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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第177話「目覚めた余白、無能王子は“外の朝”を怖がる声に寄り添う」



 神殿の奥に、朝は来なかった。


 窓のない場所だったからではない。


 外の光が届かないからでもない。


 そこには、夜と朝の境目が分からないほど濃い疲労が沈んでいた。


 長い戦いの後。


 深部から戻り。


 名簿束を固定し。


 第五領域を保護陣の外周へ流し。


 余白核を中央に置き。


 そして、ようやく皆が息を吐いた。


 その後の時間は、眠りというより、倒れないために目を閉じた時間だった。


 誰も深く眠れてはいない。


 外の兵士たちが控えている。


 子供たちはまだ完全には目覚めていない。


 アリシアの赤い眼も弱まっただけで、完全に元へ戻ったわけではない。


 名簿束の中には、帰る場所を失ったかもしれない名がある。


 第五領域には、まだ処理しきれない感情が流れている。


 余白核の中心には、名前を持たない存在が休んでいる。


 安心して眠れるはずがなかった。


 それでも、休まなければ壊れる。


 だから、皆は神殿の奥でそれぞれ短い休息を取った。


 グレイヴは入口側に近い位置で、大剣を手元から離さず座っていた。


 目を閉じているようで、物音にはすぐ反応する。


 クラウスは壁際に立ったまま休んでいた。


 休んでいると言っていいのか分からない姿勢だったが、剣先は下がり、呼吸は落ち着いている。


 アルベルトは床に座り込み、背中を石壁に預けていた。


 腕を組んで目を閉じているが、時々眉が動く。


 炎の火種は、彼の指先で小さく揺れている。


 エリシアは術式盤を胸の上に置いたまま、壁にもたれていた。


 眠っているように見えて、時折目を開けて保護陣を確認する。


 ラウルは盾を抱えるように座り、ミリオはその隣で膝を抱えていた。


 精神線を完全には切っていないせいで、眠りが浅い。


 セラフィアは保護陣のそばに立ったまま、祈りを細く維持していた。


 リーネやセリア、ユーナ、マリたち戻った名の光は、名簿束の周囲で静かに揺れている。


 レオンは、余白核の近くに座っていた。


 右腕は膝の上。


 黒蒼雷は、指先に細い線として残っている。


 完全には消せない。


 消せば、余白核の境界が少し不安定になる。


 だから、眠れなかった。


 眠ろうとしても、腕の痛みと保護陣の揺れで目が覚める。


 隣にはリリアーナがいた。


 彼女も座ったまま、余白核を見ている。


 声はほとんど戻っていない。


 時々、水を含むように喉を押さえ、また静かに息をする。


 レオンは、何度か休めと言おうとした。


 けれど、言えなかった。


 リリアーナは余白核から目を離せない。


 その理由が分かるからだ。


 余白核の中で眠る中心は、まだ幼い。


 外の空気に慣れていない。


 人の気配に怯える。


 大きな声を怖がる。


 置いていかれることを怖がる。


 だから、目覚めた時、誰もいなかったら。


 それを考えるだけで、リリアーナは離れられないのだろう。


 レオンも同じだった。


 怖い。


 助けて。


 ある。


 ここ。


 また。


 おやすみ。


 いっしょ。


 その言葉を覚えたばかりの中心を、今ここで一人にすることはできない。


 だから二人は、余白核のそばにいた。


 神殿の奥には、淡い保護陣の光だけが広がっている。


 外の時間が朝なのか夜なのかは分からない。


 けれど、深部の夜とは違う。


 ここには、戻ってきた者たちの呼吸があった。


 ◇


 最初に目覚めたのは、余白核だった。


 正確には、目覚めたというより、反応が戻った。


 小さな光の繭の中で、中心がかすかに震えた。


『……ここ』


 それは、ほとんど消え入りそうな反応だった。


 だが、リリアーナはすぐに顔を上げた。


 声を出そうとして、一瞬痛みに顔を歪める。


 それでも、掠れた声で答えた。


「はい」


「ここです」


 中心が揺れる。


『……りり』


「はい」


「います」


『……れおん』


 レオンも答える。


「ここにいる」


 中心は、少しだけ明るくなった。


