風花の章:風になるはずだった
風が吹いていた。秋の風は、冷たくて、寂しくて、まるで誰かの忘れた涙のようだった。
私は祠の奥で、静かに消える時を待っていた。風になるはずだった。誰にも思い出されず、誰にも触れられず、ただ風として、この土地に溶けていくはずだった。
それが、私に与えられた最後の役目だった。
五年前、私は蓮に出会った。彼は壊れかけた心を抱えていて、誰にも言葉を向けられずにいた。私は風のように彼に寄り添った。何も求めず、ただ彼のそばにいた。
そして、別れの時——私は言った。
「赤いトンボが飛んだら、ここに来ないで」
それは、拒絶ではなかった。祈りだった。私が風になるための、静かな願いだった。
けれど、私は知っていた。蓮は来てしまう。彼は優しくて、まっすぐで、そして少しだけ孤独だった。私との時間を、彼は生きるための支えにしていた。
だからこそ、私は恐れていた。
祠の扉が軋む音がしたとき、私は風になりかけていた。あと少しで、すべてが終わるはずだった。
でも、蓮の姿を見た瞬間、私の存在は揺らいだ。風にも、人にもなれない。記憶にも残れず、世界にも残れない。私は、ただ崩れていくしかなかった。
「蓮…来てしまったのね」
彼は言った。「君に会いたかった。ただ、それだけで…」
その言葉が、いちばん痛かった。
私は彼に会いたかった。ずっと、ずっと。でも、会えば終わってしまう。私の願いも、彼の記憶も、すべてが壊れてしまう。
私は微笑んだ。最後の力を振り絞って。
「ありがとう。私を思い出してくれて。でも、もう、忘れて」
そして、私は祠の風とともに崩れた。
蓮の記憶からも、私の名前は消えた。顔も、声も、すべてが抜け落ちた。
ただ、秋になると、赤いトンボが空を舞う。
そのとき、風が吹く。
私は風になれなかった。けれど、風の中に、ほんの少しだけ、私の声が残っているかもしれない。
それは、誰にも届かない声。
誰にも思い出されない願い。
それでも、私は——風になりたかった。