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405.(小さなカンバス)


   ※


 卒業制作発表の朝、茜はパネル加工された自分の作品をイーゼルに掛けた。会場となる教室の反対で、リカコが自分の作品を展示する準備している。ラッパは、階下の教室に搬入済みらしい。その作品は、大きさもさることながら、すでに噂になっていた。

 トイチは姿を現わさなかった。

 あの日からこっち、茜はトイチとも、リカコにラッパとも距離を置いていた。茜の作業のほとんどは学校のコンピュータ室を使うばかりで、作業スペースとして割り当てられた七号館の地下へと行くこともなかったせいもある。ケータイが鳴ることもなかった。

 イーゼルの高さを揃え、四枚のパネルの設置位置を離れて確認しているとリカコがやって来た。しばらくふたり並んで、パネルの並びを見ていた。

「かっこいいね」リカコが云った。「とってもアラキちゃんらしい」

「そうかな」

 普通に話せた。半月近い空白の時間など、まるでなかったかのように。

「アラキちゃんのセンス、あたしは好き」

「ありがと。そっちはどうよ」

 あは、とリカコは笑った。「恥ずかしいよぅ」

「嫌がっても、今日は一日晒しもんよ」

「だってぇ、ギリギリだったもん。今朝までやってこれだから」

 教室を横切って、リカコの作品の前に立つ。新しいキャラクターの提案と、そのブランディング戦略をまとめたものだった。継ぎはぎだらけのプレゼンボード。試作のぬいぐるみ。幼稚園でのアンケート。

「なかなかいいじゃない」

 素直に、出来の悪さは指摘する必要はあるまい。寝不足の赤い目も、勲章だ。

 リカコはリカコなりに頑張って、そして、たぶん、入学してからこっち、一番いい作品を仕上げた。

「あんたが頑張ったの、分かるよ」

 そうかな、とリカコは照れくさそうに笑った。出来の云々は致し方ない。けえども、リカコが真剣に取り組んでいたのは、作品から分かった。それで充分じゃない?

「ねぇ、アラキちゃん」

「ん?」

「ラッパの、見に行こう?」

 リカコが茜の手を取る。リカコに手を引かれて、茜は教室を出た。

 階下の教室では、大型作品を制作した生徒の展示に充てられている。教室の中央に、それはあった。真っ黒に塗られたリクライニングチェアのようだったが、不思議な形をしていた。ラッパが寝そべるようにして座っていた。ふたりに気づくと、ラッパは片手を上げる。

「よう」

 茜も片手を上げる。「よう」

「そっちはどうさ?」ラッパは云った。

「お蔭様で。なんなの、これ」

「見ての通り、手だよ」

 ラッパが立ち上がって、その姿が分かった。それは、ロボットの大きな手に見えた。

「指にクリック関節を設けてるから、自由に傾斜を変えられるんだ」

「へぇ」

「小指と親指を上手い具合に曲げれば、アームレストになるぜ」

「すごいじゃん」

「突貫だけどよ」額を掻きながら、ラッパ。

「いいじゃん」茜は云った。「これすごく面白い」

「だろ」

「なんだか大仏様の掌みたい」

 するとラッパは。「そのつもりだぜ」得意げに鼻を鳴らした。「現代の偶像とも云えるフィギュアからの逆アプローチで仏像のリビルド。仏像の掌は、安楽の象徴。なんせ、一人でも多くの人間を救うために、指の間に水かきがあるくらいだからよ」ラッパはコンセプトをまとめたプレゼンボードを指さしながら云った。「それが安楽イスってのは、おかしくないだろ?」

 成仏するつもりかい。ちょっとおかしかった。「それ、あんたが考えたの?」

 するとラッパは、笑った。「いや、手伝ってもらった」

「やっぱり」と茜。「あんたの頭を絞ったにしちゃ、上等すぎだよ」

「云うねぇ、アラキちゃんは」

「どういたまして。座っていい?」

 もちろん、とラッパは云った。「座り心地までは追求できなかったけどよ」

 なるほど、金属製ゆえに冷たくて硬い。良く見ると、幾つかの指を構成する部品が少し曲がっているようだった。溶接の痕も、きれいとは云い難いかもしれない。塗ったペンキも、ムラがある。しかし、この存在感はどうだろう。ラッパは、いいものを作った、と思った。

