アフターテイル
本をひらく。中からしおりが落ちてくる。山奥の家。横で焚き火をしていて、小さなイスに座っている。その焚き火のとなりには小さなテーブルがあり、私の肘掛けになっている。そこに座る私は、何を考えているのだろう。少しだけ考える。わかったのは、私が次に考えることは私自身わからないと言うことだ。しかし次に思いつくことは「くだらない」の一言である。それは間違いない。
水の鳴く音がする。手に持った本をテーブルにそっと置く。今日はお気に入りの紅茶を入れる。スコティッシュブレックフェストティーだ。少し濃いめに淹れて、ミルクとほんの少しの砂糖を入れる。それがいつもの淹れ方だ。スプーンに茶葉を溢れさせて、コップに入れる。そしたらゆっくりと、ゆっくりとお湯を注ぐ。あったかいミルクを注いでもいいが、少しまろやかすぎる。ミルクを注いでかき混ぜる。しわくちゃな指でかき混ぜることもあるが、今日はカッコつけてスプーンで混ぜる。最後に砂糖をまぶす。上から白い結晶が落ちて、溶けていく様はいつ見ても心地いい。このために透明のカップを使い、砂糖を入れているのだ。また混ぜる、また混ぜる。完成だ。深く濃いアッサムの香りにまろやかなミルク。ほんの少しだけ甘さが顔を出す。
一口。また一口。少しづつ飲むのが一番いいのだが、我慢できずに三口も飲んでしまった。私のよくないところだが、今日はそれすらも心地がいい。汚れを知らない空に太陽が少しずつ顔を出していく。コップが朝日を飲み込んだ。
手を組んで考える。私は今、何人目なのだろうかと。幼少期、自分の中にもう一人自分がいた気がするのだ。そして勉強するにつれて知らない自分が増えていく。たくさんのくだらない常識。面白い雑学。音楽の理論。それらを合わせて考えると、ざっと五十人ほどだろうか。少ないのか多いのかはわからない。彼らと話してみたいと常日頃思うのだが、どうにもそれは不可能なようだ。
足を組んで考える。妻は何人いたのだろうかと。私にとっての妻は一人だけだ。そして私が愛したのも生涯彼女だけだ。妻は先に行ってしまったが、涙は流さなかった。それはたぶん、知らない私だったからなのだろう。
妻は普段怒らないのだが、怒ると般若のような顔をして私を睨みつけてきた。それは二人目の妻なのだろう。と言うことは私は最低でも二人の女性を愛したことになる。なんと幸せなことだろうか。紅茶に口をつけた。
焚き火がパチパチと声を出す。火は羨ましそうだ。あなたの才覚も、あなたの感情も、生きる姿の、全てが羨ましい。そう聞こえた。確かに、私の人生はそこそこ羨ましがられるだろう。お金に困らず、愛する人を見つけられた。それらができない人がどれだけいるか。私は幸運だった。もちろんそれ相応の努力もしてきた。しかし、結局世の中運なのである。どれだけ頑張ろうが才がなければ芽は出ない。どれだけ才があっても運がなければ芽は踏みつけられる。そう言う物なのである。
しかしながら、私は敗者だ。私は自分の夢を諦めた。音楽家になると言う夢を。妻のために。それ自体に後悔はない。しかしたまに考える。私がステージに立つ夢を。この歳になってもそれは無くならない。私の炎はまだ燃えている。消えかけの焚き火のようだけれども。だから本をひらく。私の才が大樹のようにうねり彷徨って、いつか太陽に届く日を願って。
椅子に座りながら、少しだけ考える。わかったのは、私が次に考えることは私自身わからないと言うことだ。しかし次に思いつくことは「くだらない」の一言である。それは間違いない。
私はしおりを拾って、本をひらく。読んでいたページは忘れてしまった。