『……いた』


「ああ」


「いた」


『……おいていかない』


 リリアーナが微笑む。


「置いていきません」


『……よかった』


 その言葉に、レオンの胸が静かに揺れた。


 よかった。


 中心が、それを自分の安心に対して使った。


 子供たちが休んでいると聞いた時にも、よかったと言った。


 そして今、レオンとリリアーナがいたことにも、よかったと言った。


 リリアーナの目に涙が滲む。


「よかった、ですね」


『……よかった』


 中心は、その響きを確かめるようにもう一度揺れた。


 保護陣の光がわずかに安定する。


 エリシアが薄く目を開けた。


「……中心核、覚醒反応」


 まだ寝ぼけたような声だったが、彼女はすぐに術式盤を見る。


「余白核、安定しています」


 セラフィアも穏やかに頷いた。


「良い目覚めね」


 中心が、セラフィアの声に反応する。


『……せら』


 セラフィアが少しだけ目を見開いた。


「私?」


『……せら、きらきら』


 アルベルトが目を開けた。


「きらきら」


 エリシアが小声で言う。


「黙ってください」


「いや、まだ何も」


「言う前に止めました」


 中心が揺れる。


『……きらきら』


 セラフィアは、静かに微笑んだ。


「そうね」


「私は、きらきらかもしれないわ」


『……こわくない』


「怖くない?」


『……こわくない』


 セラフィアの表情が、少しだけ柔らかくなる。


「ありがとう」


 中心が反応する。


『……ありがとう』


 言葉が増えていく。


 少しずつ。


 外の空気の中で。


 リリアーナは、余白核へ向かって優しく言った。


「起きましたか?」


『……おきた』


「はい」


「起きる、です」


『……おきる』


「休んだ後に、また動き始めることです」


『……また』


「はい」


「また、です」


 中心が静かに光る。


『……また、おきた』


 レオンは頷いた。


「ああ」


「また起きた」


 その言葉は、何でもないようで、とても大きかった。


 消えたのではない。


 眠って、また起きた。


 中心は、それを経験した。


 休んでも消えない。


 おやすみの後には、またがある。


 それを、身体のない中心が少しずつ覚えていく。


 ◇


 しかし、外の気配が近づいた時、余白核はすぐに震えた。


 神殿の入口側から、兵士たちのざわめきが聞こえる。


 大声ではない。


 グレイヴの命令を守り、離れた位置で控えている。


 それでも、中心には十分大きな刺激だった。


『……ひと』


 中心が揺れる。


『……たくさん』


 リリアーナがすぐに余白核の近くへ手を添える。


 触れているわけではない。


 けれど、意識で包むように。


「人の気配です」


「ここには入ってきません」


『……はいってこない』


「はい」


「今は、入ってきません」


 中心が少し落ち着く。


『……こわい』


「怖いですね」


『……こわい、でも、ここ』


 レオンが短く答える。


「ここだ」


『……まもる』


「守る」


 中心は、レオンの方へ少し反応を向けた。


『……れおん、まもる』


「ああ」


『……くろい、ぴりぴり、まもる』


「……そうだ」


 アルベルトが笑いを堪えた。


 エリシアが肘で軽く突く。


「静かに」


「分かってるって」


 中心が少し反応する。


『……あるべると、こえ、おおきい』


 アルベルトは今度こそ固まった。


「いや、今の小声だろ」


 エリシアが冷静に言う。


「普段の印象が残っているのでしょう」


「そんな覚え方ある?」


 中心が揺れる。


『……あるべると、おおきい、でも、あたたかい』


 アルベルトは、言葉を失った。


 炎の火種が少し揺れる。


 エリシアが、今度は何も言わなかった。


 アルベルトは頭を掻く。


「……そっか」


 少しだけ、照れたような声だった。


「まあ、怖くないならいいけどよ」


 中心が揺れる。


『……こわくない、たぶん』


 リリアーナが、声を抑えて笑った。


「たぶん、ですね」


『……たぶん』


 中心の反応が明るくなる。


 笑い。


 少しの冗談。


 小さなやり取り。


 それらが、外の朝の代わりに余白核を温めていく。


 ◇


