404.(認めない)
※
ふと、目が覚めた。何時だろう。テレビは消えていた。暗い部屋に、青白い光が細く差し込んでいる。トイチがカーテンを少し捲って外を見ていた。
「トイチ?」
「ごめん、起こしたか」
「いいよ」茜は上体を起こした。「どうしたの?」
「雪が止んだ」
「ほんと?」
トイチの顔は半分、青く照らされていた。茜はベッドから降りて、トイチの横に立つ。窓の外、夜の街は雪に包まれていた。街灯の明かりを、雪が反射していた。
「きれい」
茜は鍵を開けて、そっとガラス窓を開けた。ひうっと角のある冷気が舞い込んできた。
「寒いね」
茜は笑いながら、ベランダの外に出る。トイチもついてきた。
街は、降り積もった雪にすべての音を包み込まれたかのようだった。
「私、雪国生まれじゃないからかな。雪って大好き」
トイチは黙っていた。
「雪が好きと言うより、雪の降った夜とか。なんか独特の静けさが好き」云いながら、ぶるっと身震い。「でも、やっぱ寒いや」
「戻ろう」
茜はトイチの言葉にしたがって、部屋に戻った。
「雪への扉」
トイチは窓の鍵を締めながら云った。
「なに?」
「どの扉を開いても、雪の降る街にしかつながらない」
「窓だよ」
「そうだね」
「カーテンは、開けといて」
トイチはそうしてくれた。部屋の壁が青白く染められた。それからトイチは床に寝ころぶと、毛布をかぶった。
「私もまぜて」茜はその中に潜り込んだ。「はー、寒かった」
「困るな」
向かい合ったトイチは、目をつむっていた。
「あったかいなぁ」
茜は手をトイチの大きなお腹に宛てる。「やわらかくて気持ち良い」
「君の手は冷た過ぎる」
「そうかもね。眠い?」
「そうでもない」
「私も」
外の冷気ですっかり目が冴えてしまった。
暫くふたりの呼気だけが往復していた。トイチの身体は暖かで、心地よかった。
こんな抱き枕があったらいいな、とぼんより思った。ふかふかで、おっきくて、あったかい。
トイチの姿がプリントされた抱き枕を想像して思わず忍び笑い、しかし気付かれた。
「どうしたの」目をつむったままのトイチに問われた。
「なんでもない」くすくす笑いがとまらない。
ひとしきり笑いを堪えて、「はー、」と息をついた。しかし今度は沈黙に耐えられなくなった。
「あのさ、」
「ん」
「トイチって好きな人とかいる?」
「いないよ」
即答。
「付き合った人は?」
トイチは少しの沈黙のあと、答えた。「いるよ」
「いつ? だれと?」
「中学の時。同級生」
「好きだったの?」
「うん」
「なんで別れたの?」
「なんとなく」
「どんな人だった?」
トイチは目を開け、茜の方を向いた。「君は卒業したらどうするのかな」
「私? 地元に帰るつもり。むこうでバイトでもなんでもいいから仕事探すよ」
田舎でコネも経験もない小娘がありつける仕事なんてたかが知れている。二年間の学校生活が無駄になったとは思わないが、それが実務に活かせるほどでないのも分かっている。そもそも、自分はプロには向いていない。絵もデザインも、趣味以上を望むなんてどうかしている。どこかの雑貨ショップみたいなところでカラフルなPOPとか描いたりしながら生活するのがたぶん、身の丈相応だ。
「トイチは画家になるでしょ?」
「ならないよ」
「なんで?」考えられない。「もったいないじゃん」
「絵は、苦手なんだ」
「まさか!」
「たぶん、絵はあまり好きじゃないんだと思う」
「そうなの?」
「うん」
「そうなんだ」
「うん」
「もったいないよ、それ」
「そうかな」
トイチは再び目を閉じた。
「そうだよ。私、トイチの絵、好きだもん」
「そう?」
「うん。もっと描いて欲しいと思う」
するとトイチは。
「悪いね」
ぽつりと云った。
「なんで謝るの」
「開き直るほどでもないから」
「ワケ分からないよ。謝るくらいならもっと描いてよ」
哀しく思った。トイチにはもっとたくさんの絵を描いて欲しかった。絵を好きでないとか云って欲しくなかった。
茜はトイチの身体に、自分の身体を寄せた。トイチは動かなかった。ぴったりと身体を寄せて、大きな背に手を廻そうとした。
「卒制が、最後なの?」
「うん」
顔と顔を近づけて、茜は訊ねた。「もう、描かないの?」
答える代わりにトイチは手を伸ばし、茜の頬に触れてきた。その指先が髪を梳き、うなじを線に添って流れた。茜はトイチを見つめた。トイチも茜を見つめた。トイチの瞳は濡れて見えた。
やがてトイチの指が首をすべる。鎖骨をなぞる。肩を超える。その手が肩甲骨に触れると、トイチは茜の身体を引き寄せた。頬にトイチの呼気を感じた。
茜はまぶたを伏せ、トイチの唇を受け入れた。
