赤いトンボが飛んだら
秋の風が、祖母の家の裏畑を静かに撫でていた。
稲穂は黄金色に染まり、空はどこまでも澄んでいた。僕はひとり、畑の端に立って空を見上げていた。風に乗って、一匹の赤いトンボがふわりと飛んでいく。
その瞬間、胸の奥がざわついた。
「赤いトンボが飛んだら——」
誰かの声が、記憶の底から浮かび上がる。けれど、続きが思い出せない。何か大切な言葉だった気がする。何か、約束のような。
僕は目を閉じた。風の音が耳に触れる。あの声が、風に混じって聞こえた気がした。
五年前の秋——僕はこの村で、風花という少女に出会った。
彼女は、風のような人だった。名前以外、何も語らなかった。けれど、僕の話を聞いてくれた。誰にも言えなかったことを、彼女には話せた。
両親の離婚で心が壊れかけていた僕にとって、彼女との時間は、唯一の救いだった。
彼女は、僕の中の「静けさ」だった。
だから、僕は彼女に会いたかった。
それは、ただの懐かしさじゃない。僕が僕でいられた時間を、もう一度確かめたかった。あの頃の僕は、誰かに必要とされていた。誰かに、見つめられていた。
それが、風花だった。
「赤いトンボが飛んだら——」
続きを思い出せないまま、僕は祠へ向かう決意をした。
風花に、もう一度会いたい。
それが、僕のすべてだった