後編
その日は、不意にやってきた。
「王国に栄光あれ! 我が軍は敵国を制圧した! 戦争は終わったぞ!」
幕舎の入り口を跳ね上げて、一人の騎士が飛び込んでくる。あの紋様は――聖騎士だろうか。白銀の鎧は汚れ一つなく、眩いほどに輝いていた。
聖騎士は泥にまみれた負傷兵たちを一瞥し、事務的な声音で告げる。
「この幕舎もじきに解体される。動ける者は自らの足で、動けぬ者は家族の迎えを待つといい。……ご苦労だったな、王国の兵士諸君。君たちの働きを誇りに思う」
ざわめきが広がる中、勝利の報を届けた聖騎士はぐるりと周囲を見渡した。
「……テレーゼ・ヴェスティーア様がここにいると聞いたのだが、何処におられるか」
「テレーゼは私です。何かご用でしょうか」
一歩進み出たテレーゼに、聖騎士は深々と頭を下げた。たまに抜け殻を置きに来る輸送兵の慇懃無礼な態度とは違う、確かな敬意を持つ者の仕草だった。
「セーニャ様からご伝言を預かっております」
「セーニャから……? あの子は、元気にしていますか? 辛い目に遭ってはいませんか?」
顔色を変えたテレーゼが聖騎士に詰め寄る。
聖騎士はテレーゼを落ち着かせるように、ゆっくりと口を開いた。
「『もう貴女の役目は終わったのだから、出しゃばるような真似は差し控えてほしい』と、仰せです。そして……二度と王都にも戻らぬように、と」
「……」
冷たい言葉に、聖騎士を見上げていたテレーゼは、「そうですか……」と力なく呟いた。
役目を果たしたのか、聖騎士はどこか焦った様子で足早に去っていく。
きっと王都では華やかな宴の準備でも始まっているのだろう。ここに残されたのは、重苦しい沈黙だけだった。
「……何が家族の迎えを待つといい、だ。実家はもう焼かれちまったよ」
「こんな身体でこの先どうしろってんだよなぁ……」
デックたちが己の身体を苦々しく眺め、乾いた声で悪態をついた。
俺も同じだ。戦果ひとつ挙げられず、まともに歩くことさえままならない。
これから我が家に残るのは、心を病んだ父と、身体も満足に動かせぬ息子。短い栄華に縋った我が家ももうこれで終わりなのかと。そう考えると、笑うしかない。
この先の身の振り方はどうするべきか。まとまらない思考を打ち消すように遠く王都の方角から祝砲が響き、抜け殻たちが怯えたように身を丸める。……彼らよりはまだましな状況なのかもしれないと、そんな事を考えてしまう自分が嫌になる。
祝砲の残響の中、無言で立ち尽くしていたテレーゼが、幕舎の中央へと静かに歩み出た。
そしておもむろに彼女が両手を組むと――これまでに感じたことのない、地の底から湧き上がるような力が幕舎内を震わせた。
「……私の独善ゆえに、あなたたちには辛い思いをさせてしまいましたね。本当にごめんなさい。ここも、もう解体されてしまうとのこと。せめて最後に、私からの餞を受け取ってくださいな」
そう告げて彼女が大きく両手を広げると、その手のひらからこれまでに目にしたことのない純白の光が溢れ出した。
ささやかな癒しの象徴であった、あの微かな灯火とは比べものにならないほどの眩い光。その光が幕舎全体を包み込み、天幕を突き抜けて天へと昇っていく――
「……あ、ああ……っ!」
隣のデックが絶叫に近い声を上げた。欠損していた腕が光の粒子に包まれ、まるで時を巻き戻すかのように、骨が、肉が、皮膚が形を取り戻していく。
俺の右脚も熱を帯び、長く引き攣れていた筋肉がほどけていくのが分かった。砕けたはずの骨も、何事もなかったかのように整っていく。
誰も彼もがわけも分からずに自分の体を凝視している。混乱のなかで、世話をしてくれていた修道女たちが次々とその場に跪いた。
「ああ、テレーゼ様……」
「衰えなきそのお力、お見事にございます……」
彼女たちは涙を流しながら光の中心にいるテレーゼを讃える。
その光景を見て悟った。――俺たちは、謀られていたのだと。
「……あんた、これほどの力を隠していたのか……!」
俺は立ち上がり、彼女に詰め寄る。久しぶりに床を踏みしめた足には一切の痛みがない。その事実が、また憎らしかった。