一度目はそっと触れ合った。羽に触れるかのようだった。二度目は深く触れ合った。甘く、噛まれた。
重なるトイチの身体はとても暖かだったけれども、茜の胸の内に生まれた哀しさが溶けることはなかった。
※
昨夜の雪の名残は、交通機関に多分に影響を及ぼしていた。
いつもどおりの時間に家を出て、いつもより大幅に遅れて学校に着いた。
茜は制作のためにとコンピュータ室へ向かう前に、トイチと共に七号館、二号教室へ足を向けた。日の当らない凍りかけた道を、茜はトイチの腕に掴まって歩いた。
地下に降りると、三号教室から化粧ポーチを手にしたリカコが出てきた。
「おはよ。朝からなんて珍しいじゃん」
茜が云うと、リカコは苦笑する。
「だって、あたし頑張らないと間に合わないもん」
「さすがに尻に火が点いたって感じかな」
「うん、そう」トイチの言葉に、リカコは素直に頷いた。
茜はリカコと並び、トイチの後をついて二号教室に入る。誰も登校しておらず、教室は真っ暗だった。
声を落として、リカコに尋ねる。「昨日、あのあとラッパはどうだった?」
「うん……」
リカコは云い淀む。「ちょっと、そのことで、」
「どうしたのよ」
「あたし、ラッパんとこに泊まったんだけど。ほら昨日、雪だったじゃない。でもラッパったら全然構ってくれなくて」リカコはむくれてみせた。「だから、ラッパのお母さんとお話ししてばっかだった。でも寝る前に、ちょっとガレージ覗いたの」
不意に、不安を憶えた。
「そしたら?」
「ラッパ、いなくて。それで、あのロボット、壊れてた」
「どう云うこと?」
続きを訊こうとしたが、茜はトイチが明かりをつけた教室の奥にそれをみつけて息を呑んだ。
引きずり下ろされたシーツ。カンバスが切り裂かれていた。蛍光灯の明かりが、寒々しく照らしてた。
切られたカンバス地はめくれ裏返り、立てかけた先の壁を見せていた。描かれていた扉は、開くことなく絵の中で壊れていた。
トイチは何も云わず、作品の前に立っていた。
リカコが踵を返すのと同時に、茜はその手首を反射的に掴んでいた。
「痛いッ」
リカコが叫ぶ。茜はリカコの腕を引き寄せ、ブラウスの襟を掴んだ。
「あんた、何か知ってるんでしょ!?」
「知らない! 痛い、痛いよ!」
「ラッパね!? そうなんでしょ!」
「やめて! アラキちゃんやめて、手を放して! 痛ッ!」
リカコは泣いて懇願した。けれども茜は握る手首の力をゆるめたりはしなかった。むしろ、より強く、握った。リカコの細い手首の骨がきしんだように感じた。砕けてしまえ、と思った。粉々に砕けてしまえ、と。
「荒木、」トイチが云った。「リカコを離すんだ」
「トイチ……」
「その手を離すんだ!」
わあっと火がついたようにリカコが泣いた。トイチの声に驚いたのか、リカコの鳴き声に驚いたのか。茜の手は、リカコから離れていた。
リカコはその場にしゃがみこんで、わあわあと声を上げて泣く。
茜はぼんやりと、そんなリカコの姿を見ていた。
頭の芯が鈍く痺れて、目の前の光景がじわりと滲んで現実感を失っていく。
※
騒ぎを聞いてか、二号教室に顔を出した生徒を払うと、トイチは作品にシーツをかけた。それは昨夜、茜がトイチと一緒に教室を後にした時と同じに見えた。
しかし、あの白い布の下にあるのは、死体だ。
茜は思った。
切り裂かれた死体。死んでしまった、トイチの絵。
「荒木」トイチは云った。「リカコに謝って欲しい」
リカコは目の周りを赤くして泣きやんではいたが、疲れてみえた。
「トイチ、」
「リカコは何も知らない」
「でも、」
云いかけた茜を、トイチは制した。「これは誰もやっていない」
「なに云ってるの!?」
しかし、トイチは微笑んだ。「でも、面白くなったと思う」
「そんな、」
茜には、トイチの云うことが理解できなかった。
なんでそんなことを云うの?
自分の作品が壊されたのに。……殺されたのに。
それなのに、平然としていられるだなんて。
茜は、昨夜のことを思い出した。そして、気が付いた。
トイチにとって、絵なんて、大事なものでもなんでもないんだ。
トイチにとって、私が好きだと云ったことなんて、どうでもいいんだ。
「リカコに謝るんだ」
トイチが云った。
茜はくやしい、と思った。
トイチにとって、私のことなんて、少しもたいしたことじゃあないんだ。
「ごめん、リカコ」
茜は云った。心根では謝罪の気持ちなど少しもなかった。リカコはうつむいたまま目を擦り、ハンカチで鼻を拭って、なにも云わなかった。
トイチは、パンっと両手を打ち鳴らした。「これで、この件はお終いだ」
「……終わってないわよ」茜は云った。
「終わったんだ」トイチは静かに答えた。
「私は、認めない」
茜は教室を、ひとりで出た。