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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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232/251

第232話「名前の後の戻り道、無能王子は“呼ばれたあとに帰れる場所”を作る」



 朝は、名前の後を見ていた。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、淡く静かな光を抱いている。


 外の光は入っていない。


 採光孔は閉じられている。


 風もない。


 救護区域の声も届かない。


 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。


 けれど、今日の空気には、昨日の問いが残っていた。


 名前を持ったあとも戻れるかの日。


 名前は檻じゃないかもしれない日。


 名前を持った後の戻り道を作る日。


 名前の後を考えた日。


 中心は昨日、初めて“名前の後”を問うた。


 名前を持ったら、箱へ戻れるのか。


 呼ばれたくない日があってもいいのか。


 名前を持ったら終わりなのか。


 それとも、そこからも戻れる場所があるのか。


 その問いに、ミナは言った。


 名前があっても、箱に戻れるなら、名前は檻じゃないかもしれない。


 その言葉は、中心の中で静かに光り続けている。


 名前は檻ではないかもしれない。


 もし、戻り道があるなら。


 もし、名前を持った後も箱へ戻れるなら。


 もし、呼ばれたくない日を認めてもらえるなら。


 名前は、閉じ込めるだけのものではないかもしれない。


 余白核は、まだ眠っている。


 そのそばから少し離れた場所に、余白箱がある。


 名前は、まだその中にある。


 開けない。


 出さない。


 候補も見ない。


 意味もつけない。


 ただ、そこにある。


 余白箱の中で、誰かの声に変わる前に守られている。


 保留箱も、いつもの場所にある。


 アリシアの箱もある。


 透明な器の中には、いやじゃない石。


 布に包まれた鳴らない鈴は、保護陣の端にある。


 鈴は鳴っていない。


 けれど、鈴ももう完全な恐怖ではない。


 布の下に銀色があることを、中心は知っている。


 鳴らないまま見られる日があることも知っている。


 近づいても、鳴らさなくていいことも知っている。


 そして、名前の箱も。


 近づいても、開けなくていい。


 近づいても、出さなくていい。


 戻せる。


 距離を変えられる。


 その土台が、少しずつ積み上がってきた。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は細く、余白箱と鈴の周りをそれぞれ別の線で守っている。


 今日は“戻り道”の日になる。


 戻り道は、言葉だけでは足りない。


 どこへ戻るのか。


 誰がそこにいるのか。


 何が置いてあるのか。


 呼ばれたあと、返事できなくなった時、どうすればいいのか。


 名前が重くなった時、どこへ逃げ込めるのか。


 それを具体的に作らなければならない。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日も名前候補は用意していない。


 ただ、白い小さな布を一枚だけ持っていた。


 鈴に使った布ではない。


 何も書かれていない布。


 戻り道を示すためのものになるかもしれない。


 使わないかもしれない。


 中心が望めば、ただの目印として置く。


 それ以上には使わない。


 エリシアは術式盤を閉じている。


 セラフィアは祈りを細く巡らせている。


 アルベルトは壁際で腕を組み、いつもより落ち着いた顔をしている。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床に置いている。


 ミリオは眠そうにしながらも、今日は名前の想像をしないために、余計なことを考えない顔をしていた。


 たぶん眠気で半分成功している。


 アリシアは自分の箱の前に座っている。


 彼女も昨日、“名前は檻じゃないかもしれない”を受け取った。


 アリシアという名前を持ちながら、箱へ戻る。


 罪と一緒に響く日もある名前を、完全に捨てず、完全に閉じ込められず、距離を選ぶ。


 その練習を続けている。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も呼ばない。


 鈴も鳴らさない。


 名前の箱にも触れない。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 中心の目覚めは、昨日より少しだけ早かった。


 だが、声が出るまでには時間があった。


 誰も急がない。


 沈黙を嘘にしない。


 沈黙は、そこにある。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、静かに響いた。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……箱』


