一
今日もいつものコンビニで、俺はタバコに火をつける。
午前八時十一分。
出社は九時半。十五分前に着くのがルーティンなので、まだまだ余裕だ。
仕事はしがないサラリーマン。半年前に今の職場に転職したばかり。以前はいわゆるブラック企業だったので、朝七時出勤、夜二十一時退勤がデフォルトだった。朝は飯も食わずに慌てて出社し、始業時間前から膨大な量の仕事をこなし、昼休憩もろくに取れず、クレーム対応の嵐。へとへとの状態で帰り着いてベッドにすぐ倒れ込む……といった生活の繰り返しだった。
それが今はどうだ。定時出勤、定時退勤。仕事量も一日で必ず完結するものばかり。一度作業を覚えて仕舞えば、むしろ仕事中に休憩するくらいの余裕はある。昼休憩はきっちり1時間。同僚とタバコを吸いながらのんびりランチを楽しむ。帰ったら自炊して、たまに近くの居酒屋に一人飲みに行くことだってできる。当然、朝も今みたいにゆったり朝飯を食い、家を出てコンビニでタバコを吸って……ということも可能だ。そう、今の方が断然人間らしい生活だ。
心の余裕がいい仕事を生むんだよなぁ……
などと思いつつ、タバコの煙をゆっくりと吐き出す。紫煙が青い空に吸い込まれていく。今日もいい天気。
朝のコンビニの喫煙所には色々な人が訪れる。
ごみ収集車のパッカー部分を開けたまま、のんびりタバコを吸っている作業着姿のベテランと若手が、「今日のルートは楽でいいな」と呟きながら電子タバコを吸っている。
高級ブランドのハンドバッグの中からこれまたブランド物のポーチを取り出し、ジッポライターで火をつけたタバコを咥えながら険しい顔をしてスマホを眺めている中年女性。
座り込んでスワヒリ語の動画を大音量で垂れ流しながら、セブンスターを吸っている黒人の青年。
誰もが日常の喧騒に捉われず、素に戻る瞬間。
コンビニでの一服習慣ができてから、俺は人間観察をよくするようになった。
俺の隣でパンを黙々と食べている眼鏡をかけた男性。よくタバコを吸っている人の隣でモノ食えるよなぁ。
お、来た来た。いつものおばちゃん。このおばちゃんは必ず壁に正対してスマホをいじりながらセブンスターを2本吸う。俺や他の人は壁に背を預けるようにして立っているため、その姿勢は結構目立つのだ。ふーっ。美味しそうに顔を上げて煙を吐き出す。この人は煙を吐き出す時だけ顔を上げるのだ。
……ん?
ふと何気なく壁の方を見やると、白い壁の一部だけ丸く茶色い汚れがついている。あぁ、おばちゃんのタバコの煙かな?このおばちゃんは煙を吐き出す時にいつも同じ場所を狙って吹きかけているのだろうか?だとすると面白い。まるで的当てじゃないか。
おばちゃんが立ち去った後とほぼ同時に、黒人がやってきた。歳は25歳前後、身長は180cmくらいでいつも緑色を基調としたパーカーを着ている。
「よいしょ」
思いの外じじくさい掛け声をかけて座り込む。そしてタバコに火をつける。銘柄はJPS。なかなか見かけないタバコだ。そしてスマホを取り出し、いつものように大音量で動画を垂れ流す。
……お?今日はいつもと言葉が違うぞ。中国語??台湾語?なんか東アジア圏の言葉だ。多言語を駆使する、実は頭のいい青年なのか?
