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幸福論  作者: 落水彩
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あっちゃんの幸福論

 足の痒みに気がついたときにはもう遅かった。足の甲を触ると、余計に痒さが増した。裸足で外に出るべきではなかったのだろうが、成人女性が二階の窓から急な瓦の上を歩くには、靴下ではどうにも滑って歩きにくい。

 私は諦めたように太ももを抱えると、背中を丸めたまま、幾つもの点が集まった街明かりを眺めた。

 今日は隣の村で花火が上がる。年に一度、お盆の時期に、祖母の家へ帰ったとき、タイミングが良ければ見られる花火。夕食を早々に終わらせ、ひと足先に屋根の平部で待機していると、上空に小さな光が打ち上がった。

 今年は私の知らない一年の内に新しい家が建ったせいで、円形の花の下半分は黒い影に隠れてしまっている。


「どう? 見える?」


 窓から呼びかけた母も、瓦の上を裸足で歩いて私の隣に座った。


「うーん、ちょっとだけ。」


 暦の上ではまだ夏なのに、涼しさを感じる虫の声と、遠くからパンパンと渇いた音だけがあたりに響いた。母はポケットからスマートフォンを取り出すと、遠くに見える花火を撮影しだした。

 花火の動画なんて絶対に見返すことなんかないのに、母は動画を回し続けた。月明かりに照らされた母の顔は、私とは対照的で嬉しそうだった。

 そこで「お母さんね、お祭り娘なんだ。」と、昔から祭りが好きなことを聞かされていたことを思い出した。

 もう少し秋が近づくと、祖母の家から目と鼻の先にある神社で秋祭りが開催される。私も何度か行ったことのある祭りだった。小さな神社なのにも関わらず、多くの人で賑わっていた記憶がある。


「巫女さんもやったことあるんだよ。」


 いいでしょ、と、神社の前を通るたびに自慢された。何年前の話をしているんだろう。

 大きなため息をひとつ吐いた。

 言えない。とてもじゃないけど、こんな様子の母に伝えられない。

 ふと視線を落とした。色まではわからないが、右足の甲が少し腫れている気がした。

 本当にこの世からいなくなればいいと思う。蚊も私も。


「あっちゃん? どうした?」


 もうあっちゃんなんて呼ばれる年齢じゃないのに、母は幼子に声をかけるように私の顔を覗き込んだ。母が構えていたスマートフォンをゆっくりと下ろすと、撮影の終了を告げる電子音が鳴った。


「ん、あ、いや、蚊に刺されて。」


「じゃなくて。なんかあった?」


 時々母というものが恐ろしく感じる。何も伝えていないのに、心を読むような発言をしてくる。いや、案外母はそこまで気にしていないのかもしれないが。


「ほら、お母さんに言ってみ?」


 グイグイと距離を縮めた母が返事を促した。

 正直に話せば、楽しい花火鑑賞に水を差すことはわかっていた。だからこそ言うべきか迷ったが、このわだかまりを心に溜めておくと、自分が壊れてしまう気がした。


「……落ちちゃった。第一志望の会社。」


 涙の一つでも溢れるかと思ったが、びっくりするくらい明るい声で答えられた。ああ、スッキリした。

 途端に、背中に温かい感触がした。


「大丈夫?」


 母は幼子を安心させるように、私の背中を二、三度、優しく叩いた。泣き虫な私をいつも落ち着かせてたのは、この母の背中をトントンする行為だった。


「どこか、ご縁のあるところが見つかるといいね。」


「うん。」


 母はいつだって私の味方だった。小学校で仲間外れにされたときも、コロナで寝込んだときも、好きな人ができたときも。一人っ子で友達の少ない私にとって、母は一番の理解者だった。些細なことでも真摯に相談に乗ってくれた。


 そんな母に、恩返しの一つでもしようと、有名な企業にエントリーシートを送った。しかし、三流大学に通う私が、そんな簡単に通るわけもなかった。


「ダメな娘でごめんね。」


 少しだけ声が震えた。申し訳なくて、合わせる顔もなくて、膝に顔を埋めた。花火を愉しむ余裕はなかった。

 そんな私に母は一言、


「お母さんの子なんだから、なんとかなるでしょう。」


 返事はできなかった。代わりに鼻を啜る音だけが漏れた。

 そんなことないよ、次頑張ればいいよ、なんてありきたりな言葉なんかじゃない、私の母だからこそ言える台詞に感情が揺さぶられた。せっかく泣かないようにしてたのに。


「泣き虫さんは変わんないねー。」


 笑いながらも、優しい声だった。嗚咽混じりの声を漏らす私をなだめるように、母は背中をトントンし続けている。


「あんだけ、がんばったのに、面接にすら、届かなかった。」


 母が私に期待をして塾に行かせてくれたり、私立の大学に通わせてくれたりしたことを思い出すたびに、一つ、また一つと雫が落ちた。


「無理しなくていいよ。あっちゃんが楽しいなって思えることをしてほしいもん。」


 母の方を見ると、慈愛に満ちた顔をしていた。目が慣れてきたのか、ぼやけつつも表情を読み取ることができた。私の泣きっ面は、母にどう映っているのだろう。恥ずかしかったが、気を使う余裕はなかった。


「変なとこ行って、体壊しちゃう方が心配だよ。あっちゃんには健康でいてほしいし、それがお母さんにとっての幸せだよ。」


 私はこの母の娘で良かったと、心の底から思った。


「ありがと。もうちょっと頑張ってみる。」


「うん、なんとかなるよ。」


 その瞬間、どーん、と一際大きな音が聞こえた。音のする方へ顔を向けると、どの建物の影にも隠れない大きな花火が目に映った。上空から尾を引いて落ちる光は、毎年祭りのクライマックスを飾る枝垂れ柳だった。

 私がメソメソしている間にほとんどの打ち上げが終わってしまい、なんだか勿体無い気がした。しかし母親は、最初に屋根に登ってきたときと同じ顔をしている。


「おお、大きいね。お母さん好きなやつだ。」


「私も好き。」


 親指で目尻に溜まった涙を拭うと、花火を目に焼き付けた。隣村から届く優しい光にも応援されているような気がして自然と口角が上がった。

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