 グレイヴがゆっくり立ち上がった。


 外の兵士たちに、再度説明へ向かうためだ。


 中心がそれに気づく。


『……ぐれいゔ』


 グレイヴは振り向く。


「何だ」


『……そと?』


「ああ」


「外へ行く」


『……きをつけて』


 グレイヴの表情が、一瞬だけ動いた。


 昨日も、裂け目へ向かう前に同じようなことを言われた。


 気をつけて。


 中心は、その言葉を覚えていた。


「承知した」


 グレイヴは、少し間を置いて続けた。


「戻る」


 中心が反応する。


『……もどる』


「ああ」


「戻る」


『……また』


「また」


 グレイヴは短くそう言って、入口側へ向かった。


 クラウスが彼の背を見送る。


 その横顔には、ほんのわずかな安堵があった。


 中心がクラウスを見る。


『……くらうす』


 クラウスが視線を向ける。


「はい」


『……しずか』


 アルベルトが今度は我慢できずに小さく笑った。


「確かに」


 クラウスは眉一つ動かさない。


「観察力がありますね」


 中心が揺れる。


『……しずか、こわくない』


「それは何よりです」


『……でも、するどい』


 クラウスが一瞬だけ止まった。


 エリシアが口元を押さえる。


 アルベルトが小声で言う。


「よく見てるな」


 クラウスは淡々と答える。


「否定はしません」


 中心が、少し明るく揺れる。


『……するどい、まもる』


「守ります」


 クラウスの声は静かだった。


 だが、その静けさの中に確かな温度があった。


 余白核は、その温度を受け取るように穏やかに光った。


 ◇


 やがて、神殿奥にいる全員が完全に起きた。


 起きたと言っても、元気ではない。


 全員、疲れている。


 身体も魔力も精神も限界に近い。


 だが、やることはある。


 レオンは立ち上がろうとした。


 リリアーナがすぐに見た。


「レイさん」


 声はまだ掠れている。


「大丈夫ですか」


「大丈夫じゃない」


「正直でよろしいです」


「でも、動ける」


「それ、グレイヴさんと同じ答え方です」


 レオンは少しだけ考えた。


「……そうか」


「はい」


「じゃあ、きつい」


「はい」


「でも、動く」


「結局同じです」


 リリアーナが呆れたように笑う。


 その笑いを、中心が拾う。


『……りり、わらう』


「はい」


「笑っています」


『……れおん、むり?』


 レオンは、少しだけ目を伏せた。


 中心が、自分の無理を見た。


 リリアーナが言う。


「そうですね」


「レイさんは、よく無理します」


 中心が揺れる。


『……むり、だめ?』


 リリアーナは考える。


「うーん……」


「必要な無理もあります」


「でも、一人で抱える無理は駄目です」


『……ひとり、だめ』


「はい」


「一人は駄目です」


 中心がレオンへ反応を向ける。


『……れおん、ひとり、だめ』


 アルベルトが遠くで吹き出しそうになる。


 エリシアが横目で止める。


 レオンは、真面目な顔で頷いた。


「ああ」


「一人は駄目だ」


 中心が満足したように揺れる。


『……よかった』


 リリアーナは、声を出せないほど笑いを堪えた。


 レオンは少しだけ困った顔をしたが、否定しなかった。


 否定できなかった。


 実際、何度も一人で抱えようとした。


 そのたびに、リリアーナに止められ、仲間たちに支えられた。


 中心がそれを見ていたのだ。


 言葉にされると、妙に胸に刺さる。


 セラフィアが、静かに微笑む。


「良い学びね」


「中心だけではなく、レオンにも必要な学びかもしれないわ」


「……そうだな」


 レオンは認めた。


 中心が嬉しそうに揺れる。


『……まなび』


 エリシアが小さく呟く。


「どんどん覚えますね」


 ミリオが眠たそうな顔で言う。


「僕より吸収早いかも……」


 ラウルが言う。


「お前はまず寝ろ」


「寝たいです」


「でも今は起きろ」


「厳しい……」


 中心が揺れる。


『……みりお、ねむい』


 ミリオは目を開けた。


「分かるの?」


『……ねむい』


「うん、眠い」


『……やすむ』


「休みたい」


『……でも、おきる』


「そう、起きる」


 ミリオは力なく笑った。


