第127話「虚ろの王の囁き、無能王子は“頼ること”を覚えながら前へ進む」
名前を取り戻した子供たちの影が、黒霧の中で小さく寄り添っていた。
ニル。
リナ。
トマ。
三つの名。
三つの灯り。
それは、旧神殿区第一広場を覆う黒霧の中では、あまりにも頼りない光だった。
けれど。
確かに、そこにあった。
消えかけていたものが戻った。
奪われたものが、ほんの少しだけ返された。
ただそれだけのことが、広場にいる全員の胸へ深く刻まれていた。
第一騎士団の精鋭たちも、誰一人として軽い顔をしていない。
彼らは戦場を知っている。
魔物も斬った。
盗賊も討った。
王都の裏で起きる血生臭い事件も見てきた。
けれど、今目の前で起きているものは、そのどれとも違った。
敵を倒す戦いではない。
救うために剣を振るう戦い。
消滅させれば早い黒霧を、あえて押し返し、守り、名前を取り戻す時間を稼ぐ戦い。
剣を握る手にも、迷いと覚悟が混ざっていた。
「……あんな小さい子たちが」
第一騎士団の一人が、思わず呟いた。
普段なら任務中の私語など許されない。
だが、誰も咎めなかった。
黒霧の中で震える子供たちを見て、何も感じない方がおかしい。
「本当に、あれが……封印されていたものの残滓なのか」
「何十年も、何百年も……?」
「名前を奪われたまま?」
騎士たちの声は小さい。
だが、確実に揺れていた。
王城は正しい。
王命は絶対。
王国を守るためなら、多少の犠牲は仕方ない。
そう信じて剣を握ってきた者たちが、今、目の前の現実に言葉を失っている。
グレイヴは、それを止めなかった。
むしろ、聞かせるべきだと思っていた。
これが王国の影だ。
王城が隠し続けたもの。
誰かが見ないふりをして、封印という名で埋め続けた罪。
それを知らずに王国を守るなど、もう言えない。
グレイヴは剣を握ったまま、静かにレオンを見た。
レオンは、黒霧の前に立っている。
足元には黒蒼雷。
背中には疲労。
それでも、目は逸らしていない。
あの少年は、東の塔で捨てられた。
王城から価値なしと呼ばれた。
だが今。
王城が捨てた名もなきものたちへ、手を伸ばしている。
皮肉なものだ。
そして、だからこそ。
この場の誰よりも、彼が黒蒼雷の継承者に見えた。
◇
レオンの呼吸は、少し重くなっていた。
三人。
たった三人。
そう言われれば、それだけだ。
だが、名前を一つ取り戻すたびに、何かが流れ込んでくる。
林檎の甘さ。
母の手の温度。
赤い紐の鈴。
雨音。
下手な歌。
それらは優しい記憶ばかりではない。
思い出す直前にあった恐怖。
名前を奪われた瞬間の痛み。
暗い場所で自分が消えていく感覚。
それらの欠片も、同時に流れ込んでくる。
レオンは、それを完全には拒めなかった。
名前を返すということは、相手の存在へ触れることだ。
ただ表面だけを撫でることはできない。
その子がいた証を辿るなら、その子が受けた痛みにも触れてしまう。
それが、重い。
胸の奥が、少しずつ沈んでいく。
黒霧とは違う重さ。
救えた喜びと、救いきれない焦りと、流れ込んだ痛み。
全部が混ざり、レオンの中で静かに渦を巻いていた。
「……まだ、いける」
自分に言い聞かせるように呟く。
その瞬間。
「レイさん」
リリアーナの声が、すぐ横から飛んできた。
レオンは反射的に答える。
「俺はここにいる」
「はい」
リリアーナは頷く。
でも、その目は少し怒っていた。
「今の“まだいける”は危ないやつです」
「……そうか?」
「そうです」
即答だった。
「レイさんの“まだいける”は、だいたいもう危ない時です」
「偏見だ」
「実績です」
「……」
反論できなかった。
アルベルトが背後で笑いかけ、すぐに黒霧の触手を炎で焼いた。
「その通りすぎる」
「お前、毎回“まだいける”って言って倒れるタイプだもんな」
「倒れてない」
「空から落ちたろ」
「……あれは落ちただけだ」
「倒れるよりひでぇわ!」
こんな状況で、そんなやり取りをする余裕など本来ない。
