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祖母のお話

ちょっと真面目に

祖母はとても愛情深く強い人でした。


大正生まれ、先の大戦を経験し、シベリア抑留から復員した祖父と結婚、男女の子供に恵まれました。


私の古い記憶は3歳位なんですが、おんぶ紐を祖母の所に持って行っておんぶを強請っていたことを覚えています。

祖母の背で見た景色は懐かしく、断片的な記憶ですがたまに会う祖母にべったりでした。


厳格、ずるを許さない、弱音を吐かない、孫には甘い、そんな人でした。


母の兄は、姪の私から見ても破天荒な人でして。

友達が伯父のような人と付き合っていたら別れた方がいい、と言うくらいには色々難がありました。

何故この両親からこんな子が、という典型です。

確か祖父が包丁持って町中追いかけまわしたと聞いたことも……昭和のオヤジあるあるですよね。


祖母の苦労は幼い頃からだと思っています。

兄弟姉妹が多く、長女だった祖母は下の子達の面倒をよく見ていたと聞いています。

大正~昭和は兄弟姉妹が多いのも珍しくなかったようで、末っ子とは14、5歳位離れていました。

片手じゃ足りない妹弟がいる中で、先の大戦が始まったようです。


当時、若かった祖母は遠くの工場に女工?として行くことが決まっていたようです。

祖母の友達の一人に実家が鋳型の工場を経営している娘さんがいたようで、祖母の配属を自分のところの工場にして貰うように頼んで貰ったと聞いています。

休みの日には、乾麺の蕎麦を水で戻して、饅頭を作って学徒動員で連れていかれた弟を訪ねていたそうです。

いつ何が起こるか、と怯えながら電車に乗って向かっていたと話していました。

幸い、祖母の住む近辺は空襲にはあわなかったようですが、戦闘機が頭上を飛ぶ恐怖は恐らく彼女の中にずっと残っていたと思います。


悲惨なニュースが流れる度に、「戦争は嫌だよ」と呟いていたことを思い出します。


大事な着物と引き換えた闇米を持って電車に乗り、警察に見つかり没収されたと悔しそうにしていました。

その米どこいったんだとも。確かに。

そして終戦後、親族の紹介で見合いをしたらしいですが、お断りしたと。

理由は「いい男じゃなかった」からだそうです。

その後祖父と結婚しているのですが、確かに重機の前にいる祖父はいい男でした。


「おじいちゃんいい男だね」と言えば嬉しそうに「そうだろ?」と言っていました。

それこそ、90歳を過ぎた時ですら。


祖父は定年後すぐ亡くなっています。50代でした。

私は、と言うよりも私と姉は動いている祖父を知りません。

ただ、祖母が語る姿で、彼の人生を想像していただけでした。


弟を特攻隊にとられ、自分自身は戦車隊として戦地に赴き、シベリアに抑留され、復員したと思ったら暫く特高警察(戦後だから公安?)に見張られ、どんな思いだったのでしょうか。