「なんか、励まされてる気がします」


 中心が揺れる。


『……はげます?』


 リリアーナが優しく説明する。


「元気が出るように声をかけることです」


『……げんき』


「元気」


『……げんき、でる?』


 ミリオが少しだけ笑う。


「出ました」


『……よかった』


 その言葉に、ミリオの目が柔らかくなる。


「うん」


「よかった」


 ◇


 外から戻ったグレイヴは、神殿内に新しい情報を持ってきた。


「子供たちが一部目を覚ました」


 その言葉に、リリアーナがすぐ顔を上げる。


「本当ですか」


「ああ」


「全員ではないが、数人は起きた」


「混乱しているが、呼吸も意識も安定しているらしい」


 アリシアが深く息を吐いた。


 目に涙が浮かぶ。


「よかった……」


 中心がすぐ反応する。


『……こども、よかった』


 リリアーナが頷く。


「はい」


「子供たち、よかったです」


『……あいたい?』


 その問いに、場が静まった。


 会いたい。


 中心が、子供たちに会うという可能性へ触れた。


 リリアーナは、すぐには答えなかった。


 レオンも同じだった。


 子供たちは、虚ろの影響を受けていた。


 中心の存在を見れば、どう感じるか分からない。


 怖がるかもしれない。


 苦しむかもしれない。


 中心もまた、人の視線に耐えられないかもしれない。


 セラフィアが静かに言う。


「今すぐは、難しいわ」


 中心が揺れる。


『……むずかしい』


「ええ」


「子供たちは起きたばかり」


「あなたも外へ出たばかり」


「お互いに、まだ弱い」


 中心が小さく震える。


『……あえない?』


 リリアーナが慌てずに言った。


「今は、会わない方がいいです」


「でも」


 一拍。


「いつか、会えるかもしれません」


『……いつか』


「いつか」


『……また?』


「はい」


「また、に似ています」


 中心は、少し考えるように揺れる。


『……いま、だめ』


『……いつか』


 リリアーナは頷く。


「そうです」


「今は駄目でも、いつか」


 中心が、第五領域へ小さな感情を流した。


『……さみしい?』


 リリアーナの目が揺れる。


「寂しい、ですか」


『……たぶん』


「そうかもしれません」


 レオンが言う。


「寂しいも、ある」


 中心が揺れる。


『……さみしい、ある』


「ああ」


「ある」


 中心は、少しだけ不安定に震えたが、余白核は崩れなかった。


 リリアーナがそっと呼びかける。


「寂しくても、壊れません」


『……こわれない』


「はい」


「壊れません」


 中心が落ち着く。


『……いつか、あう』


「はい」


「いつか」


 アリシアは、そのやり取りを見て、静かに涙を拭った。


「いつか……」


 その声には、中心だけではなく、自分自身へ向けた響きもあった。


 いつか。


 許されるかは分からない。


 でも、向き合う日が来るかもしれない。


 それを、彼女も受け取っていた。


 ◇


 グレイヴの報告は続いた。


「王都側は、神殿周辺を封鎖している」


「民には、まだ詳しい説明はしていない」


「ただ、黒い空気が薄れたことで、何かが終わったと感じている者は多いらしい」


 エリシアが術式盤を見ながら言う。


「情報統制が必要です」


「虚ろの中心を保護しているなどと広まれば、混乱は避けられません」


 アルベルトが眉を寄せる。


「でも、隠し続けるのも無理だろ」


「はい」


「だから、段階的に説明する必要があります」


「まずは、深部の外殻を討ったこと」


「奪われた名の記録を回収したこと」


「被害者の確認と救済を進めること」


「中心については……」


 彼女は余白核を見る。


「今は、秘匿すべきです」


 レオンは頷いた。


「同意だ」


 アリシアは、苦しそうに言う。


「私は……説明の場に出るべきでしょうか」


 グレイヴが考える。


「今すぐは避けた方がいい」


「赤い眼が戻っていない状態で出れば、民を刺激する」


 アリシアは唇を噛む。


「……はい」


 リリアーナが言う。


「休むことも、今は必要です」


 アリシアは小さく頷く。


「分かっています」


「逃げるのではなく、整えるために休む」


