祠へ
裏山の空気は、昼間よりもずっと冷たかった。
祖母の家の奥にある風見の祠——村の人は誰も近づかない。子どもの頃、僕も「行ってはいけない場所」として教えられていた。でも、今は違う。赤いトンボを見た今、僕の足は自然とそこへ向かっていた。
「赤いトンボが飛んだら——」
その言葉の続きを、僕はまだ思い出せない。けれど、胸の奥がざわついている。風花の声が、風の中に混じって聞こえる気がする。
祠の前に立つと、風が止んだ。まるで、世界が息を潜めたようだった。
木造の扉は、古びていて、軋む音を立てながら開いた。中は暗く、冷たい空気が流れていた。何かが、そこにいる。そんな気配がした。
奥に進むと、古い巻物と、風花の名前が刻まれた木札が目に入った。
僕は息を呑んだ。
風花は、ここにいた。いや、今も——
そのとき、風が一瞬だけ吹き抜けた。祠の奥から、誰かの気配が近づいてくる。
「蓮…」
その声は、風花だった。
五年前と変わらない声。けれど、どこか遠くて、冷たい。
僕は言葉を失った。彼女は、確かにそこにいた。けれど、僕が知っていた風花とは違っていた。
「君に…会いたかった」
僕はそう言った。それ以外、言葉が出てこなかった。
風花は静かに目を伏せた。
「赤いトンボが飛んだら、来ないでって言ったのに」
その言葉が、胸に突き刺さった。
僕は、約束を——破ったのか。
でも、僕は覚えていなかった。続きを、思い出せなかった。
それでも、僕は来てしまった。
風花の目は、悲しみと諦めに満ちていた。
「蓮、あなたが来たことで、私はもう——」
その先の言葉は、風にかき消された。
僕は、何かを壊してしまったのかもしれない。
けれど、僕はまだ、何を壊したのかさえ知らなかった。