7 デライラ・エストラーダ
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この男はいつもそうだ。武力はないがそれを補えるだけの他の能力を持っている。それなのに、なぜこうも早々に予防線を張って安全なところに逃げるのだ。戦え。
いつもいつもこの男は困ったように頼りなく笑って、大事なことを口にしていない。明日私が死んだらどうするつもりだ。
「今度は私から逃げるのか」
「私は……逃げていない。あ、確かに王都からは逃げてきたように見えるかもしれないが……辺境伯が心配で。父よりも辺境伯が大切だから!」
彼は出て行こうとした足を止めて、必死に言いつのる。しかし、緊張しているようで手を握ったり開いたり落ち着きがない。
「言いたいことははっきり言え。それがエストラーダだ。明日、大切な者が死んだらどうする。私にはドラゴンの呪いがあった。子供も望めないし、早死にする女だ。そんな女と結婚しているあなたは哀れでしかない。あなたは武力もないし、辺境に合わないから離婚して別の令嬢と結婚すればいいと送り出したのだ。金は十分もらったしな。それなのに、あなたは陛下を放ってノコノコ帰って来た。帰って来る必要のないここに」
「っ、それは……」
相変わらず、彼の態度は煮え切らない。
「ハッキリ言え。私はそういう思いであなたを送り出したのだ。あなたなら第二王子よりも立派な国王になるだろうと、信じて。それなのにあなたは何だ? 帰って来てゴニョゴニョと私が大切だの、抱きしめたいだの訳がわからんことばかり言う。解呪してくれたのはありがたいが、何なのだ。このまま離婚するのか、しないのか。王都に戻るのか、戻らないのか」
書類上の夫の握った拳が震えているのが分かる。
命を狙われ続けて、裏切られたことがあるなら仕方がないのかもしれない。だが、仕方がないはエストラーダでは死を意味する。
私がドラゴンを倒せなかったら仕方がない? そんなことは通用しない。だが、私が呪いで死んだとしてもまだ兄がいる。
「辺境伯は……私との結婚は金のためだっただろう?」
「その通りだ。呪いもあったしな」
「呪いは今日で消えたはず。私との結婚は今、辺境伯にとって何なんだ?」
「金だな。あなたには金を稼ぐ能力がある」
「っ! 結局、あなただって私と同じだ。私はいつも逃げているが……あなたは一切自分を大切にしていない。呪いだって自分一人に降りかかればいいと思っているだろう! エストラーダ領が無事であればいいと! 金だってあなたのためじゃない、エストラーダのためだ。あなただって自分の心を殺している」
目の前にいるのは書類上の夫のはずなのに、彼の発言は兄と最後にした言い合いそのままだった。
あぁ、なるほど。きっとこの書類上の夫もすぐにここから出て行く。兄だってそうだった。
別に解呪なんてしなくて良かったんだ。
ただ、父がいなくなって不安な私と一緒に、死ぬまでエストラーダを守ってくれれば良かったのに。それなのに、兄は私を救うために無鉄砲に出て行った。私は呪いから救ってほしくなんてなかった。ただ、兄に寄り添って欲しかった。
それをやってくれたのはライナーだけだ。ライナーはこんな面倒なことは言わないが。
ライナーはここまで私に真っ直ぐぶつかってこない。遺書を盗み見ても、知らん顔ができる男だ。結婚に対する小言も少し言うだけ。そう考えると大して寄り添ってはいないし、心を救おうともしていない。私だってライナーに対して踏み込まない。
ドラゴンの呪いがあってライナーとは結婚しなかったが、それで良かったのだろう。ライナーと結婚したところで、ずっと上司と部下の関係だろうから。こんな図星で不愉快なことをライナーは言わない。心の柔らかい部分に土足で勝手に踏み入ってこない。毒にも薬にもならない幼馴染。
「そんなあなたを……好きになってはいけなかったのか」
「は?」
何も言えないでいた私に、書類上の夫はいつの間にか近付いてきていた。金色の目に薄く涙の膜が張っておりキラキラ輝き、彼の手は相変わらず震えている。ヒヨコのような夫は健気にプルプル震えながら口を開いた。
「あなたのその犠牲的な生きざまを美しいと思って……あなたを救いたいと思って……それでも無理で。私は無力だから。でも今日はあなたから逃げたくなかった。あなたが痛い思いをしている時に、呪われて死にそうな時に……その時くらい無力で何もできない私でも側にいたいと思ってはいけないのか」
「……ははっ」
思わず乾いた笑いが漏れる。
付き合いの長いライナーでも、生まれた時から一緒の兄でもなく、押し付けられたはずのヒヨコの夫が私の欲しい言葉をなぜくれるのか。
今まで誰もくれなかったのに。どうしてお前が。ヒヨコの癖に。
どうして私の最も欲しい言葉をお前がくれるのか。
目の前に立っているはずの夫の姿が滲む。
その夫は急にアワアワしながら、ハンカチを取り出している。いつもなら鼻で笑うその女々しい動作さえ、私のためだと思うと心が震えた。
滲む視界の中で、彼の服を掴んで引き寄せた。体幹の鍛え様が足りない夫は簡単によろめいて、私の体を乗せているベッドの上に倒れ込む。
彼の胸元を掴んで引き寄せて、無理矢理彼の唇を奪った。そうでもしないと、私はここで激しく泣いてしまいそうだった。
最初のうちはプルプル震えてされるがままだった書類上の夫は、しばらくしてやっと私の背に手を回してくる。
唇を放す頃にはお互い息が上がっていた。
「私の側にいるつもりがあるのか」
「も、もちろん」
「死ぬまで?」
鼻同士を擦り合わせながら聞くと、彼はくすぐったそうに頷いた。
「じゃあ、私がどんな状態でも寄り添うように……兄も誰もそうはしてくれなかったから」
「……本当に、これからずっとここにいてもいいのか」
「良い」
頼りない体躯の夫の体を抱きしめると、一気に彼の体は緊張した。
「そもそも、呪いの確認で私の肌を見たのだろう」
「い、いやそれは……解呪ができているか見ないと分からない」
「じゃあ、責任も取ってもらわないとな」
まさか押し付けられた夫が本当に私の黄金郷になるとは。冗談のつもりだったのに。
彼の胸に頭を預ける。これほど自分が無防備になるのは久しぶりだ。夫の指が私の髪をそっと梳くのを感じながら、私は目を閉じた。
長編も考えていますが、短いVerはこれで完結です。
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