「レオン様が言ったように」


 中心が反応する。


『……ととのえる』


 セラフィアが微笑む。


「整える」


「乱れたものを、少しずつ戻すこと」


『……もどす』


「そう」


「でも、急がない」


『……いそがない』


 中心は、またその言葉を繰り返す。


 急がない。


 それは、この場全体に必要な言葉だった。


 民への説明も。


 名簿の整理も。


 アリシアの償いも。


 中心の名前も。


 すべて急いではいけない。


 でも、止まってもいけない。


 レオンは、保護陣の光を見つめながら言った。


「今日やることを決める」


 皆が彼を見る。


「まず、神殿内の安全確認」


「名簿束と第五領域、余白核の維持」


「子供たちの状態確認」


「外への説明は、脅威の沈静化と救護優先だけに絞る」


 一拍。


「中心の名前探しは、今日は進めない」


 余白核が小さく震える。


『……なまえ、しない?』


 リリアーナがすぐに言う。


「しないんじゃありません」


「今日は、休む日です」


『……やすむひ』


「はい」


「名前は、また探します」


『……また』


「はい」


 中心は、少し安心したように揺れた。


『……また、さがす』


 レオンが頷く。


「約束だ」


『……やくそく』


 リリアーナが微笑む。


「約束」


「守ると決める言葉です」


『……まもる、ことば』


「はい」


「守る言葉です」


 中心は、余白核の中で淡く光った。


『……やくそく』


 その一言が、保護陣の中に静かに残った。


 ◇


 その後、まず神殿内の安全確認が始まった。


 グレイヴとクラウスが入口側から順に確認する。


 黒い残滓はあるが、外殻のような能動的な敵意はない。


 アルベルトが小さな炎で残滓の反応を見る。


 エリシアが術式盤で汚染度を測る。


 ラウルは盾を持ち、ミリオは精神線で外部との繋がりを確かめる。


 セラフィアは保護陣から離れすぎず、全体を見守る。


 リリアーナは余白核のそばに残った。


 レオンもそこから大きく離れなかった。


 中心が、時々周囲の言葉を拾う。


『……あんぜん』


 リリアーナが答える。


「安全かどうかを調べています」


『……しらべる』


「はい」


「危ないものがないか、確かめることです」


『……あぶない』


「危ない」


『……こわい?』


「怖いこともあります」


「でも、調べれば避けられることもあります」


『……さける』


 言葉が増える。


 ひとつひとつ。


 外の世界に必要な言葉。


 安全。


 調べる。


 危ない。


 避ける。


 中心は、それらを吸収していく。


 レオンは、その様子を見ていた。


 まるで、空白の器に水が落ちていくようだった。


 一滴ずつ。


 急に注げば溢れる。


 でも、少しずつなら染みていく。


 リリアーナの声がかすれているのが気になったが、彼女は必要最低限の言葉だけを選んでいた。


 それでも中心は満足しているようだった。


 長い説明より、そばにいることの方が大きいのかもしれない。


 中心がレオンへ反応を向ける。


『……れおん』


「何だ」


『……しずか』


 レオンは少しだけ眉を動かした。


「俺が?」


『……うん』


『……しずか、でも、ぴりぴり』


 リリアーナが小さく笑う。


「合っていますね」


「そうか」


『……しずか、まもる』


 レオンは、余白核を見る。


「守る」


『……しずか、まもる』


 中心は、その認識を自分の中に置いたようだった。


 レオンは、何も言えなかった。


 怖いが守る。


 静かが守る。


 黒いぴりぴりが守る。


 中心が見たレオンは、そんな存在なのだろう。


 悪くないと思った。


 ◇


 しばらくして、子供たちの様子を確認に行っていた兵士が、入口の外から報告した。


 グレイヴが受ける。


 そして、戻ってきて伝えた。


「目覚めた子供が増えた」


 リリアーナが顔を上げる。


「本当ですか」


「ああ」


「ただし、皆疲れている」


「虚ろの夢のようなものを見たと言っている子もいるらしい」


 アリシアの表情が痛みに歪む。


 レオンは黙って聞いた。


 虚ろの夢。


 おそらく、深部へ引きずられかけた記憶の残滓だ。