「何故隠した! 王国を欺き、俺たちをここで飼い殺して何がしたかったんだ!」
光の中心に立つテレーゼは、すぐには答えなかった。
皆の視線が集まる中で、ただゆっくりと瞬きをひとつ落とし、俺を見つめ返す。
「……だって私が治してしまえば、あなたたちはまた戦場という地獄へ戻っていくのでしょう?」
こともなげに告げたようで、その表情にいつもの微笑はない。掠れた声で紡がれた問いかけに、俺は言葉を詰まらせた。
「それは……当然だ。俺たちは兵士だ。国のために、勝利のために戦うのは当然だろう」
「そうですね。私も、国のために癒し続けました。……三十年前、ただ目の前の人を救いたい一心で、際限なく力を振るったのです。それが使命だからと、疑うこともなく」
そう、それが大聖女テレーゼ・ヴェスティーアの功績だった。敗戦の淵に立たされていた王国は、ひとりの若き聖女の奇跡によって兵を失わずに済み、そのまま押し返したのだ。
「何百、何千、何万の人々を癒しました。……悍ましいことに、私はその奇跡を誇りに思っていたのです。自分は特別な存在なのだと、どこかで愉悦すら覚えていました。……けれどその奇跡は、兵士たちに死ぬことすら許さなかった。戦火は長引き、ここにいるような心を壊した方々を……大勢、生み出してしまったのです」
光はゆるやかに収束していく。
粒子の中に立っていたのは、奇跡の象徴ではない。
三十年ものあいだ後悔の念を背負い続けた、ひとりの女だった。
「戦争が終わり、戦場に捨て置かれた人々を目にした時、衝撃を受けました。私は……自分が癒した人の顔も名前も、誰一人として覚えていなかったのです……」
ぽつりと零れ落ちた懺悔のような告白に、誰も、何も言葉を返せなかった。
彼女はゆるやかに周囲を見渡し、溢れていた光を収めた。兵士たちは恐る恐る己の腕や脚を確かめて、傷が完全に癒えたと理解するや破顔する。
それでもなお、幕舎の端では「抜け殻」と呼ばれた者たちが変わらず小さく震えている。傷はない。傷はもう、どこにもないはずなのに――
「覚えておいてください。聖女と呼ばれる者たちが治せるのは肉体だけです。心を病んだ方々をすぐに癒す術はこの世には存在しません。彼らに必要なのは……静かな時間と、根気強い理解だけなのです」
言い終えると、彼女は小さく息を吐き、いつもの柔らかな微笑を浮かべて静かに頭を下げた。
「さぁ、お帰りなさい。あなたたちがいるべき場所へ。できるならば、少しでも戦火とは縁遠い地へ。そしてもう二度と私に顔を見せに来ないでください。こんなことはもう……たくさんです」
*
それから傷が癒えた兵士たちは数日のうちに幕舎を後にした。
家族の迎えとともに帰る者。奇跡的に治った自らの足で故郷へ歩き出す者。一人、また一人とテレーゼの前に立ち、深く頭を下げ、あるいは黙って手を握って去っていった。
「シスター。あんたのスープの味、忘れないぜ」
「ええ。どうかお元気で」
心を病んだままの兵士たちは、古くからテレーゼに付き従ってきた修道女たちに付き添われ、郊外の静かな修道院へと移されていった。そこで長い年月をかけて、ゆっくりと心の傷を癒していくのだという。
「……旦那。俺も行くよ」
デックが再生した右腕を誇らしげに掲げ、どこか照れくさそうに振る。
「田舎に帰って畑でも耕すさ。人殺しの道具にするには、あまりにも綺麗に治してもらったもんだからな」
豪快に笑い、彼は振り返ることなく幕舎を後にした。
残されたのは、解体を待つ天幕と、俺と、荷をまとめ終えたテレーゼだけだった。
「コンラート様も、お家に戻られるのですか?」
「その、つもりでしたが……」
焦がれていたはずの聖騎士の称号も、家の再興も、今の俺には遠い幻のように思えた。
俺の足を治したのは、確かに彼女の聖女としての力だ。
でも頑なだった俺の心を解いたのは、安らかな時間と、毎日差し出された温かな食事と、穢れを厭わずに握ってくれたあの手の温もりだった。
「あなたこそ、どこへ向かわれるのですか」
