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「百道幸太郎さん、ですか?」


 俺――百道幸太郎のスマホに、登録されていない電話番号から着信が来たのは、真樹さんが亡くなってから五日後のことだった。

 

 たった二十分の出会い。そして四時間後の永遠の別れ。

 俺の人生の中でも、両親が亡くなったときと同じくらいに頭から離れない出来事だった。

 最後に見せた真樹さんの笑顔が、忘れられない。


 電話口の声は、二十歳かそこらの、まだ子どもっぽさが残る女性の声だった。

「あのっ、突然のお願いで申し訳ないんですが……今からお時間ありますか?……実は、お会いしてお話ししたいことがありまして……」

 焦りと緊張が伝わって来る。

 だが、見も知らぬ名も知らぬ相手にホイホイついて行くほど、俺はバカじゃない。

「どちら様ですか?」

「…………」

 相手は一瞬間を置いてから、こう答えた。



 

「磯貝真樹の、妹です」



 翌日。

 俺は市内の喫茶店にいた。アメリカ西海岸のダイナーを彷彿とさせる店。店内には活気の良い店主の注文を取る声と、真昼間からビール片手に賑わう三人ほどの集団客がいた。

 俺の目の前には、黒髪ストレートのメガネをかけた美人――磯貝真樹さんの生き写しかと見紛うような――が、ちょこんと座っていた。

「改めまして、磯貝、涼子です」

 涼子さんはペコっと頭を下げる。

 真樹さんの五つ下の妹。現在栄養士の免許を取得するために短大に通っているとのことだった。

 百八十センチ近い黒人の店員が、飲み物が運んできた。俺はアメリカン、涼子さんはアールグレイミルクティー。

 オアチュイノデオキヲチュケクダサイ――まだ日本に来て日が浅いのだろうか。カタコトの日本語を使いながら、丁寧にカップを俺たちの目の前に置いて立ち去っていった。

 俺と涼子さんは店員のいかつさと言葉遣いとのギャップに少し苦笑し、お互いに一口、飲み物を喉に滑り込ませた。

 少し苦味のある、深い味わいのコーヒーが、十月の肌寒さには心地よかった。


「姉の葬儀では、ありがとうございました」

 俺は涼子さんの顔には見覚えがあった。三日前。真樹さんの葬儀に参列したのだ。

 真樹さんの葬儀の日取りや場所を把握するのは簡単なことだった。磯貝コーポレーション。国内ナンバーワンのシェアを誇る半導体企業。真樹さんはその跡取りとして代表取締役社長として勤めていた。若干二十五歳で大企業の社長。真樹さんのまだ早すぎる、突然の死は新聞やニュース等で大きく報道されていた。当然、通夜ゆ葬儀の日程も発表されており、特に葬儀は大きなものだった。

 場違いということは分かっていた。しかもたった二十分の出会い。全く見も知らぬ人の葬儀に行くなんて普通はあり得ないのだが、どうにもこうにも最後の別れを言いたくて、参列した。

 出棺前の献花。棺の中に横たわる真樹さんは、とても美しく横たわっていた。正面衝突で即死という悲しい結末を迎えたのにもかかわらず、顔は綺麗なものだった。眼鏡をかけたまま、まるで眠るかのような表情。もう、どんな言葉をかけても彼女は戻ってこない。

 棺を挟んで真向かいに、涼子さんはいた。俺は一瞬目を疑った。――真樹さん?心臓がはち切れんばかりだった。ハンカチで目元を拭いながら、お姉ちゃん、ありがとう――呟きながら、そっと花を供える涼子さんの姿は、今でもはっきりと覚えている。その声は、嗚咽がひしめく棺の周りの喧騒よりも、何よりもはっきり聞こえていた。


「こちらこそ、このたびは本当に突然のことで……」

 俺は通り一辺倒の決まり文句を涼子さんに言った。

「でも、どうして俺に?」

 二口目のコーヒーを啜り、涼子さんに疑問をぶつける。

「遺品整理をしていて、お姉ちゃんの最後のLIMEの相手が、百道さんだったんです」

 涼子さんはアールグレイミルクティーを一口啜ってから、話を続けた。

 

「姉は私の自慢でした。小さい頃から頭が良くて、勉強も運動も一番でした。父が死んだ後、会社を引き継ぐと決まった時も嫌な顔一つせず、テキパキと社長業を行う姿は美しかった」