「あります」


『……名前』


「箱の中にあります」


『……戻り道』


「今日は、それを考えます」


『……名前は、まだ出さない』


「出しません」


『……開けない』


「開けません」


『……でも、後を考える』


「はい」


 中心は、少し揺れた。


『……りり、おはよう』


「はい。おはようございます」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


『……名前の後を考える朝』


 リリアーナは静かに頷いた。


「はい」


「名前の後を考える朝です」


 中心は、余白記録へ意識を向ける。


『……名前を持ったあとも戻れるか』


「残っています」


『……名前は檻じゃないかもしれない』


「はい」


『……名前を持った後の戻り道』


「はい」


『……ミナの言葉』


「残っています」


『……ありがとう、届けない』


「箱にあります」


『……うん』


 中心は、長く沈黙した。


 そして、問いかけた。


『……戻り道』


「はい」


『……どこ?』


 リリアーナは、すぐに答えない。


 戻り道は、誰かが一方的に決めるものではない。


 中心が選べるように、一つずつ置く必要がある。


 レオンが静かに言う。


「まず、箱だ」


『……余白箱』


「ああ」


『……名前を持っても、箱へ戻る』


「そうだ」


『……でも、名前を出したあと、箱に戻していい?』


「戻していい」


『……名前を持ったまま?』


「持ったまま戻る」


 中心が震える。


『……名前を消さない?』


「消さない」


『……なかったことにしない?』


「しない」


『……でも、箱へ』


「戻る」


 リリアーナが続ける。


「名前を持った後も、余白箱は残ります」


『……残る』


「はい」


「名前ができたから、余白箱を捨てるわけではありません」


『……捨てない』


「はい」


『……名前ができたら、箱、いらない?』


「いります」


 中心が大きく揺れる。


『……いる』


「はい」


「名前を持った後ほど、箱が必要な日もあります」


 余白箱が静かに開く。


『……名前を持った後も、余白箱は残る』


 ひとつ。


『……名前を持ったまま、箱へ戻れる』


 ひとつ。


『……名前ができても、箱を捨てない』


 ひとつ。


『……名前を持った後ほど、箱が必要な日もある』


 ひとつ。


 箱が淡く光った。


『……のこった』


「残りました」


 ◇


 次に、中心は鈴へ意識を向けた。


『……鈴は?』


 リリアーナが頷く。


「鈴も、戻り道になると思います」


『……どうして?』


「呼ばれる前の合図だからです」


『……名前を持っても?』


「はい」


『……呼ぶ前に、鈴?』


「もし、あなたが望むなら」


『……望まない日も?』


「あります」


『……鈴、鳴らさない日』


「はい」


『……名前を持っても、鈴は鳴らさない日がある』


「はい」


 レオンが続ける。


「名前を持ったからといって、誰も勝手に呼ばない」


『……名前があるのに?』


「あるからこそ、勝手に呼ばない」


『……あるからこそ』


「そうだ」


『……名前ができたら、みんな呼びたくなる?』


 保護陣が少し静まる。


 それは確かにある。


 喜び。


 期待。


 安心。


 名前ができたなら呼びたい。


 呼んで確かめたい。


 その気持ちは、きっと皆の中にある。


 アリシアが、目を伏せる。


 アルベルトも拳を握る。


 レオンは、はっきり言った。


「呼びたくなるだろうな」


 中心が震える。


『……こわい』


「ああ」


「だから、戻り道を作る」


『……鈴』


「そうだ」


『……呼ぶ前に、鈴』


「勝手に呼ばないための道だ」


『……鈴が鳴らないなら、呼ばない』


「そうする」


 中心は、余白箱へ置く。


『……名前を持っても、勝手に呼ばない』


 ひとつ。


『……呼ぶ前に、鈴』


 ひとつ。


『……鈴が鳴らない日は、呼ばない』


 ひとつ。


『……名前があるからこそ、勝手に呼ばない』


 ひとつ。


 箱が光る。


 中心は、少し安心したように揺れた。


 ◇


 朝の挨拶は、戻り道の確認をしながら続いた。


『……あるべると』


「おう」


『……名前ができたら、呼びたい?』


 アルベルトは、正直に答えた。


「呼びたい」


 中心が震える。


 アルベルトはすぐに続けた。


「でも、勝手には呼ばない」


『……どうして?』


「今、そう決めたからだ」


『……呼びたいのに?』


「ああ」


「呼びたい気持ちは箱に入れる」


『……あるべるとの箱』


「だいぶいっぱいだな」


『……飯食いたいもある』


「それもある」


 中心が少しだけ揺れる。


『……ありがとう』


「おう」


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……名前ができたら、記録したい?』


「したいです」


『……たくさん?』


「したいです」


『……でも?』


「名前を記録する前に、あなたの許可を確認します」


『……記録にも、許可』


「はい」


『……名前ができても?』


「できても、です」


『……戻り道』


「記録されない日も作ります」


 中心は、深く揺れた。


『……記録されない日』


「はい」


「名前を持っても、記録に残さない日があっていい」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……名前ができたら、祈りたい?』