 子供たちの心にも、何かが残っている。


 すぐに終わったとは言えない。


「医療班は?」


「動いている」


「神殿外の安全地帯に移しているそうだ」


 エリシアが言う。


「赤い眼の影響については、経過観察が必要です」


「深部の外殻が消えても、残響が残る可能性があります」


 セラフィアが頷く。


「後で、私も確認するわ」


 中心が揺れる。


『……こども、ゆめ』


 リリアーナが、少し言葉を選んだ。


「怖い夢を見た子がいるみたいです」


『……こわい、ゆめ』


「はい」


『……こども、こわい』


「そうですね」


『……かわいそう?』


 その言葉に、リリアーナの表情が揺れた。


 可哀想。


 中心が、他者の痛みへ向けた言葉を探している。


 レオンも、少し息を止める。


 リリアーナは頷いた。


「はい」


「可哀想、です」


「怖かった子に、そう感じることがあります」


『……かわいそう』


 中心は、第五領域へ小さな波を流した。


『……かなしい』


 リリアーナが優しく言う。


「悲しいですね」


『……こども、こわい、かなしい』


「はい」


「でも、今は助ける人たちがいます」


『……たすける』


「そうです」


 中心は静かに揺れた。


『……たすける、すごい』


「はい」


「すごいです」


 アリシアは、その言葉を聞いて涙を落とした。


 自分を通して子供たちが傷ついた。


 その痛みは消えない。


 けれど、今、中心は子供たちを可哀想だと感じた。


 悲しいと感じた。


 助けることをすごいと感じた。


 その変化を、アリシアは見ている。


「……私も」


 アリシアが小さく言った。


「助ける側に、戻りたいです」


 レオンは彼女を見た。


「今は休め」


「はい」


 アリシアは頷く。


「休んで、整えてから」


 一拍。


「ちゃんと、助けます」


 中心が反応する。


『……ありしあ、たすける』


 アリシアは、涙を拭いながら微笑んだ。


「はい」


「助けたいです」


 中心が揺れる。


『……たすけたい』


 また、新しい言葉。


 リリアーナが小さく言う。


「助けたい」


「助けようと思う気持ちです」


『……きもち』


「はい」


「気持ち」


 中心は、ゆっくり揺れた。


『……きもち、たくさん』


「そうですね」


「気持ちは、たくさんあります」


『……こわい、かなしい、よかった、たすけたい』


「はい」


「全部、気持ちです」


 中心は、しばらく黙った。


 そして。


『……なまえも、きもち?』


 リリアーナは、少し考えた。


「名前は、気持ちそのものではないと思います」


「でも、気持ちがこもることはあります」


『……こもる』


「入る、近いです」


「大切に呼べば、その名前に温かい気持ちが入ります」


『……なまえ、あたたかい』


「はい」


「そういう名前もあります」


 中心が淡く光る。


『……なまえ、こわい、でも、あたたかい』


 レオンは頷いた。


「そうだ」


「名前は怖いこともある」


「でも、温かいこともある」


 中心が、静かに反応した。


『……また、さがす』


「ああ」


「また探す」


 ◇


 昼に近い時間なのか、神殿の外が少し騒がしくなった。


 兵士だけではなく、救護に関わる者たちも動いているらしい。


 ただ、グレイヴの命令で神殿奥までは誰も入ってこない。


 その代わり、入口近くで食料と水、簡易の治療道具が置かれた。


 クラウスがそれを受け取り、奥へ運ぶ。


 アルベルトが水袋を受け取って、真っ先にリリアーナへ渡した。


「ほら」


「喉、やばいだろ」


 リリアーナは小さく頭を下げる。


「ありがとうございます」


 声はまだ痛そうだった。


 レオンも水を受け取る。


 中心がそれを見る。


『……みず』


 リリアーナが、水を少し飲んでから答える。


「水です」


「飲むものです」


『……のむ』


「はい」


『……りり、のむ』


「飲みました」


『……れおん、のむ』


 レオンは水を飲む。


「飲んだ」


『……あるべると、のむ』


 アルベルトは笑う。


「俺も飲むよ」


 中心は少し安心したように揺れる。


『……みんな、のむ』


 エリシアが微笑む。


