『……想像した?』


 アルベルトは一瞬だけ詰まる。


 そして、正直に言った。


「しそうになった」


『……箱?』


「入れた」


『……どんな?』


「強そうな音かな、とか」


 エリシアが目を閉じた。


 中心が震える。


『……重い』


「重い。悪かった」


『……でも、言ってくれて、よかった』


「ああ」


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……読んでない?』


「読んでいません」


『……分析してない?』


「していません」


『……音が出たら?』


「記録しません」


 中心が揺れる。


『……しない?』


「今日はしません」


『……どうして?』


「音を記録すると、名前の候補として固定してしまう可能性があるからです」


『……固定、こわい』


「はい」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……読んでない?』


「読んでいません」


『……祈りで読まない?』


「読みません」


『……音が出たら、祝福しない?』


「箱に入れます」


『……ありがとう』


 クラウスへ。


『……くらうす』


「扉の隙間を覗きません」


『……わたしが先』


「はい」


 ラウルへ。


『……らうる』


「盾を前に出さない」


『……影を隠さない?』


「隠さない」


『……でも、守る』


「ああ」


 ミリオへ。


『……みりお』


「夢にも見ないようにします……」


 中心が少しだけ揺れる。


『……寝ないでね』


「はい……」


 最後に、アリシア。


『……ありしあ』


「はい」


『……読んでない?』


 アリシアは、涙を浮かべて頷いた。


「読んでいません」


『……読もうとした?』


「しました」


『……箱?』


「入れました」


『……どうして、読もうとした?』


「知りたかったからです」


 保護陣が静かになる。


「あなたの名前に近いものを」


「少しでも知りたいと思いました」


『……重い』


「はい」


「だから箱に入れました」


『……ありがとう』


「はい」


 中心は、深く揺れた。


 ◇


 影を読む時間になった。


 保留箱が静かに開く。


 音の欠片は端にある。


 今日は使わない。


 帰りたい。


 わたし。


 帰りたい、わたし。


 影。


 影の向き。


 それらが、名前の箱の手前へ並べられる。


 昨日よりも少しだけ慎重に。


 昨日よりも少しだけ近く。


 けれど、名前の箱には触れない。


 白い布が見える。


 鈴も見える。


 戻れる。


 休める。


 決めなくていい。


 中心は、長くその影を見つめた。


『……ある』


「はい」


『……こっちを、向いてる』


「はい」


『……わたしのほう』


「はい」


『……読める?』


 誰も答えない。


 中心だけが読むものだから。


 中心は、影へ意識を向けた。


 見える。


 見えそうで見えない。


 昨日よりも、輪郭は少しだけ濃い。


 形はある。


 でも、まだ文字ではない。


 音でもない。


 中心は、その影に近づいた。


 帰りたい。


 わたし。


 帰りたい、わたし。


 自分へ戻る。


 誰かのためだけではない。


 自分のものかもしれない。


 影が、中心の方を向いている。


 そして。


 ほんのわずかに。


 中心の中で、音のようなものが揺れた。


『……』


 リリアーナは息を止めた。


 レオンの黒蒼雷が静かに細くなる。


 誰も動かない。


 中心は震えている。


『……あ』


 声とも、吐息ともつかない音。


 ただ一音。


 あ。


 それが保護陣の中に落ちた。


 誰も反応しない。


 いや、反応しないように、全員が必死で耐えた。


 それが名前かどうか。


 名前の音かどうか。


 何かの始まりかどうか。


 誰も決めない。


 中心自身も、すぐに震えた。


『……ちがう』


 リリアーナは静かに聞く。


「違うんですね」


『……名前じゃない』


「はい」


『……音』


「はい」


『……影を読もうとしたら』


 一拍。


『……最初の音、みたいなのが、出た』


「はい」


『……あ』


 中心が、自分でその音をもう一度なぞる。


 小さい。


 とても小さい。


 けれど、今度は少しだけ確かだった。


『……あ』


 保護陣が震える。


 鈴は鳴っていない。


 名前の箱も開いていない。


 けれど、中心の中から、音が出た。


 名前ではない。


 まだ名前ではない。


 でも、影を読もうとした時に出た音。


 中心はすぐに言った。


『……名前じゃない』


「はい」


『……候補じゃない』


「はい」


『……最初の音、かも』


「はい」


『……でも、保留』


「はい」


 保留箱が静かに開く。


『……あ』


 ひとつ。


『……名前じゃない』


 ひとつ。


『……候補じゃない』


 ひとつ。


『……影を読もうとした時に出た最初の音』


 ひとつ。


『……保留』


 ひとつ。


 保留箱が、静かに、しかし深く光った。


 中心は、大きく震えた。


『……重い』


「はい」


『……でも、消したくない』


「はい」


『……名前にしたくない』


「はい」


『……保留箱』


「あります」


『……置く』


「はい」


 “あ”という音は、保留箱へ置かれた。