だが、それでも言葉があることに意味があった。
虚ろの王は、沈黙を好む。
空白を好む。
名前を削り、記憶を消し、人を一人にする。
ならば。
声を交わすことそのものが、抵抗になる。
リリアーナは、それを本能的に感じていた。
だから、呼ぶ。
怒る。
返事をさせる。
黙らせない。
レオンを一人にしない。
「レイさん」
「何だ」
「次へ行く前に、ちゃんと確認します」
「何を」
「身体の状態です」
「動ける」
「それは聞いてません」
リリアーナは真剣だった。
「痛いところ」
「息苦しさ」
「黒霧の声がどのくらい聞こえているか」
「流れ込んできた記憶で気持ち悪くなっていないか」
「全部、言ってください」
レオンは少し目を見開く。
そんな細かく問われるとは思っていなかった。
「……戦闘中だぞ」
「だからです」
リリアーナは引かない。
「戦闘中だから、倒れる前に確認するんです」
「……」
「言ってください」
レオンは数秒黙った。
いつもの癖で、大丈夫だと言いかける。
だが、リリアーナの目がそれを許さなかった。
まっすぐで。
怖がっていて。
それでも、逃げていない目。
その目を見ていると、嘘をつきづらい。
「……右腕が痛い」
「はい」
「黒霧の声は、近い」
「はい」
「子供たちの記憶が少し流れてきてる」
「気持ち悪いですか」
「気持ち悪いというより、重い」
「はい」
「でも、意識はある」
「名前も分かる」
リリアーナは頷いた。
「分かりました」
「続けてもいいです」
「許可制なのか」
「今だけそうです」
アルベルトが吹き出す。
「完全に管理されてるじゃねぇか」
エリシアが術式盤を操作しながら微笑む。
「良い管理ですわ」
「王城の管理とは大違いです」
「確かにな」
アルベルトは、黒霧を焼きながら笑う。
「向こうは檻に入れる管理」
「リリアーナは帰ってこさせる管理だな」
リリアーナが一瞬だけ顔を赤くする。
「そ、そういう言い方は……!」
だがすぐに表情を戻す。
今は照れている場合ではない。
レオンは、そのやり取りを聞きながら、少しだけ胸の奥が軽くなるのを感じた。
管理。
嫌いな言葉だった。
王城が使うそれは、閉じ込めるためのものだったから。
でも、今のリリアーナの確認は違う。
彼を縛るためではなく。
戻ってくるための手綱。
そんなものがあるのだと、レオンは初めて知った。
◇
エリシアの術式盤が、淡く光った。
「人格反応、次の候補を捕捉しました」
全員の空気が切り替わる。
軽口は消える。
視線が黒霧の奥へ向く。
「どこだ」
クラウスが問う。
「噴水跡の左側」
「神霊像の足元です」
「反応は弱いですが、黒霧に飲まれ切っていません」
グレイヴが即座に命じる。
「道を開ける」
「クラウス、右」
「アルベルト、霧の膨張を焼け」
「エリシア嬢、保護結界の準備」
「レオン、無理に踏み込むな」
「リリアーナ嬢、呼び戻しを頼む」
短い命令。
だが的確だった。
全員が同時に動く。
クラウスの剣が右から伸びた黒霧を切り払い、アルベルトの紅炎が噴水跡から這い出す黒い筋を焼く。
エリシアが風の保護結界を展開し、黒霧の流れを薄くする。
グレイヴは、レオンの正面に立ちはだかる大きな黒い塊を一閃で割った。
道が開く。
その先に、小さな影がいた。
今度は、少年でも少女でも分からない。
黒霧の塊に半分沈み、膝を抱えている。
声は聞こえない。
ただ、肩が震えていた。
レオンはゆっくり近づく。
焦らない。
一人ずつ。
リリアーナの言葉を思い出す。
「聞こえるか」
影は反応しない。
「俺はレオン」
一拍。
「レイでもいい」
リリアーナが少しだけ目を見開く。
レオンが、自分から名乗った。
ほんの小さなことかもしれない。
けれど、今この場所では大きな意味を持つ。
名を告げる。
名告げの広場で。
レオンは、自分の名前を出した。
セレスティアが静かに目を細める。
「……いいわ」
小さな声だった。
レオンは続ける。
「お前の名前を探しに来た」