ちゃんと会社に勤めて家まで建てたので凄い祖父さんだと思っています。


結婚し、子供が生まれ、定年後にのんびりしようとした矢先、彼は胃癌で倒れたと聞いています。

手術をした時にはもうどうしようもなく、開いただけで閉じるしかなかったと。


当時、昭和も終わりに向かう頃、癌は不治の病だと、宣告された日の記憶がないと祖母がポツリと言いました。

出来ることは全てやろうと、一日でも長生きして欲しいと願った気持ちが愛でなければ何なのかと。

大正の女性です。愛とは簡単には言わないでしょう。

でも、行動が全てだったのだろうと思います。


祖父は、祖母が困らないようにしてくれていたのですが、破天荒な息子がいるということはそういうことなんです。

記憶の中の祖母はいつも働いていました。

ビルの清掃、お弁当屋さん、70歳を過ぎてからも。


数百円を切り詰めて、それでもランドセルを買ってくれたのです。

あんまり学校行かなかったので綺麗なままでしたが。

そのランドセルは伯父の元奥さんの孫に持って行かれました。祖母に全て押し付けておいて。

血縁関係のないまたいとこですが、今はどうなっているのか……。

因果応報はあると思っています。


閑話休題


家を売らずに済んだのは不幸中の幸いでしょう。

私は何も知らず、祖母に甘えていただけでした。

注意深く見れば、気付く要素はあったかもしれないのに。

慎ましい暮らしが、祖母にとっても自分達家族にとっても当たり前だと思っていたのです。


私の実家はぶっちゃけお金なかったです。

田舎のいいところは、食べるものに困らないことです。

無人の野菜販売所で野菜が格安で買えました。

漁師町だったのでお魚も安いものがありました。

自分も小学生の頃は漁師の家の子と海に行って岩場の貝をとって食べていました。

母の友人が服のお下がりをくれました。

ないのは現金だけだったんです。

それでも、田舎の大らかさに救われていました。


給食費を滞納して、学校から連絡が来る度に謝っていた父は楽天家だったので、母がその分苦労していたと思います。

祖母を援助する余裕は殆どなかったのです。

それでも、祖母の家に行く度に母は現金を少し置いていたようです。

5000円、1万円が、どれだけ祖母の助けになっていたのか。


社会人になった姉がチキンカツを2枚買って祖母を訪ねた日、「1枚全部食べていいの?本当に?」と言ったと。

そういうものを我慢して、生活をしていたのでしょう。


一緒に暮らそう、と言っても家を離れたくないと、80歳を過ぎても一人暮らしをしていました。

ただ、どうしても衰えはくるものです。


携帯電話を姉が契約し、プレゼントしてからは電話をかけることも受けることもできていました。

ある日の電話で、「お茶碗がないの。お前のとこにある白いお茶碗持って来て」と。


その後に祖母の元を訪れると、そんな電話はしていない、と言われました。

認めることは辛かったですが、認知症の始まりだったのだと思います。

足腰も弱り、ある冬の朝、転んで骨折した祖母はそのまま入院を余儀なくされました。


認知症が進行するかもしれないという恐怖もありました。

祖母は真っ直ぐな人でしたが、後年は冗談が通じる程度には柔らかくなり口が悪くなっていました。


祖母を慰める妹(大叔母)に、「お前に何がわかるんだよ!」と怒鳴ることも、面会時間1時からで1時ちょうどに着いたのに「来るのが遅い!」と理不尽に怒ることもありました。

姉というのは妹には理不尽なものです(こうがさんも妹)


退院をしても一人暮らしはできないとなった時、姉は仕事を辞めてさっさと祖母の家に引っ越しました。

彼女の行動力は凄まじいものです。


時にぶつかり、時に落ち込み、姉と祖母はリズムを掴んで生活していました。

平日休みで週6勤務の仕事をしていた、フリーターだった私も週に1度は祖母を訪ねていました。

お給料が10万そこそこで、よく通えていたなと今なら思います。

そこから保険を払い車の維持費を出し……。

祖母の家に行くときに車を使おうとすると祖母と両親と姉と友達から止められてました。

電車で行け、と。片道1時間だったのにナビがなくてアウトだったようです。

そして私が車で向かうと言うと祖母が仏壇の前から動かないから、と。

解せぬ。


免許を取る時に祖母に言われました。


「お前は運動神経がないからねぇ」


心配でたまらない、と。悪いじゃなくてないとはこれ如何に。

毎週祖母の元に通い、デパ地下で買うお刺身やとんかつ、クッキーやプリン、羊羹を祖母は楽しみにしてくれていました。

私は自分で考えることが苦手です。

だから、姉に言われたことだけやっていました。

それが自分にできる誠実だからでした。


母も泊まり掛けで行って姉とよく喧嘩してましたが、祖母が生きていればこそでした。

姉の生活は日常を積み重ねていくものです。

母はイレギュラーな存在なのです。

けれど、母は祖母のために何かせずにはいられないので、娘の生活を良かれと思って侵食するのです。

どうにか折り合いをつけたのは姉でしょう。


祖母と二人の生活は、大変だったけれど楽しんでいるように見えました。


私もそんな祖母を受け入れ、毎週の訪問を楽しみにしていました。


「薬飲もうか。お薬」

「何?聞こえない」

「クッキー買ってきたよ」

「食べる」

「聞こえてんじゃん!」


何てやり取りは毎週恒例でした。

何なら「それ昨日の」って言われたこともあります。


「昨日があってもダメなの!言うなら明日の!でもこれは今日のだから飲んで!」

と薬を出すと、祖母は渋々飲んでいました。そして必ず言うのです。

「鬼孫っ」


理不尽…!

父が行くと説得されて大人しく薬飲むんですよね。

中とろとかケーキがご褒美に待っていたので。


祖母は私の父が好きです。

父もたいがい鈍いので、苦労していると知らなかったでしょう。

けれど、近くの商店がなくなってしまった祖母を車で買い物に連れ出して、生活用品を買う気遣いはありました。

車で行けば重たい調味料も灯油も買えるのです。

それを婿さんだから当然と思わない姿勢は、見習うべきだと自分の目標にもなっています。


母が車で買い物に連れ出そうとしても億劫がっていたのに、父が「お義母さんストーブ買いに行きましょう」と言うといそいそと支度していました。

母は「頭きちゃう」と怒っていましたが、それがコミュニケーションの取り方でした。


冬になると祖母を見送った日を思い出すのです。

祖母は私の人生の、かなりの部分を占めているのでいつか書きたいなと思っていました。

真面目で口が悪くてユーモアのある人でした。

小話としてまたどこかで書きたいなと思います。

薄れていく記憶を残しておきたいのです。


病院で、細くなっていく呼吸音が、握り返してくれない手が、あんなに辛いとは思ってもいませんでした。

大動脈剝離、とても痛かったと思います。

呼吸してくれているだけでいい、とその時思った私は、間違いなく祖母にとっては鬼孫かもしれません。

それでも私の到着を待ってくれていたかのように、母と姉と私、そして大叔母が見守る中で、到着後に息を引き取りました。体感としては数分。もっと一緒にいたかった。


あの日、病院から帰宅する途中の痛いほどに冷たい空気に浮かぶ白い息が、生の実感としてあったのです。


火葬した日は、とても寒くて、関東では珍しく雪が降っていました。

小さな骨壺は重いのに、とても軽く思ったことを覚えています。


苦労が多い人生だったと思います。

心配もかけました。


それでも、入院直前に、暖かい部屋で、お腹一杯食べて、「今が一番幸せ」と言った言葉を信じています。


喧嘩も、仲直りも、孝行も、生きていればこそと示してくれたのも祖母でした。

祖母が人生をかけて教えてくれた教訓だと思っています。

そして、そんな祖母の孫であることをとても誇りに思っています。

90代だったので大往生かもしれないですが、やはりいなくなるのは寂しいものです。

未だに、過去形では書けないこともあるのです。

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