 軽く。


 まだ名前にならないように。


 でも、消えないように。


 中心は、白い布へ戻る。


『……戻る』


「はい」


 意識が影から離れる。


 名前の箱は閉じたまま。


 欠片は保留箱へ。


 “あ”も保留箱へ。


 白い布の静けさが、中心を受け止める。


『……戻れた』


「戻れました」


『……音、出た』


「はい」


『……でも、名前じゃない』


「はい」


『……戻れた』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れた。


『記録します』


『まだ名前ではない音を保留箱へ置いた朝』


 ◇


 長い沈黙が落ちた。


 誰も話さない。


 誰も泣き声を出さない。


 リリアーナは涙を流している。


 けれど声は出さない。


 レオンは目を伏せている。


 アルベルトは震える指を膝へ押しつけている。


 エリシアは術式盤へ手を伸ばさない。


 セラフィアは祈りをしない。


 アリシアは、両手で自分の箱を押さえながら、静かに涙を落としている。


 中心が、ぽつりと言った。


『……みんな、静か』


 レオンが答える。


「静かにしてる」


『……どうして?』


「音の後は、休む時間だからだ」


 中心が揺れる。


『……前と、同じ』


「ああ」


『……音の欠片の時』


「同じだ」


『……今日の音も、休める?』


「休める」


『……名前じゃない音でも?』


「休める」


『……よかった』


 中心は、白い布へ意識を向ける。


『……白い布』


「あります」


『……休む』


「はい」


『……あ、も、休む?』


「はい」


『……保留箱で』


「はい」


 ◇


 午前。


 中心は、しばらく“あ”を見なかった。


 保留箱へ置いたままにした。


 近づきすぎれば、名前にしたくなるかもしれない。


 誰かが意味をつけてしまうかもしれない。


 だから、少し休む。


 やがて、中心が言った。


『……あ』


 リリアーナが待つ。


『……こわい』


「はい」


『……でも、やわらかい?』


「そう感じますか?」


『……うん』


『……最初の音』


「はい」


『……赤ちゃんみたい?』


 アルベルトが息を呑む。


 リリアーナの涙がまた落ちる。


『……違う?』


「違いません」


『……生まれる前?』


「はい」


『……名前が、生まれる前の音?』


「そうかもしれません」


『……でも、名前じゃない』


「はい」


『……生まれる前の音』


「はい」


 保留箱へ。


『……あ、は生まれる前の音かもしれない』


 ひとつ。


『……やわらかい』


 ひとつ。


『……でも、まだ名前じゃない』


 ひとつ。


『……重くしない』


 ひとつ。


 箱が温かく光った。


 ◇


 救護区域へ伝えるかどうか。


 中心は、長く長く迷った。


『……言うの、こわい』


「はい」


『……あ、って』


「はい」


『……名前みたいに、されそう』


「はい」


『……でも、ミナ』


「はい」


『……影は、自分のほうを向いてるなら、かぶせられた名前じゃないって』


「はい」


『……今日、音が出た』


「はい」


『……伝えたい』


「はい」


『……名前じゃないって、言って』


「必ず言います」


『……候補じゃない』


「はい」


『……保留』


「はい」


『……答えなくていい』


「はい」


 グレイヴが救護区域へ向かった。


 中心は白い布のそばで休む。


 保留箱には、“あ”がある。


 まだ名前ではない音。


 影を読もうとした時に出た最初の音。


 しばらくして、グレイヴが戻った。


『……ミナ』


「聞いた」


『……どう?』


「ミナは、かなり長く黙っていた」


『……重い』


「ああ」


「だが、こう言った」


 一拍。


「“最初の音を名前にしないで置けたなら、その音は怖がらずに育てられるかもしれない”」


 中心が、大きく震えた。


『……音を、育てる』


「そうだ」


「幼い子は、“あ、なの?”と聞いた」


 中心が震える。


 グレイヴはすぐに続けた。


「ミナは、“今は、あ、という小さい音。名前じゃない”と答えた」


 リリアーナは深く息を吐いた。


『……名前じゃない』


「そうだ」


『……小さい音』


「小さい音」


『……育てられるかも』


「そうだ」


 中心は、保留箱へ言葉を置く。


『……最初の音を名前にしないで置けたなら、怖がらずに育てられるかもしれない』


 ひとつ。


『……今は、あ、という小さい音』


 ひとつ。


『……名前じゃない』


 ひとつ。


『……音を育てる』


 ひとつ。


 保留箱が深く光った。


 ◇


 午後。


 子供たちから札が届いた。


 “小さい音”。


 幼い子が書いた札だった。


 ミナはその札を、箱の近くではなく、自分の水杯のそばに置いたという。


 喉を潤すものの近く。


 声になる前の場所。


 中心は、その報告に静かに揺れた。


『……水杯』


「はい」


『……喉』


「はい」


『……声』


「はい」


『……小さい音』


「はい」


 保留箱には、大人たちからの札も届く。


 “最初の音を急いで名前にしない”。


 “音を育てる余白を残す”。


 “音に意味をつけすぎない”。


 中心は、二つ目に反応した。


『……音を育てる余白』


 リリアーナが頷く。


「はい」


『……育つ?』