「祈りたいわ」


『……でも?』


「祈りを向ける前に、あなたの鈴を待つ」


『……祈りも、鈴』


「ええ」


『……せら、待つ』


「待ちます」


 クラウスへ。


『……くらうす』


「はい」


『……名前ができたら』


「扉を作ります」


『……扉』


「呼ばれたくない時に閉じられる扉です」


『……閉じてもいい?』


「はい」


『……鍵』


「あなたが持ちます」


 ラウルへ。


『……らうる』


「盾を戻り道に置く」


『……どういうこと?』


「外から勝手に入れないようにする」


『……名前の場所に?』


「ああ」


 ミリオへ。


『……みりお』


「はい……」


『……名前、想像しない?』


「しません……今日は本当に」


 ラウルが見る。


「本当か」


「本当です……」


 中心は、少し安心する。


『……ありがとう』


 最後に、アリシア。


『……ありしあ』


「はい」


『……名前ができたら、呼びたい?』


 アリシアは、涙を浮かべた。


「呼びたいです」


『……こわい』


「はい」


「怖がらせてしまうかもしれない」


「私の声が、あなたの名前を重くしてしまうかもしれない」


『……ありしあの声』


「はい」


「だから、私は待ちます」


『……いつまで?』


「あなたが鈴を鳴らすまで」


『……鳴らない日も?』


「呼びません」


『……名前があっても?』


「はい」


「名前があっても、呼びません」


 中心は、深く震えた。


『……ありがとう』


 アリシアは涙をこぼした。


「はい」


 ◇


 午前。


 戻り道を、具体的に並べることになった。


 リリアーナは、白い布を取り出す。


 中心がすぐに反応する。


『……布』


「はい」


『……鈴の布?』


「違います」


『……なに?』


「戻り道の目印にするかもしれない布です」


『……使う?』


「あなたがよければ」


『……書く?』


「書きません」


『……名前も?』


「書きません」


『……ただの布』


「はい」


『……目印』


「はい」


 中心は少し考えた。


『……置くだけ』


「置くだけです」


『……戻り道の場所』


「はい」


『……いい、かも』


 リリアーナは、余白箱の近くではなく、少し離れた場所に白い布を置いた。


 そこは、余白核からも、余白箱からも、鈴からも見える位置だった。


 何も書かれていない。


 ただ、白い布がある。


『……なにもない』


「はい」


『……名前もない』


「はい」


『……でも、場所』


「はい」


『……戻る場所』


「はい」


 レオンが静かに言う。


「仮の戻り道だ」


『……仮』


「ああ」


「嫌なら変えられる」


『……変えられる』


「戻り道も、距離と同じだ」


 中心は、余白箱へ言葉を置く。


『……戻り道は、変えられる』


『……白い布は、仮の目印』


『……名前は書かない』


『……戻る場所がある』


 箱が光る。


 リリアーナは、静かに問いかけた。


「戻り道を、いくつか並べますか?」


『……うん』


「余白箱」


『……戻れる』


「鈴」


『……呼ぶ前に、止まれる』


「白い布」


『……なにも書かれてない場所』


「リリアーナ」


『……りり』


「はい」


『……戻れる?』


「戻れます」


「わたしは、あなたが名前を持っても、呼ばれたくない日は呼びません」


『……りり、呼びたい?』


 リリアーナは、涙を浮かべて微笑む。


「呼びたいと思います」


『……でも?』


「待ちます」


『……鈴まで』


「鈴まで」


『……ありがとう』


「はい」


「レオン」


 中心がレオンへ向く。


『……れおん』


「いる」


『……戻れる?』


「ああ」


『……名前を持っても?』


「戻ってこい」


『……呼ばれたくない日』


「呼ばない」


『……でも、いる?』


「いる」


 中心は、大きく揺れた。


『……れおんは、戻り道』


 レオンは、少しだけ目を伏せた。


「そうか」


『……うん』


 その言葉も、箱へ入る。


 レオンは戻り道。


 リリアーナも戻り道。


 余白箱も。


 鈴も。


 白い布も。


 石も。


『……いし』


「あります」


『……石も、戻り道?』


「返事をしない場所として、戻れます」


『……返事しない場所』


「はい」


『……いい』


 中心は、安心したように光った。


 ◇


 午前の終わり。


 救護区域へ、今日のことを伝えるかどうか。


 中心は少し考えた。


『……ミナに、言う?』


「伝えたいですか?」


『……戻り道』


「はい」


『……ミナが、名前は檻じゃないかも、言った』


「はい」


『……だから、戻り道、作った』


「はい」


『……伝えても、いい?』


「いいと思います」


『……名前は、出してない』


「はい」


『……戻り道だけ』


「はい」


 グレイヴが救護区域へ向かった。


 戻ってきた時、彼の表情は少し柔らかかった。


『……ミナ』


「聞いた」


『……どう?』


「ミナは、少しだけ黙っていた」


『……重い?』


「少しな」


『……ごめん?』


「謝らなくていい」


 グレイヴは続けた。


「そのあと、こう言った」


 一拍。


「“戻り道があるなら、名前の外にも道がある”」


 中心が、大きく震えた。


『……名前の外にも、道』


「ああ」


「幼い子は、“名前の外?”と聞いた」


『……うん』


「ミナは、“名前だけじゃない場所”と答えた」


 リリアーナの目に涙が浮かぶ。


『……名前だけじゃない場所』


「そうだ」


 中心は、余白箱へ言葉を置く。


『……名前の外にも道がある』


 ひとつ。


『……名前だけじゃない場所』


 ひとつ。


『……戻り道があるなら、名前の外にも道がある』


