401.(いつでも終われる)
イン・ユア・ハート
とんとんと、階段を降りる。点在する校舎の一つ。七号館の地下一階。三つの空き教室があり、ここは生徒たちの自主活動で自由に使って良いことになっている。
荒木茜は二号教室の前で立ち止まると、開け放たれた扉からひょこっと顔を出して中をのぞく。ペンチングオイルのにおいがする。いた。おっきなカンバスの前に、負けじとおっきな背中。トイチだ。本名をつづめて、そう呼んでいる。
トイチは、もくもくと刷毛で巨大カンバスに色を落としている。
二号教室は、特殊だ。他の一号教室と三号教室はざわざわとしている。しかし、二号教室は制作に没頭する生徒たちの、その指先の少し先から発せられる音しかしない。日中は換気扇のスイッチも切られている。あまりにも静かなので、他人の息遣いが普通に聞こえる。
今年の二号教室でいちばんうるさいのは、自分の呼吸音だと担任は笑った。
それも仕方ないかなと思う。二号教室は、成績以上に実力が求められている。学科の中で一目も二目も置かれているヤツらが集まった教室だからだ。特に示し合わせた訳でないが、自然とそう云う人材が集まった。デザイン学校と云う場所で、目で見て分かる実力のヒエラルキーができ上がるのは普通のことだと茜は思う。むしろ、自分みたいなどこかハンパな気持ちが抜け切れないまま専門学校に入学したヤツが、トイチみたいな人間と普通に友達付き合いしている方が不思議だと、この二年間で幾度も思った。
いま、トイチが描いているのは、扉と目玉、そしていくつかの人体の部位をモチーフとした絵だ。
見る者をどことなく不安にさせるそれらの要素を、さらに追い討ちをかけるかのように暗く沈んだ色調のさまざまな色彩が、画面の中で渦巻いている。真っ白のカンバスから十日も経った頃に見た時は、こわい、と思った。けれども、目が離せなかった。
入学してからこっち、トイチの作品はずっとそんなのばかりだった。
どこかアンバランスなのに、それを指摘する前に圧倒されるような。
厚みが違う、と気付くのにだいぶ時間を要した。トイチの絵は、なにかが塗り込められている。それは、トイチ自身の思いかもしれないし、茜が知らない何かかもしれない。いや、後者だろう。トイチの作品と並べると、ぱっと見た瞬間に分かる。その違いは、言葉で誰かに説明するのは難しい。けれども、茜は分かっていた。言葉に出来ないけれども、分かっていた。
中学、高校とそれなりに絵が好きで、得意であると自負していた茜だが、トイチの絵の前に、そんなものは趣味程度でしかないことを突きつけられ、本物との圧倒的な力量差を感じた。ところが不思議なことに、クラスの他の人間はそれすらも気付かない者が圧倒的に多かった。
デザインの専門学校などと云うところへ進学したのだから、バカがつくほど絵とかグラフィックとかが大好きなヤツばかりだと思っていたのに、嘘でした。
絵の具の種類も知らないようなヤツとか、そんなのは当たり前。提出課題から逃げて逃げて、適当にバイトして楽しく遊び暮らしているヤツまでいる。何の為に入学したのか、自主退学しないのが不思議だ。
とは云え、作品作りも良いけれども、たしかに誘惑はたくさんあった。親元を離れたせいもある。茜はサボったりこそはしなかったが、はっと気付いた時には一年と半分の月日が過ぎており、卒業制作のシーズンになったことを知らされた。それからの時間の進みも加速度的に増し、数ヶ月あった筈の発表までの猶予も、残すところわずかとなる。
茜は、音を立てないように二号教室に入ると、そっとトイチの背中に立った。
トイチの指は刷毛をパートナーに、カンバスの上で大胆に踊っていた。ぷっくりとした肉付きの良い指は、ともすれば豪胆な印象があるのに、その指先が繰り出す刷毛さばきは繊細だった。
思わず、みとれた。
かなわない、そう思うけれども、トイチの描き方を横で見るのは大好きだった。真っ白なカンバスからどんな風に作品が姿を現すのか。何を思いながら、思い描くものをカンバスに写し取るのか。その工程は、見様見真似ながらも茜は自分の作品作りに取り入れている。幾度となく相談に乗ってもらっていたが、理詰めで作業をしているわけでないトイチは、どちらかと云えば説明下手だった。だからこそ、横でトイチの作業を見ている方が何倍も学ぶものがあった。盗めるものは盗め、と担任も云っている。
盗んでどうにかなるなら、苦労しないのだけれども。
トイチが刷毛を置いて作品の出来を確認しているところで、茜は指先で背中をちょちょいとつついた。
「そろそろ上がらない? ご飯食べに行こ」
トイチが振り返る。作業中にメガネをかけていないのはいつもどおり。茜は続けた。「ラッパとリカコも一緒だよ。先に行っちゃったけど」
しかしトイチは、まじまじと茜の顔を見つめる。
「私の顔になんかついてる?」
トイチは視線を絵に戻す。「寝てた?」
「なんで分かるの? もしかしてよだれとか」
茜はあわてて袖で口元を拭った。
トイチは違うよ、と云った。「拭くならティッシュの方がいいと思う」
「え?」
「たぶん、油性」
「油性?」
云って、あ、と思った。茜はバッグの中からピンク色のコンパクトミラーを出して確認。
やられた!
両の頬に、猫みたいなヒゲがぴっぴっと三本、落書きされていた。
「ラッパだ。たぶんリカコも」
「学校に来てたんだ」
「うん」
ラッパは自宅のガレージで作業しているので、今では週に数回、しかも滞在時間も少ない。他にもそう云う生徒がいないわけではないので、担任からはまとめてレッドアニマルと呼ばれている。進捗状況の報告を欠かさなければそれで良い、と云うことらしい。
「でもまぁ、」メガネをかけ、道具を片づけながらトイチ。「かわいいと云えなくもない」
「ならいいや」
茜はパチンとミラーの蓋を閉じた。
トイチは道具を片づけ終えると、描きかけのカンバスを白いシーツで覆った。
※
ふたり並んで校舎を出た。日のとっぷりと暮れた一月の空気は、硬いくらいにキンと冷えていた。
「今夜、雪になるかもしれないってね」
ダッフルコートの前を合わせ、茜は白い息を吐く。トイチは頷いた。茜はケータイでリカコに電話した。
いまどこにいるの?
リカコが答える。ラッパの家の近く。駅前のファミリーレストラン。電車で二十分だよ。
「なんで待っててくれないんだろ」
電車の中、吊り革にぶら下がりながら茜は云った。
隣に立つトイチは静かに答える。「今に始まったことじゃない」
「そうだけどさ」
ラッパもラッパなら、リカコもリカコだ。
「トイチってさ、あとどのくらいで終わるの?」
「うん?」
「卒業制作」
トイチは少し考えて、「いつでも終われる、かな」
「はやっ」
「でも、いつでも終われない」
「え?」
「提出期限が結局のところ、完成なのかなと思う」
「トイチも迷うんだね」
「そうかな」
「完成って云うより、ひと区切りって感じだよね」