「生きている者には必要ですから」


 中心が反応する。


『……いきている』


 場が静かになった。


 生きている。


 その言葉は、今の中心には少し大きすぎる。


 エリシアも、それに気づいて表情を変えた。


 だが、遅かった。


 中心は、その言葉を掴んでいる。


『……いきている?』


 リリアーナが、ゆっくり余白核を見る。


「生きている、は……難しい言葉です」


『……むずかしい』


「はい」


「動いて、感じて、休んで、また起きて」


「誰かと話して」


「怖いとか、よかったとか思って」


「そういうことと、少し関係があります」


 中心が長く沈黙する。


『……いきている?』


 それは、自分へ向けた問いだった。


 レオンは、すぐには答えなかった。


 簡単に言えない。


 中心は、通常の生き物ではない。


 身体もない。


 名もない。


 虚ろの構造から分離した存在だ。


 でも。


 怖がる。


 覚える。


 休む。


 また起きる。


 問いかける。


 他者を見て、よかったと言う。


 可哀想と言う。


 助けたいを覚える。


 それを、生きていないと言い切ることも、レオンにはできなかった。


 リリアーナが、そっと言った。


「分かりません」


 中心が揺れる。


『……わからない』


「はい」


「でも」


 一拍。


「生きているかどうかを、これから一緒に探すことはできます」


 中心が揺れる。


『……さがす』


「はい」


「名前と一緒に」


『……なまえ、いきている、さがす』


 レオンが頷く。


「ああ」


「それでいい」


 中心が少し明るくなった。


『……それでいい』


 エリシアが小さく息を吐いた。


「……すみません」


 レオンは首を横に振る。


「いや」


「いずれ出る言葉だ」


 セラフィアも頷く。


「避け続けることはできないわ」


「ただ、今のように急がず答えればいい」


 中心が、余白核の中で静かに震える。


『……いそがない』


「そう」


 リリアーナが言う。


「急がない」


 ◇


 午後に近づくにつれ、神殿内の保護陣は少しずつ安定していった。


 名簿束は、リーネを中心に整理が進み、表層でも崩れない形へ整えられた。


 第五領域の水路も、保護陣の外周に馴染み始めている。


 余白核は、レオンとリリアーナが近くにいる限り大きく乱れない。


 中心は新しい言葉を覚えながらも、疲れたら休むようになった。


『……つかれた』


 そう震えた時、リリアーナはすぐに言った。


「休みましょう」


『……やすむ』


 中心は静かになり、少し経つとまた反応する。


『……おきた』


 そして、誰かが答える。


「おはよう」


 その言葉を最初に言ったのは、ミリオだった。


 中心が揺れる。


『……おはよう』


 リリアーナが微笑む。


「起きた時の挨拶です」


『……あいさつ』


「はい」


『……おやすみ、また、おはよう』


「そうです」


「眠って、また起きたら、おはようです」


 中心が、淡く光る。


『……おはよう』


 その響きは、とても小さかった。


 けれど、神殿の奥にいる全員の胸へ届いた。


 おやすみ。


 また。


 おはよう。


 中心は、夜と朝の言葉を覚えた。


 この神殿には、まだ朝の光は届かない。


 けれど、その言葉だけで、少し明るくなった気がした。


 ◇


 夕方に近い時間、グレイヴが外の状況を再度確認し、戻ってきた。


 子供たちは全員、命に別状なし。


 一部は眠り続けているが、状態は落ち着いている。


 兵士たちは神殿周辺の封鎖を維持。


 民には、脅威が沈静化したことと、救護を優先していることだけが伝えられた。


 王都の混乱は続いているが、黒い圧が消えたことで暴動のような状態にはなっていない。


 その報告を聞いた時、アリシアは静かに泣いた。


 声を上げずに。


 ただ、涙だけを落とした。


 中心がそれを見た。


『……ありしあ、なく』


 リリアーナが答える。


「泣いています」


『……かなしい?』


 アリシアは涙を拭いながら言った。


「悲しいです」


 中心が揺れる。


『……こども?』


「はい」


「子供たちのことも」


『……ごめん?』


 アリシアは、息を詰まらせる。