 自分が熱で倒れたとき、寝ずに看病してくれたこと。

 自分がいじめられていた時、いじめっ子を学校の体育館裏に呼び出してボコボコにし、目の前で泣きながら謝罪させたこと。

 受験勉強で忙しいのに、自分のテスト勉強も見てくれたこと。

 社長業を引き継ぎ、毎日が忙しなくなっても、必ず家に帰ると料理を作ってくれたこと。

 涼子さんははにかみながら、姉との大切な思い出を訥々と語っていた。俺は、時にあいづちを打ちながら話を聞き続ける。

「姉が亡くなる一週間前でした。久しぶりに時間が取れるから飲みに行こうと姉が誘ってきたんです。」


「ねえ、お姉ちゃんってさ、彼氏とか作らないの?」

イタリア料理店にて、カルボナーラを頬張りながら、涼子は唐突に切り出した。真向かいに座る真樹のぐっ、と詰まらせる声が聞こえた。

「な、なによいきなり」

 真樹は危うく喉に詰まりそうになったペスカトーレを、ゆっくりと咀嚼して飲み込んだ後、ナプキンで口を拭って――どこか焦ったように――涼子に向かって言った。

 市内郊外にあるイタリア風バル。現地から食料を買い付け、新鮮な食材をふんだんに使ったパスタとワインが有名な店である。真樹が飲んでいるのはヴェルメンティーノ・ディ・ガッルーラ ピエロ・マンチーニ。地中海の島特有の品種、ヴェルメンティーノを100%使った白ワインだ。対する涼子はコノスル・シャルドネ・20バレル・リミテッド。ソムリエがそれぞれ選んだ逸品だ。

 濃厚な黄身とパルミジャーノ・レジャーノがふんだんにかかったパスタをフォークにくるくると巻き付けながら、涼子が続ける。

「だってさー、お姉ちゃん昔から彼氏のカの字もなかったじゃん。彼氏がいた方が仕事にも張り合いが出るって言うし、そろそろ一人や二人作ってみたら?美人だしお社長だしお姉ちゃんなら引くて数多だって」そこまで一息に捲し立てると、パスタを口に放り込む。

「――私は、今は仕事の方が楽しいの」

 真樹はどことなくぶすくれた表情でペスカトーレを口に含む。イカ・エビ・アサリと魚介を贅沢に使った逸品。

「あ、お姉ちゃん殻」

 言うが早いか、ゴリっという音と共に、真樹は「あいたっ」と顔を顰めた。慌てて食べたせいか、アサリの殻をも口に入れ、思い切り噛んでしまったようだ。ナプキンを口に当て、殻を吐き出す。血は出ていない。よかった。

「もー、本当お姉ちゃんがしっかりしてるようで抜けてるよなぁ。特に男の話題になると」

「あなたに言われたくないわよ。どうせ一昨日も彼氏のところにお泊まりだったんでしょ。いいわね。相手してくれる男の人がいて。ヒロくん?それともユウくん?」

 真樹はジト目で涼子を睨む。見た目よりは怒ってないようだ。どちらかというと羨ましさを感じる。

「両方とも違うよー。一昨日はタクくん。ヒロくんは残業で忙しくて、ユウくんは試験勉強の真っ最中だってさ」

 そう、涼子には彼氏と呼べる人間が三人いた。ヒロは同僚、ユウは大学の後輩。そして三人目のタクは、一ヶ月前に合コンで知り合った男。どれもイケメンと呼ばれる男で、涼子の好みにドストライクであった。もちろん、朝帰りなんて初めてではない。

「あんたね。そんなに男を取っ替え引っ替えしてたら、いつか大変な目に遭うわよ」

 真樹はため息をつきながら、ワインを一口飲む。

「大丈夫だよー。どれも正式に付き合ってるわけじゃないし、ただの飲み友達みたいなもんだから」

 涼子はカラカラと笑いながら言う。確かに涼子は学生時代から複数の男と付き合っていたが、喧嘩別れやトラブルなどは一切聞かなかった。体の関係はそれなりにあったのだろうと推測するが、お互いそうと割り切っている節がある。