影が、かすかに動いた。
『……さがす』
声は小さい。
かなり遠い。
「そうだ」
「無理に全部思い出さなくていい」
「痛いなら、そこは見なくていい」
「でも」
一拍。
「戻れる場所を探そう」
影が震える。
『もどる……』
「何か覚えてるか」
『……』
「音」
「匂い」
「温度」
「何でもいい」
長い沈黙。
黒霧が周囲で蠢く。
虚ろの王の声が、低く囁く。
『戻る場所などない』
『名は鎖』
『記憶は痛み』
『全て捨てよ』
レオンは歯を食いしばる。
黒蒼雷を広げる。
声を押し返す。
影は、膝を抱えたまま呟いた。
『……ほん』
エリシアが反応する。
「本?」
『かみ』
『におい』
『ふるい』
『ぺら……ぺら……』
レオンは少し目を細める。
「本が好きだったのか」
『わかんない』
『でも』
『めくる、おと』
『すき』
その言葉に、レオンの胸が小さく揺れた。
本。
古い紙の匂い。
ページをめくる音。
東の塔で、自分も本ばかり読んでいた。
外へ出られなかったから。
誰も話し相手がいなかったから。
本だけが、外の世界へ繋がる窓だった。
「……俺も」
ぽつりと声が漏れた。
影が、わずかに顔を上げる。
『……?』
「俺も、本を読んでた」
「古い本」
「雷の本」
「神霊伝承」
「外に行けなかったから」
リリアーナがレオンを見る。
その声は、いつもより少し柔らかかった。
レオンは、影へ向かって続ける。
「ページをめくる音は、嫌いじゃなかった」
「外の世界が、少しだけ近くなる気がした」
影が震える。
『そと……』
「外へ行きたかったのか」
『……』
沈黙。
黒霧が揺れる。
『まど』
「窓?」
『ちいさい』
『そと』
『ひかり』
『ほん』
『よんだら』
『いつか』
一拍。
『いけるって』
レオンの喉が詰まった。
それは、自分の記憶とあまりにも重なっていた。
小さな窓。
外の光。
本を読めば、いつか外へ行ける気がした。
そんな子供じみた希望。
東の塔の自分も、確かに持っていた。
「……そうか」
レオンは静かに言う。
「外へ行きたかったんだな」
『うん……』
「本が好きだった」
『うん』
「ページの音が好きだった」
『うん』
「窓の外へ、行きたかった」
『うん……』
黒蒼雷が、影へ優しく触れる。
その瞬間、影の輪郭が少し安定する。
エリシアが声を上げる。
「人格反応、上昇!」
「記憶連結が始まっています!」
だが同時に、黒霧が激しく蠢いた。
『外などない』
『窓などない』
『光などない』
『本は燃えた』
『名は消えた』
虚ろの声が、今までより鋭くなる。
影が苦しみ始める。
『もえた』
『あつい』
『いや』
『ほん』
『やめて』
レオンの胸が痛む。
この子の記憶は、そこへ繋がってしまったのだ。
好きだった本。
窓。
外への憧れ。
その先に、焼かれた記憶がある。
リリアーナが一歩踏み出しかける。
だが、エリシアが止める。
「待ってください!」
「黒霧が濃いです!」
リリアーナは歯を食いしばる。
行きたい。
支えたい。
でも、今踏み込めば足手まといになる。
だから、声を出す。
「レイさん!」
レオンは、苦しむ影を見ながら答える。
「俺はここにいる」
「その子にも、言ってあげてください!」
レオンが一瞬だけ振り向く。
リリアーナは叫ぶ。
「燃えた記憶だけじゃないって!」
「その前に、好きだった時間があったって!」
レオンは目を見開いた。
その言葉が、胸に刺さる。
痛みの記憶に飲まれると、その前にあった温度まで消えてしまう。
でも、違う。
燃えたからといって、本を好きだった時間まで消えるわけじゃない。
閉じ込められたからといって、外を望んだ気持ちが嘘になるわけじゃない。
レオンは、影へ向き直った。
「聞け」
『いや』
『あつい』
『もえた』
「燃えたかもしれない」
『……っ』
「でも、お前が本を好きだった時間は消えてない」
黒蒼雷が静かに強くなる。
「ページをめくる音」
「紙の匂い」
「窓の光」
「外へ行きたいって思ったこと」