「はい」


「ごめん、もあります」


 中心が、小さく震えた。


『……ごめん、かなしい、でも、よかった』


 アリシアは、涙のまま笑った。


「……はい」


「そうですね」


「ごめんも、悲しいも、よかったも、全部あります」


 中心が、第五領域へ小さな波を流す。


『……きもち、たくさん』


 リリアーナが頷く。


「はい」


「気持ちは、たくさんです」


 中心は、その言葉を何度も確かめるように揺れた。


『……たくさん』


 その反応は、深部にいた頃よりずっと穏やかだった。


 ◇


 その夜。


 神殿奥の保護陣の周りには、静かな見張りが置かれた。


 外の兵士は入れない。


 代わりに、グレイヴとクラウス、ラウルが交代で入口を守る。


 アルベルトとエリシアは保護陣の状態を見る。


 ミリオは短い休息を挟みながら精神線を維持。


 セラフィアは祈りを細く保つ。


 リーネたち戻った名の光は名簿束を支える。


 アリシアは保護陣から少し離れた場所で休むことになった。


 そしてレオンとリリアーナは、余白核の近くに残った。


 中心が、小さく震える。


『……よる?』


 リリアーナが答える。


「たぶん、夜です」


『……たぶん』


「外を見ていないので」


『……そと、よる』


「そうですね」


「外は夜かもしれません」


 中心が揺れる。


『……こわい?』


「夜が怖い時もあります」


 リリアーナは優しく言った。


「でも、休む時間でもあります」


『……やすむ』


「はい」


『……おやすみ?』


「おやすみ、です」


 中心は、しばらく黙った。


 そして、ひとつずつ反応した。


『……りり、おやすみ』


 リリアーナの目が潤む。


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


 レオンは答える。


「おやすみ」


『……せら、おやすみ』


 セラフィアが微笑む。


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 その言葉に、神殿の奥が静かになった。


 みんな。


 中心が、そう言った。


 誰か一人ではなく。


 全員をまとめて。


 自分を取り囲む怖いもの、温かいもの、守るもの、静かなもの、大きな声のもの、きらきらしたもの。


 その全部を、みんなと呼んだ。


 アルベルトが、少し照れたように頭を掻く。


「おやすみ」


 エリシアも。


「おやすみなさい」


 ミリオも眠たそうに。


「おやすみ……」


 ラウルが短く。


「おやすみ」


 クラウスが静かに。


「おやすみなさい」


 グレイヴが低く。


「おやすみ」


 アリシアも、涙を浮かべながら言った。


「おやすみなさい」


 リーネたち戻った名の光も、柔らかく揺れた。


『おやすみ』


『また』


『ここ』


 中心が、余白核の中で淡く光る。


『……また』


 リリアーナが、微笑む。


「はい」


「また明日」


 中心が揺れる。


『……あした?』


 リリアーナは、少し考えてから言った。


「次の朝、です」


『……つぎの、おはよう』


「そうです」


「次のおはよう」


 中心が、ゆっくり光を弱めていく。


『……あした』


『……おはよう』


『……また』


 その反応を最後に、中心は静かに休んだ。


 レオンは、保護陣を見つめる。


 名簿束は残っている。


 第五領域も流れている。


 余白核も穏やかだ。


 まだ課題は山ほどある。


 民への説明。


 子供たちの回復。


 アリシアの赤い眼。


 名簿の整理。


 感情の紐づけ。


 中心の名前探し。


 これから先の方が、もしかすると長いのかもしれない。


 それでも。


 今日は、中心が“みんな”を覚えた。


 “明日”を覚えた。


 “次のおはよう”を覚えた。


 それだけで、進んでいる。


 レオンは静かに目を伏せた。


 隣でリリアーナも、ようやく少しだけ身体の力を抜いた。


 神殿の奥に、柔らかい静寂が広がる。


 深部の夜ではない。


 外の世界に戻ってきた夜。


 そして。


 次のおはようへ続く夜だった。

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