ポチの幸福論
おばあちゃんはいつしか僕のことをポチって呼ぶようになったけれど、いいんだ別に。今日も足元で、大きな箱から流れる音を聞きながら、おばあちゃんとまったり過ごすんだ。これが僕の日常で、幸せそのものなんだ。
――僕は七年前におばあちゃんの元へやってきた。最初は僕のことをコジロウと名付けてくれた。かっこよくて気に入ってたんだ。それから毎日欠かさずお散歩に連れて行ってくれた。おばあちゃんを引っ張らないように、足並みを揃えて歩くんだ。小さな花を見つける度にクンクンと匂いを嗅いでいると、おばあちゃんは「それは、ヒメノオドリコソウだよ。」って優しく教えてくれるんだ。中でも僕は、オオイヌノフグリが好きなんだ。名前に犬って付くからね。なんで笑ってるの? まあいいや。お散歩から帰ってきたら、僕はおばあちゃんとまったりするんだ。薄い箱の中に入っている人間を見ながら、おばあちゃんは僕を撫でる。この時間が一番好き。
それから、お腹の虫が鳴き出すと、おばあちゃんは鰹節を乗せたご飯を僕にくれるんだ。お腹いっぱいになったら、寝る。そしてまた次の朝が来る。それが僕の日常だった。
でも最近思うんだ。もしかしたらこの当たり前も、ずっとは続かないのかなって。
二年くらい前におばあちゃんとお散歩に行ったある日、いつもみたいに花の匂いを嗅いでいると、
「それはスイセンだよ。」
と、教えてくれた。でも、その花は白くて下向きに咲いていて、とてもスイセンのようには見えなかった。何度も教えてもらったから、僕もちょっと花に詳しくなったんだ。
おばあちゃん、この花はホタルソウなんじゃないかな。蛍を入れると綺麗なんでしょ? 前にそう教えてくれたよ?
そうやって聞きたくても、おばあちゃんには伝わらなかった。あーあ、人の言葉は理解できるのになぁ。伝えられないもどかしさは、くぅーんと、鳴くことでしか表現できなかった。
そこから数ヶ月後、おばあちゃんは玄関先で転んで足を怪我しちゃったんだ。病院に行って、しばらく帰ってこなかった。病院は僕も嫌いな場所だから、痛い思いをしていないかすごくすごく心配だった。その間は、おばあちゃんの子供が僕の面倒を見てくれたんだけど、その人は花のことなんて何も知らなかった。
それから、おばあちゃんとは一緒にお散歩に行くことはなくなっちゃった。
退院して帰ってきたおばあちゃんは、僕のことを撫でながら、「ごめんね、ごめんね。」って謝るの。
やめてよ、そんな顔しないでって、僕はおばあちゃんのほっぺたを舐めるんだ。ちょっとしょっぱいのは涙の味だった。この頃だったかな。おばあちゃんが僕のことをポチって呼ぶようになったのは。
「――ポチ、ご飯の時間だよ。」
わーい! おばあちゃんは僕のごはんに鰹節を乗せてくれるから大好き。さっき食べたばかりなんだけどね。
ガツガツとご飯を食べていると、後ろから視線を感じた。もぐもぐさせながら振り向くと、椅子に腰掛けたおばあちゃんが優しそうな顔で僕のことを見ていた。
なんだか大好きな人に見守られて嬉しくなっちゃった。急いでごはんをかき込むと、おばあちゃんの優しさ分だけ重くなった僕は、膝の上に上半身を乗せた。
「どうしたポッちゃん。まだ足りないのかい?」
おばあちゃん、流石に三杯目は食べられないよ。
僕はおばあちゃんの腕に顎を乗せると、撫でてって目を閉じた。
「ふふ、よしよし。甘えたさんだねぇ。」
撫でる手は優しくて、時折り耳をモミモミしてくれるのも気持ちよくて癒された。
その耳をおばあちゃんの胸にピッタリとつけた僕は、とくとくと、心臓の音を聞いた。安心するこの音があったかくて大好きだ。
このあったかい音もいつか聞こえなくなっちゃうのかな。それは、悲しいな。嫌だな。でも、永遠っていうのはないらしい。食べたらご飯がなくなっちゃうみたいに。それは僕にもよくわかる。
――それでも。
それでも、もうちょっとだけ、この幸せが長く続きますように。そう願って、僕はおばあちゃんの腕の中で眠った。