一拍。
「それは、お前のものだ」
影が震える。
『ぼくの……』
「ああ」
「奪わせるな」
虚ろの声が怒る。
『名は不要』
『希望は苦痛』
『望めば失う』
『なら望むな』
レオンは低く返した。
「望まなきゃ、生きてる意味がない」
その言葉は、自分にも向けていた。
東の塔で、望むことをやめようとした。
でも今。
望んでしまった。
帰りたい。
守りたい。
失いたくない。
そのせいで怖い。
でも、それでも。
空っぽよりずっといい。
「お前は外へ行きたかった」
「本が好きだった」
「それは、消えてない」
「思い出せ」
影が震える。
『ぼく……』
『ほん……』
『そと……』
『まど……』
黒霧が濃くなる。
アルベルトが叫ぶ。
「来るぞ!」
黒い触手が四方から伸びる。
今度は速い。
ニル、リナ、トマ。
そして今の影。
まとめて呑み込もうとしている。
「させませんわ!」
エリシアが風結界を重ねる。
だが、黒霧の圧が強い。
結界が軋む。
「くっ……!」
「エリシア!」
「平気ですわ!」
「平気な顔じゃねぇぞ!」
「あなたこそ、炎の制御が荒いです!」
「分かってる!」
アルベルトが炎を絞る。
触手の外側だけを焼く。
クラウスが踏み込み、黒霧を斬って流れを変える。
グレイヴが最後に剣を振るい、広場全体へ迫る大きな霧の波を断ち割った。
轟音。
黒霧が裂ける。
その隙に、リリアーナが叫ぶ。
「レイさん!」
レオンは答える。
「俺はここにいる!」
今度は、声が強かった。
リリアーナの目が揺れる。
レオンは影へ手を伸ばす。
「名前を思い出せ!」
影が震える。
『……ル』
『ル……』
黒霧が圧を増す。
『消えろ』
『名など捨てろ』
『空白へ戻れ』
「戻るな!」
レオンの黒蒼雷が、強く光る。
「お前は外へ行きたかった!」
「本が好きだった!」
「窓の光を覚えてる!」
「なら、空っぽじゃない!」
影が叫ぶ。
『ルオ……!』
その瞬間。
黒霧が薄れた。
四人目。
ルオ。
名前が戻る。
小さな少年の顔が、一瞬だけ浮かんだ。
涙に濡れた顔。
でも、どこか遠くの光を見ているような目。
『……外』
ルオは、小さく呟いた。
『見たかった……』
レオンは静かに言う。
「見に行け」
『……え』
「今すぐじゃなくてもいい」
「でも」
一拍。
「お前の名前は戻った」
ルオの影が震える。
そして、ニルたちの元へゆっくり歩いていく。
四つの小さな灯り。
黒霧の中で寄り添う。
◇
レオンの身体が、ぐらりと揺れた。
「レイさん!」
リリアーナが駆け寄る。
今度は止められなかった。
黒霧が薄い一瞬を縫って、彼女はレオンの腕を支える。
「大丈夫ですか!?」
「……大丈夫」
「嘘です」
「少し、きつい」
「少しじゃないです!」
リリアーナの声が震える。
レオンの顔色が悪い。
額に汗。
呼吸が浅い。
黒蒼雷はまだ消えていないが、細かく揺れている。
明らかに負荷が大きい。
リリアーナは、唇を噛んだ。
「休みましょう」
「まだ――」
「一人ずつです」
リリアーナが遮る。
「そして、一人救うたびにレイさんも戻る」
「そうしないと駄目です」
「……」
「約束です」
レオンは黒霧の子供たちを見る。
まだいる。
助けを求めている。
それでも。
自分が倒れれば終わる。
それを、ようやく少しだけ理解できた。
「……分かった」
リリアーナが安心したように息を吐く。
「はい」
だが、その瞬間。
黒い光柱が、今までとは違う脈動を放った。
ゴォォォォォォォォンッ!!
広場全体が激しく揺れる。
黒霧の奥。
噴水跡のさらに向こう。
崩れた神殿の扉が、ゆっくり開き始めた。
ギギ……。
ギギギギ……。
重い石扉の音。
その奥から、赤い光が漏れる。
セレスティアの顔色が変わった。
「……まずいわ」
グレイヴが剣を構える。
「何だ」
セレスティアは、低く言った。
「虚ろの王の欠片が」
一拍。
「こちらへ、意識を向けた」
その瞬間。
黒霧の奥から、巨大な赤い眼が開いた。