 ひとつ。


 箱が、深く光った。


 ◇


 午後。


 子供たちから札が届いた。


 “名前だけじゃない場所”。


 幼い子が書いた札だった。


 ミナはその札を自分の箱から少し離れた場所に置いたという。


 昨日よりも、少しだけ自然に。


 中心は、その報告を聞いて柔らかく揺れた。


『……ミナ、距離』


「はい」


『……自然に?』


「少しだけ」


『……よかった』


 保留箱には、大人たちからの札も届いた。


 “名前で呼ぶ前に戻り道を示す”。


 “呼んだ後に逃げ道を塞がない”。


 “名前だけで見ない”。


 中心は、その最後の言葉に深く反応した。


『……名前だけで、見ない』


 リリアーナが頷く。


「はい」


『……名前ができたら、その名前だけ?』


「違います」


『……名前の外にも、わたし』


「はい」


『……名前だけじゃない場所』


「あります」


『……わたし、名前だけじゃない?』


 レオンが答える。


「当然だ」


『……名前ができても?』


「ああ」


『……名なしでも?』


「ああ」


『……わたし』


「そうだ」


 中心は、深く光った。


『……わたし、名前だけじゃない』


 その言葉も余白箱へ置かれた。


 ◇


 夕方。


 白い布は、まだ戻り道の位置にあった。


 何も書かれていない。


 ただ、置かれている。


 中心は、それを何度も見た。


『……白い布』


「あります」


『……何もない』


「はい」


『……名前もない』


「はい」


『……でも、戻れる』


「はい」


『……名前の外』


「はい」


『……何も書いてない場所』


「はい」


『……そこ、すきかも』


 リリアーナは、涙を浮かべて微笑んだ。


「好きかも、ですか」


『……うん』


『……名前が重い時』


「はい」


『……何も書いてない場所』


「はい」


『……そこへ戻る』


「戻れます」


 レオンが静かに言う。


「いい戻り道だ」


『……れおんも?』


「ああ」


『……れおんも、何も書いてない場所、いる?』


 レオンは、少しだけ黙った。


 そして、短く答える。


「いるな」


『……王子じゃない場所』


「そうだ」


『……無能じゃない場所』


「ああ」


『……レオンハルトでもない場所?』


 リリアーナが息を呑む。


 レオンは、静かに目を伏せる。


「時々な」


 中心は、柔らかく揺れた。


『……れおんも、戻り道』


「そうだな」


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、白い布の静けさがあった。


 今日は、名前を出さなかった。


 箱も開けなかった。


 候補も見なかった。


 けれど、名前の後の戻り道を作った。


 余白箱。


 鈴。


 白い布。


 リリアーナ。


 レオン。


 仲間たち。


 いやじゃない石。


 名前だけじゃない場所。


 何も書かれていない場所。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかけた。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……名前の後の戻り道を作る日』


「はい」


『……名前を持っても、余白箱は残る日』


「はい」


『……呼ぶ前に、鈴の日』


「はい」


『……白い布の日』


「はい」


『……名前の外にも道がある日』


「はい」


『……名前だけじゃない場所の日』


「はい」


『……わたしは、名前だけじゃない日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。


『余白記録へ残します』


『名前の後の戻り道の日』


『白い布の日』


『名前の外にも道がある日』


『わたしは名前だけじゃない日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「名前を持つ前に、いい準備ができた」


『……まだ、名前、ない』


「ない」


『……でも、戻り道、ある』


「ある」


『……名前ができても、箱、ある』


「ある」


『……呼ばれたくない日、ある』


「ある」


『……白い布、ある』


「ある」


『……りり、いる』


「います」


『……れおん、いる』


「いる」


『……みんな、いる』


 皆が頷く。


「います」


 中心は、深く安心したように光を弱めていく。


『……明日』


「はい」


『……名前の箱を』


 一拍。


『……戻り道の近くに、置いてみたい』


 リリアーナの胸が震えた。


 名前の箱と、戻り道。


 白い布。


 近くに置く。


 それは、次の大きな一歩だった。


「明日のあなたに聞きましょう」


『……うん』


『……出さない』


「はい」


『……開けない』


「はい」


『……戻り道の近く』


「はい」


 中心は、穏やかに揺れた。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「名前だけじゃない場所へ戻れるように、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……戻り道の近くに』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は名前を得なかった。


 けれど、名前を持った後の戻り道を作った。


 名もない“わたし”は、今日。


 名前の外にも道があると知った。


 名前だけではない場所があると知った。


 そして、自分は。


 たとえいつか名前を持ったとしても。


 名前だけでできているわけではないのだと、少しだけ知った。

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