「お姉ちゃんてさ、まだ処女?」

 真樹は危うくワインを吹き出しそうになる。すんでのことでぐっとこらえた。

「……そうよ」

「もう二十五でしょ?女としては一番盛りじゃない。その歳で男の影が一つもないなんて……気がついたらもう四十は目の前、とかになっちゃうよ」

「なんでいきなり十数年後の話に飛ぶのよ。まだ二十五よ。確かに今は忙しくて彼氏作る暇なんてないけど……今後余裕が出てきたら、もしかしたら」

「ほんとかなあ。仕事大好き人間のお姉ちゃんに、できるか心配」

 そう言うと、涼子のバッグから軽快なアップテンポの曲が流れ出す。日系アメリカ人の女性シンガーの曲。あぁ、この音はヒロくんからか。

「ちょっとごめん」

「こんな場所くらいマナーモードにしときなさいよ」

「はいはい」

 ひらひらと手を振りながら、涼子は店外に出ていった。あ、もしもしヒロ?学校どしたの?休講?そっかー……たぶんこれからデートの約束を取り付けるのだろう。

 彼氏、か。

 真樹はワインを一口含み、舌の上でゆっくり味わってから飲み下す。渋味がありながらも、喉にすっと入っていく。鼻から抜ける芳醇な香り。同時に、真紀の胸元で振動が起こる。短いものが2回。仕事のメールだ。この振動は特に急ぎではないものだ。後でいいだろう。

 涼子の言葉を反芻する。確かな自分は仕事人間で、今まで彼氏ができたことは一度もない。学生時代もそうだ。何度か告白されたこともあったが、受験勉強、大学の授業、ボランティア活動、父の仕事の手伝いなど色々な理由をつけては断っていた。男と付き合うよりも興味があるものがたくさんある。努力すれば評価される。人を動かし、プロジェクトが進行する。そういった、自分が動けば何かしら成果になることのほうが好きだった。気がつけば四十……四十歳になった時の自分は、今と同じ考えなのだろうか?夫と子どもと、幸せな生活を送っている姿は、今は想像できない。

 怖いの?今まで経験したことがない世界に飛び込むのが?失敗するのが?

 色々なことを考えていると、涼子が戻ってきた。慌ててカルボナーラを掻き込む。

「ちょっと、どうしたのよいきなり」

「だってー、今から近くの公園まで来るっていうんたまもん。大学から二十分くらいっていうから、ゆったり食べてたら遅れちゃう」

 涼子は半分ほど残ったカルボナーラをものの五分足らずで口に押し込み、ワインを一気に煽り、一息ついてからバッグの中の財布を取り出す。

「ここはいいから、早く行きなさい、あとソースついてるわよ」

 涼子はそう言われると、へへ、とはにかんでナプキンで口を拭う。ありがと、と小さく呟き、立ち上がる。最後に、真樹を見つめて言った。

「お姉ちゃんたちとダブルデートできるのはいつかなー」

「早く行けっつの」

 じゃね、と涼子は小走りで店を出ていった。アリガチョゴザイマシター。店員の声が響く。

 真樹は、一つため息をつき、冷め始めたペスカトーレを口に含んだ。アサリの殻を噛まないよう、気をつけながら。

「……彼氏、か」

 そう、ひとりごちながら。


「それが、お姉ちゃんと直接言葉を交わした最後でした」

 涼子はそこまで話して、紅茶のカップを口に含む。

 俺も、アメリカンを口に含む。じんわりとした苦味が舌の上で踊る。なかなかに美味いコーヒーだったが、その時はなぜか味を感じなかった。

「堅物で真面目で、でもちょっと抜けてて……可愛いところもいっぱいあったんです。そして、姉が亡くなったと連絡があって……」

「遺品整理をしてたら、俺とのLIMEが見つかった、と」

「はい」

 俺はじっと涼子さんの目を見つめながら、続きを待つ。

「お姉ちゃんが生前、男の人とLIMEを交換したことはなかったから……お姉ちゃんが心を許した人はどんな人なのかなと思って……そして、百道さんが最後に見たお姉ちゃんは、どんな様子だったのかなと」

 俺はそこまで聞いて、涼子さんの意図を理解した。姉の最期を知りたい。血を分けた妹として、家族として、思い出を心の中に留めておきたいんだろう。俺は一呼吸おいて、話し始めた。