何を言っているのかわからない、時折シットコムのような観客の笑い声を聞きながら、俺は3本目のタバコに火をつけた。ゆっくりと肺に入れて煙を吐き出す。時間は八時三十一分。これを吸い終わったら車に乗ろうか。そんなことを考えていた。
そのとき、激しく金属音がぶつかる音がした。
目の前の道路で車同士の接触事故が起きたのだ。
赤いセダンの後方から、黒いボックスカーがものの見事に追突していた。
ほぼ同時に、両車の運転手がドアを開けて出てくる。スマホを取り出し、警察やお互いの保険会社に連絡をしているようだ。
ぶつけた方の運転手は、金髪ピアスにサングラス、ガムをくちゃくちゃ、スマホもゴテゴテのアクセサリーで固めたいかにもヤンキーぽい青年だ。だが相手の方にペコペコ頭を下げながら電話をしている。明らかに自分が悪いと分かっているのだろう。殊勝な態度だ。
一方ぶつけられた方の運転手を見て、俺は息を呑んだ。
黒髪ショート、銀縁眼鏡に黒のスーツをビシッと着込んだ、20代前半のいかにも仕事ができそうな美人だ。クール、ダウナー系。ぶっちゃけいえば、どストレートな俺の好みだ。
やがて連絡もひとしきり落ち着いたのか、男は車に乗り込み、電話を続けている。車のスピーカーに電話を繋げているのだろう。女らしき声がはっきりと車外にも聞こえている。えーまじー?やばくねー?あんた点数もうないでしょー?……けっこうヤバめなこともあけすけに聞こえている。
メガネ美人はというと、ツカツカと喫煙所の方に歩いてきた。はぁ……と一つ小さなため息をつき、黒革のポーチからタバコを取り出し、火をつける。ピアニッシモ・ワン。周りにいたおばちゃんと黒人も、もう立ち去ったようで、喫煙所には俺とメガネ美人しかいなかった。
女性はふーっと大きく煙を吐き出すと、突き抜ける青空をぼーっと見つめている。
その物憂げな瞳は、思わず吸い込まれそうで。
その瞳から、ふいに一滴涙が溢れた。
「大丈夫ですか?」
俺は、思わず話しかけていた。
「……」
メガネ美人が、のろのろと俺の目を見つめる。涙の跡を拭うこともなく。
「これ、よかったらどうぞ」
俺はカバンから、タオル地のハンカチを取り出した、メガネ美人に差し出した。以前北海道旅行で購入した、キタキツネがプリントされたもの。こう見えて俺はキタキツネが大好き。ってどうでもいい情報か。
「……可愛いですね」
メガネ美人はクスリと笑い、ありがとうございますと言ってハンカチを受け取り、目元を拭う。
「……どこか、お怪我でも?」
明らかに外傷は見られないのを分かっていて、話を続けようと俺はさらに話しかけた。
「いえ。ただちょっと」
「……大変でしたね。出勤途中でしたか?」
「ええ。まぁ上司に連絡は入れたから、そこは大丈夫なんですけど」
メガネ美人が言葉を返す。意外に話してみると、ダウナーな感じでもなさそうだ。俺は言葉を続ける。気になったことはどんどん聞こう。
「そうですか。いや、涙を流しておられたのが見えたから、気になって」
そう言うと、メガネ美人は少し目を伏せ、訥々と語り始めた。
「父のだったんです」
「え?」
俺は、一瞬何を言われたのか分からなかった。
「車」
ああ、そうか。車がお父さんのものだったということか。
「昨日、ガンで亡くなりました」
俺は言葉が出なかった。何も言わずに次の言葉を待つ。
「……父は私が産まれて母と死別し、男手ひとつで私を育ててくれました。今年の四月に定年を迎え、今まで使っていた車を私にプレゼントしてくれたんです。」
メガネの奥の大きな瞳から、ぽろぽろと大粒の涙が伝い落ちる。俺は黙ったまま、ずっと話を聞いている。
「四月からは私が新社会人となり、父からもらった車で仕事に行っていました。年式も古く、走行距離も14万キロを超えていましたが、大事に乗り続けていました。父はそんな私を見て、次はお前の番だな、仕事頑張れよって誇らしげに出勤前に声をかけてくれていたんです」
そう言うと、メガネ美人は2本目のタバコをライターを取り出し、火をつけようとしたが、なかなか火がつかない。俺はそっと自分のライターを取り出し、火をつけてあげる。メガネ美人は手でタバコを覆うようにして火をつけた。「ありがとうございます」と小さく呟き、ひとつ大きな息と共に紫煙を吐き出す。
「……今から父の通夜が始まるところだったんです。それなのに……車をぶつけられた瞬間、父との今までの思い出も一緒に潰れてしまった気がして……」
「……」
俺は言葉が出なかった。
メガネ美人はまたひとつ煙を吐き出す、おもむろに笑顔を作って言った。
「ごめんなさい。見も知らぬあなたに突然こんなことを」
「……いえ。大変でしたね」
俺も灰が落ちかかっていたタバコを灰皿に捨て、新たなタバコに火をつけた。
「……」
「……」
煙を吐き出す息の音が、十秒にも、一分にも感じられる時間が流れる。
「……思い出は消えない。いつも思い出は心の中に」
「……え?」
俺は一つタバコの煙を大きく吸い込むと、息を吐いて言葉を続けた。