「これさ、」ラッパが云った。「トイチに云われなきゃ、閃かなかった」

「そう、なの?」

 ああ、とラッパは首肯する。「閃いたら、どうしても作りたくなって、ずっと篭ってた」

 ラッパの指はバンソウコウだらけで、爪と指の間も真っ黒に汚れたままだった。

「トイチが手伝ってくれたんだ。コンセプトボードも。俺のアイディアの後付けコンセプトは、ほとんどトイチのアイディアだよ」

 本当に憎たらしいくらいになんでも出来るヤツさ。

 ラッパは、朗らかに笑った。

 茜は驚いた。そして、あの日以来、彼らと距離を置いていた自分を恥じた。

 私たちは、友達だったんだ。なのに、なにを自分は意固地になっていたのだろう。なにを頑なに拒んでいたのだろう。

 バカみたいだ。むしろ、バカだ。

 私は、バカだ。

 そして、思った。トイチに謝らなきゃ。

 彼に、私は謝らなければならない。

「トイチは?」茜は立ち上がり、尋ねた。

 ラッパは首を振った。「今日は休むって」

「そんな。どうするのよ」

 ラッパはアゴをしゃくる。茜は振り返ってその先に目を向ける。

 シーツがかけられた、たぶん、トイチのカンバス。

「時間が来たら、シーツを取ってくれって。昨日のうちに搬入して設置していったみたいだ」

 その時、講師がやって来て審査を始める旨を伝えた。

 ラッパは、トイチの作品の前に立つと、シーツを取った。

 下から現われたのは、縫い合わされたカンバスだった。赤い色の糸で縦横に縫われていた。

画面いっぱいに塗られた鮮やかできらめくような色彩は、虹を連想させた。カンバスの中央に描かれた扉は、虹の中へ通じるかのようだった。

 茜の記憶にあった、暗く沈んだ描きかけの絵とはまったく正反対の作品だった。

 カンバスは縫い合わされてより強く、その存在を誇示していた。

 すごい、と思った。

 何が、とは思えなかった。

 どうしよう。

 茜は思った。

 わたしは、トイチの絵が好きだ。トイチの描く世界が好きだ。

 そう思ったら、とたんに泣きたい気持ちになった。泣くことが出来たらと思った。

 心が泣くことを欲していた。胸が苦しくて、いっぱいになった。

「どうしたの、アラキちゃん」

 リカコが心配そうに云った。「そろそろ戻ろう?」

 うん、と茜は頷いた。

 声が、出なかった。


   ※


 茜の作品は奨励賞を貰った。僅差で優秀賞を逃したと、後日、担任から訊いた。講師の中でも意見は分かれたが、最後は選考から漏れたとのことだった。詰め込み過ぎた内容を、余裕を持ってもう一枚加えていたのなら、もしかしたら、と。

 惜しかったね、と担任は云ってくれた。それでも渡された成績表にはAがスタンプされていた。

 卒業制作の発表からトイチは姿を見せず、卒業式にも参列しなかった。本人不在であったが、卒業制作は受理され、書類上では卒業したことになったらしい。しかし、卒業制作で提出された作品は回収されぬまま、シーツをかけられ七号館の二号教室に置かれていた。

 ラッパがトイチが戻ってくるまで誰かが預っていようと茜に相談した。その時すでに、ラッパは作品を預るつもりだったらしいが、茜がそれを引き受けることにした。

 卒業式の翌日、茜はトイチの作品を搬出した。電車で持ち帰るには難しだろうと、ラッパとリカコが手伝ってくれた。車を使って、アパートに持ち込んだ。カンバスは大きかったけれども、玄関をギリギリでくぐり抜けることが出来た。

 茜は暫く、トイチの絵と共に生活した。しかし、春になる前には退去して、実家へ戻らなければならない。

 それは引越の準備の最中のことだった。

 絵を移動させようとして、裏面に貼られた茶色いクラフト紙を破いてしまった。

 いつか、薄ら寒い蛍光灯の下で見た切り裂かれたカンバスを思い出して一瞬、ぞっとした。しかし、その中が暗く見えないことに気づいて不思議に思った。

 切られたカンバスは縫い合わされてはいるが、光が少しも漏れていないのはおかしい。

 破れたクラフト紙の隙間を少し開いてみると、裏打ちされていた。どうやら木枠の内に、一廻り小さなカンバスがぴったりとはめ込まれていたらしい。

 茜は少し考えたあと、クラフト紙を剥がした。そして、はめ込まれていたカンバスを取り外した。

 木枠に、黒いマジックで文字が書かれていた。

 トイチの字だった。

 不意を突かれて、茜は泣きたくなった。何も云わずに消えたトイチを思って、泣きたくなった。

〈The door into the U〉──それがタイトルかもしれない。

 描かれていたのは女の肖像だった。

 良く見知った女だった。

 毎日、鏡の中で見る女だった。

 茜は驚くと共に、苦笑した。

 その女は、取り澄ました顔をしているが、その身をスウェットで包んでいた。

 これじゃあ、せっかくの肖像画も台無しだ。

 そのスウェットは、室内着と寝巻きを兼ねたもの、あの雪の晩に茜が着ていたものだった。

 トイチは茜のために、この絵を残してくれたのかもしれないと思って、茜は笑いながら、少しだけ泣いた。

 少しだけ泣いて、彼に逢いたいと思った。


   ─了─

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