風の境界
風花は、そこにいた。
祠の奥、薄暗い空気の中で、彼女は五年前と変わらぬ姿で立っていた。けれど、何かが違っていた。彼女の輪郭は、風に溶けかけているように揺らいでいた。まるで、存在そのものが崩れかけているようだった。
「蓮…来てしまったのね」
その声は、風のように儚く、痛みを含んでいた。
僕は言葉を探した。けれど、何も出てこなかった。ただ、胸の奥が軋むように痛んだ。
「君に会いたかった。赤いトンボを見て、君の言葉を思い出して…でも、続きを忘れてしまっていた」
風花は目を伏せた。風が、彼女の髪を静かに揺らしていた。
「“赤いトンボが飛んだら、ここに来ないで”——それが、私の最後の願いだったの」
僕は息を呑んだ。彼女の言葉が、祠の空気を震わせる。
「私は風になるはずだった。誰にも思い出されず、誰にも触れられず、ただ風として、この土地に還るはずだった。でも、あなたが来たことで、それができなくなった」
僕は、彼女を救いたかった。いや、救われたかったのかもしれない。彼女に会うことで、あの頃の自分を取り戻したかった。でも、それが彼女を壊してしまった。
「君を忘れたくなかった。君を思い出すことが、僕の救いだった」
風花は微笑んだ。その微笑みは、どこか安堵にも似ていた。けれど、同時に、深い悲しみを湛えていた。
「それが、私の終わりなの」
彼女の姿が、風とともに揺らぎ始める。祠の空気が震え、世界が静かに崩れていく。
僕は手を伸ばした。けれど、彼女には届かなかった。
「蓮、ありがとう。でも、もう——忘れて」
その言葉を最後に、風花は祠の風とともに崩れ、消えていった。
僕は、何かを壊してしまった。
それが何だったのか、ようやく理解した。