「俺が初めてお姉さんと会ったのは、事故で亡くなる数時間前のことでした」

 そう言うと、俺は真樹さんとの出会いを語った。

 コンビニで一服中、目の前で衝突事故が発生したこと。

 その被害者としてお姉さんが出てきたこと。

 事故処理中に、喫煙所で話したこと。

 昨年お父さんを亡くして、その車がぶつけられたことで、きつい思いをしていたこと。

 思い出は心の中に――その言葉で、笑顔になったこと。

 真樹さんから、LIME交換を持ちかけ、交換したこと。


「へぇ、そうだったんですか。お姉ちゃんから」

 涼子さんは、目を丸くして言った。

「珍しいですね、大抵は男の人から言ってきてただろうに」

「俺もびっくりしました。その時の真樹さんの表情は、とても美しかった」

 そこまで言って、俺はコーヒーを啜る。

「たぶん、俺は一目惚れしていたんです」

「……」

 涼子さんは黙って先を促す。

「真樹さんを初めて見た時、月並みな表現かもしれないけど、美人だなって。またその美人さんが、物憂げにタバコを吸っているのを見て、あぁ、クールだな、かっこいいな、って思ったんです……はは、下心丸出しですよね」

 「いいえ、続けて」

「真樹さんは、側から見るとクールで、芯が強くて、何でも撮なくこなして……でも話を聞いているうちに、本当は繊細で、周りへの気遣いと愛情に溢れている方なんだな、と思いました……だから」

 すっかり冷めたコーヒーを一息で煽り、カップを置いて続ける。

「もし生きていたら、その先も求めてかもしれません」

「それは、お姉ちゃんとお付き合いしたい、とそう思っていたんですか?」

「……ええ」

 俺は罪の自白をするかのような緊張感に包まれた。涼子さんは俺の目を見ながら、ふんわりと微笑んで言った。

「……よかった」

「え?」

 俺は目を丸くして涼子さんを見た。

「なんか、安心しました。お姉ちゃんは、最後の最後まで幸せを感じないまま行っちゃったのかな、ってそう思ってたんです」

 涼子もすっかり冷めたであろう紅茶を飲み干して続ける。

「最後の最後に、あなたのような人に会えて、嬉しかったと思います。たぶん、お姉ちゃんもあのまま生きていたら、きっと百道さんにLIME返信していただろうなぁって」

「……そう、ですかね」

「きっとそうだと思いますよ。だって、お姉ちゃんが男の人に自分からLIME交換するなんて、今までになかったもん」

 涼子さんは心底嬉しそうな顔をした。

「思い出は心の中に、か。いい言葉ですね」

「いや、俺の言葉じゃないんです」

 そう言って、俺は自分の境遇を話し始めた。

「そう、お父さんの。いいお父さんだったんですね」

「ありがとうございます」

 そう言うと、涼子さんはスマホを取り出して、自分に向けてかざした。

「あの、よければLIME交換しませんか?」

「……え?」

 唐突な展開に、俺は目を丸くした。

「姉が繋いでくれた縁です。せっかくなので、私との思い出も心の中に」

 そう微笑んだ涼子さんの笑顔に、どことなく真樹さんのあの笑みが重なった。

「ええ、こちらこそよろしくお願いします」

 俺はスマホを取り出し、LIMEを交換した。すぐさま可愛いスタンプと新しいメッセージが届く。宛先は「Ryoko」。俺はそのメッセージを見て、軽く噴き出す。

「どうしたんですか?」

「いや、お姉さんとアイコン同じなんだなって」

 かわいいクマのアイコン。

「ああ、同じ日にスマホを買い替えたから、どうせなら同じアイコンにしようって決めたんです」

 アイコンを選んでいる姉妹。涼子さんが色々なアイコンを提示しながら、これにしよーよーなどと真樹さんに迫る。はいはい……と苦笑しながら聞いている姿が目に浮かぶようで、俺も笑顔になった。

 Ryokoさんからのメッセージは簡潔なものだった。「よろしくお願いします」

 どちらかというと真樹さんが送りそうな、堅苦しい文面。いや、出会って最初は、これが普通か。だとすると真樹さんは、どんな気持ちであのLIMEを送ったのだろうか。

 私の新たな思い出さん、よろしくね――

 目の前にいる女性が、いつしか真樹さんに見えたのは気のせいだろうか。

 

 手を振る涼子さんが見えなくなったのを確認してから、俺はタバコに火をつけた。大きく息を吸い込み、たっぷりと紫煙を吐き出す。煙の軌跡が真っ直ぐに走り、すぐに消えていく。


 突き抜けるような青空だった。

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