「俺の父の言葉です。俺も昨年の今日、母をガンで亡くしました。母を亡くしたその日、父も」
「…………どういう、ことですか」
「母を病院で看取った帰り道です。父が運転していた車が、居眠り運転のトラックに正面衝突されましてね。後部座席に俺はいたから助かりましたが、父は助かりませんでした」
「……そう、だったんですか」
「今のは父が最期に残した言葉です。昔から映画や小説のかっこいいセリフを日常的に言うような人だったから、最期の言葉もそんな感じだったのかな。母が亡くなった病院にすぐ担ぎ込まれて、その言葉を言い残して、亡くなりました。母が亡くなって、まだ一日も経ってなかった」
「…………」
メガネ美人はタバコを吸うのも忘れて、俺の目を見つめている。
「だから、あなたの気持ちもよく分かります。身近な人を失う悲しみ、抱えている思い出の大切さも」
「……………………」
「今回は不運な事故でしたが、だからと言ってお父さんとの思い出が消えたわけじゃない。お父さんとの思い出は、あなたが生き続けている限り、絶対に消えない。お父さんの思いを受け継いだあなたは、まだ存在しているのだから」
「…………っ!」
メガネ美人は目を閉じ、俺の言葉を聞いている。
俺も目の奥がツンとしてきた。いかん、ここで泣いては男の名折れ。
「……すみません、見ず知らずの人に勝手なことを言って」
「……まき、です」
「え?」
「私、磯貝真樹。あなたは?」
「幸太郎。百道幸太郎です」
「幸太郎さん。ありがとう」
メガネ美人改め、真樹さんは潤んだ瞳で俺の目を見つめて言った。
「確かに、あなたの言うとおりだわ。思い出は消えない。いつも私の心の中にある。そして、あなたのご両親の思いも、またあなたの中に」
そう言うと、不意に唇に柔らかい感触。目の前にはメガネの奥に涙で濡れて光る、美しい、閉じられた瞳。
どのくらいの時間が経っただろうか。十秒?三分?
はぁ、という吐息を残して、柔らかい感触が離れる。微かに香る香水と甘いタバコの香り。
「これくらいしかお礼できないけど、私との思い出も、心の中に残してほしい」
気がつくと、ふんわりと微笑む真樹さんの顔が目の前にあった。そして遠くから点滅してくる赤色灯。パトカーが事故処理でやってきたのだ。
「それじゃあ、私行くね。お仕事頑張って」
真樹さんの目にはもう涙はない。これから強く生きていこうとするはっきりとした意思の強い瞳。
「あの」
俺は思わず声を出していた。
「もしよければ、またいつかどこかで会えませんか?」
真樹さんは一瞬目を丸くし、それから笑みを浮かべて言った。
「ふふ」
吸い込まれそうな大きな瞳。
「幸太郎さん、いくつ?」
「え、二十三です」
「そう、なら私の方がお姉さんね」
真樹さんはどことなく上気した笑みを浮かべて、スマホを差し出してくる。
「スマホ出して、LIME交換しましょ」
「あ、はい」
俺は慌ててスマホを取り出すと、LIMEを交換した。友達追加すると、かわいいクマのアイコンとともに、「Maki」という名前がスマホに登録される。新規メッセージ。「私の新たな思い出さん、よろしくね」
「全て終わったらまた改めてLIME送るわ。どこかご飯でも行きましょ」
「はい。また会えるのを楽しみにしてますね」
「じゃあ、行くわね」
そう言うと、真樹さんは颯爽とした足取りで車に向かっていった。目の前には事故相手の男、そして警察官たち。警察官に一礼してから、何やら話をしている。
「さて、行くか」
時間を見る。八時五十五分。ちょうどいい時間だ。
今日の仕事はなんか上手くいきそうな気がする。そう思いながら、俺も車に乗り込んだ。エンジンをかけ、コンビニから出る。ふと、真樹さんの方を見た。
美しい瞳をこちらに向け、右手で小さく手を振る真樹さんの笑顔。もう大丈夫よ――そう語りかけているような気がした。俺も手を振りかえし、職場へと向かった。
昼休み。仕事も一息つき、事務所でLIMEを開く。新着メッセージなし。
その時、通知音がピコンとなった。
地域ニュースの通知。自分の住んでいる地域の情報が送られてくる。
「天木通りで車が正面衝突。飲酒か。女性一人死亡」
また事故かよ。最近多いな。
俺は何気なくそのニュースをタップした。
「本日午前十時三十三分頃、天木通りで乗用車同士が接触し、中に乗っていた会社員の磯貝真樹さんが全身を強く打ち、即死。警察の調べによると、相手の運転手からは飲酒の形跡があったことが判明」
俺は思わず息を呑む。
涙が自然と流れる。
そして、LIMEを開き、一番上のトーク履歴を開く。
かわいいクマのアイコンが表示される。
俺はもう返ってこないとわかっているトーク履歴に、メッセージを打ち込んだ。涙でよく文字が見えなかった。手も震えていた。ようやく文章を打ち終えたあと、飛行機マークをタップする。
あなたとの思い出は、いつも心の中に。
ありがとうという呟きを添えて。
ふと外を見ると、青い空なのになぜか雨が降っていた。