「……戦火の届かぬ土地に。お恥ずかしい話ですが、勘当された身ですから帰る家もないんですよ。……姪にも、顔を見せるなと言われてしまいましたから」
寂しそうな言葉とは裏腹に、その微笑はどこか晴れ晴れとしたものだった。
決意を固めた俺は、彼女の前に膝をついて騎士の礼を取る。
「これまでの非礼の数々、心よりお詫び申し上げます。厚顔と謗られても文句は言えませんが……俺を、傍に置いてはくれませんか」
かつて、救世の娘と称された大聖女テレーゼ・ヴェスティーア。
その名は色褪せようとも、第七幕舎で示された力は奇跡と呼ぶに相応しいものだった。これといった口止めもしなかったのだ。噂にならぬはずがない。いずれ王国を越え、他国の耳にも届くだろう。
そうなれば――
誰かが、彼女を再び戦場へ引き戻そうとするかもしれない。
「傍に、ですか」
「護衛が必要だ。一人の騎士として、あなたに剣を捧げたい」
聖騎士の道を諦めるなんて考えたこともなかったのに。
俺の命を繋ぎ、凝り固まった価値観ごと救い上げてくれたこの人に人生を捧げるのは、ごく当然のことのように思えた。
テレーゼは俺を見つめ、静かに目を細める。やがて、ゆるやかに首を横に振った。
「お気持ちは嬉しいですが……あなたには未来があるはずです。私のようなただの修道女に構う必要はありません」
断られることは、想定の範囲内だ。だからその時は大人しく引き下がろうと決めていたはずなのに――考えるより先に言葉が勝手に口をついて出た。
「なにも俺にできるのは護衛だけじゃない。……俺なら、あなたの代わりに処方箋を見ることができますよ」
その言葉に、テレーゼは目を大きく開いて黙り込んだ。
……これは、失敗したかもしれない。
どこか可笑しなことを口にしてしまった気がして、遅れて耳が熱くなる。
果たしてどう取り繕うべきか。言葉を探していると、彼女は肩を震わせ、やがて堪えきれないと言った様子で喉を鳴らして笑いだした。
「困ったわね。それは……強烈な誘い文句だわ」
指で涙を拭うその笑みは、これまで見たどの微笑とも違うもの。
常に取り澄ましていた彼女の素顔が、ほんの一瞬、垣間見えたような気がした。
「……薬の分量を間違えずに読んでくださるなら、確かに心強いですね」
逡巡するように頬に手を当てていた彼女が、差し出した俺の手にそっと自分の手を重ねる。
「それならばお言葉に甘えましょうか。小さな字を読むのは、今の私にとって一番の難題ですから」
「――ええ! 剣が不要だというのならば、目としてお使いください。あなたが薬を量り、俺が文字を読む。……いかがですか? もしかしたら、剣を振るうよりもよほど向いているかもしれません」
「……酔狂な騎士様だこと」
「酔狂な聖女様に言われたくはありませんね」
視線が合い、どちらともなく微笑が漏れる。
「……家には戻らなくてよろしいのですか」
「文は出します。家のことは伯父に任せればいい。慰労金が続く限り、父も追い出されることはないでしょう」
「後悔は?」
「ありません。……不思議なものですね。あんなにもこの足を治して欲しかったのに。いざ治していただいたら、向かいたい道が変わっていました」
家を再興するという夢を、こうもあっさりと手放す自分を母はどう思うだろうか。
父は、不甲斐ないと嘆くだろうか。
答えは分からない。
それでも、新しい道を選んだ俺を喜んでくれるような気がした。
「だから、何も気にしないでください。あなたの思うままに、行きたい場所へ」
「そうねぇ……暖かいところがいいわ」
「それなら西の温泉地にでも。どこかで馬も調達しましょう」
彼女がどこか嬉しそうに頷く。
俺は内心で胸を撫でおろして、彼女の荷を背負った。
第七幕舎が、ゆっくりと遠ざかっていく。
祝砲の残響を背に。
そこは戦線復帰率ゼロパーセントの幕舎。
そして戦死者もいない奇跡の幕舎だったと、後に記録されることになったという。
――一方で、大聖女と呼ばれた娘は、最前線にほど近い第一治療院に居た。