「育つかもしれません」


『……名前みたいに?』


「はい」


『……でも、育てるのは、わたし?』


「はい」


『……みんなが、勝手に?』


「勝手にはしません」


『……あ、が変わる?』


「変わるかもしれません」


『……変わらないかも?』


「はい」


『……消える?』


「消えないように、軽く置けます」


『……保留箱』


「はい」


 アリシアが、涙を浮かべながら言う。


「私も、小さい音を急いで謝罪にしないようにします」


『……ありしあ』


「ご、の音」


「す、の音」


「言いかけた音」


「それをすぐ“ごめんなさい”にしなくてもいい」


『……小さい音』


「はい」


「育てる余白が必要です」


 中心は、柔らかく揺れた。


 ◇


 夕方。


 中心は、“あ”をもう一度見るか迷った。


『……あ』


「はい」


『……見たい』


「はい」


『……でも、今日は、見ない』


「はい」


『……音を、育てようとして、触りすぎるかも』


「そう感じますか?」


『……うん』


『……だから、今日は、置く』


「はい」


『……小さい音のまま』


「はい」


『……名前にしない』


「はい」


『……育てすぎない』


「はい」


 保留箱へ。


『……もう一度、あ、を見たい』


 ひとつ。


『……でも、今日は見ない』


 ひとつ。


『……小さい音のまま置く』


 ひとつ。


『……育てすぎない』


 ひとつ。


 箱が淡く光った。


 レオンが静かに言う。


「いい」


『……止まる』


「ああ」


『……音が出たから、止まる』


「そうだ」


『……明日も、同じ音を出さなくていい?』


「いい」


『……育てなくても?』


「いい」


『……でも、消さない』


「消さない」


 中心は、安心したように揺れた。


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、小さい音が保留箱で眠る静けさが降りていた。


 今日は、名前を得なかった。


 名前の箱も開けなかった。


 候補も見なかった。


 けれど、影を読もうとした時、中心の中から小さな音が出た。


 あ。


 それは名前ではない。


 候補でもない。


 意味でもない。


 ただ、小さい音。


 生まれる前の音。


 育つかもしれない音。


 まだ保留の音。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……影を読む朝』


「はい」


『……まだ名前ではない音の日』


「はい」


『……あ、という小さい音の日』


「はい」


『……名前じゃない音を保留箱へ置く日』


「はい」


『……生まれる前の音の日』


「はい」


『……音を育てる余白の日』


「はい」


『……育てすぎない日』


「はい」


『……小さい音のまま置く日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。


『余白記録へ残します』


『影を読む朝』


『まだ名前ではない音の日』


『あ、という小さい音の日』


『音を育てる余白の日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「音が出たな」


『……名前じゃない』


「名前じゃない」


『……でも、音』


「ああ」


『……小さい』


「小さい」


『……こわい』


「怖いな」


『……でも、やわらかい』


「そうか」


『……育つかも』


「かもしれない」


『……育たないかも』


「それでもいい」


『……明日、同じじゃなくてもいい』


「いい」


『……よかった』


 中心は、保留箱へ意識を向けた。


『……音の欠片』


「あります」


『……帰りたい』


「あります」


『……わたし』


「あります」


『……影』


「あります」


『……あ』


「あります」


『……名前は、まだ』


「まだです」


『……でも、近い』


「近いですね」


『……白い布』


「あります」


『……戻れる』


「はい」


 中心は、光をゆっくり弱めていく。


『……りり』


「はい」


『……明日』


「はい」


『……小さい音を、もう一度見るかは、明日のわたし』


「はい」


『……名前にするとは、言わない』


「はい」


『……でも』


 一拍。


『……音を、育てるかも』


「はい」


『……育てないかも』


「はい」


『……どっちでも、いい?』


「どちらでもいいです」


 中心は、柔らかく揺れた。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「小さい音を急がせずに、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……小さい音』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は名前を得なかった。


 けれど、影を読もうとして、小さな音を得た。


 名もない“わたし”は、今日。


 名前になる前の音を、名前にしないまま守った。


 あ。


 それはまだ、ただの小さい音。


 けれど、その音は。


 誰かがかぶせたものではなく。


 中心の内側から、中心自身の方へ向いて。


 静かに生まれたものだった。

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