⑧
猛暑の波は確実に仙台にも忍び寄っていた。
昨年熱中症患者が続出したので、今年から夏祭りは9月にやることにしたらしい。
「9月じゃちょっと寒いよねえ」
「メイメイ、行くの?浴衣着てく?」
夏祭りのポスターの前で赤堀の彼女の伊坂芽衣に志麻子が聞くと、
「んーどうしよっかなあ。今年はbarrelも出店出して、お酒売るらしいよ。ユキも手伝うんじゃないかな」
「へー!じゃあキヌもかな?」
「どうだろ?ユキは親族だし半分社員みたいなもんだからなー」
私もむしろ手伝うかも、と芽衣が言うので、それも面白そうだなと志麻子は内心思っていたのだが。
「俺?手伝わないよ」
大学が休みの間は毎日昼も夜もバイトを入れている絹川の休憩時間に顔を出すと、絹川はあっさりとそう言った。
「売るものが酒だし、未成年だからユキもどうかな…」
「なんだ、そうなんだ」
「…」
絹川が少し沈黙して、何か言いたそうに志麻子を見る。
「ん?なに?」
「…行く?祭り。一緒に」
何故か少し緊張して言う。
「えっ、でも…」
志麻子がでもと言うと、途端に絹川が顔を暗くした。
「キヌ、祭りなんて衆愚の祭典に足を踏み入れたくないって昔言ってなかった?」
「絶対、言ってないだろ」
barrelのテラス席で、半目になって志麻子を睨む。
「混むから嫌ぐらいは言ったかもだけど。…志麻ちゃんが行くなら、行きたい」
「…じゃあ、行きたい、かな」
「本当?」
「うん」
祭りは大好きだ。
「っし。じゃあ、行こう。…浴衣、着る?」
「浴衣かあ」
高一以来袖を通してない浴衣を思い浮かべた。
「もうあの浴衣ガキっぽいかも…」
「着るなら教えて。俺も着るから」
「えー!」
志麻子は飛び上がった。
「キヌ、浴衣着るの!?」
「志麻ちゃんが着るならね」
「じゃあ着る!絶対着る!」
絹川が引くほどの勢いで宣言した。
したのは良いが…
「やっぱりちょっと子供っぽいんじゃない?」
家で羽織って見ていると、母が言う。
「んー」
「帯も微妙」
「そうかなあ」
でも、絹川の浴衣が見たい。
着る着る詐欺したら怒るかなあ…
などと策謀していると、絹川から着信があった。
「ほいほい」
『志麻ちゃん、ウチ来ない?』
「行く!」
『待て待て』
何が?
『思い切り良すぎだろ。何しに、とか聞けよ』
「え、何するの?」
『…家といっても、実家の方な。母親に聞いたら、若い頃の浴衣があるけど彼女にどうかって。俺も浴衣取りに帰るし、見にこない?』
「え!貸して頂けるの?いいの?」
『おいで』
おいで、だって。
志麻子はベッドにダイブした。
絹川の家は、高校と市街地の丁度間ぐらいの坂の途中にあった。
「こんにちは、はじめまして!洸季くんとお付き合いさせてい頂いております、鯨井志麻子です!本日はお休みのところお邪魔致します!こちら、つまらない物ですがお納め下さいっ」
言い切った志麻子は、手土産を絹川母に渡した。
「あらまあ…。気を遣わせちゃって、ごめんなさい。しっかりしたお嬢さんね。洸季、上がってもらって」
絹川の母親は、絹川によく似た和風の美女だった。
翔人が見たらランキングに革命が起こりそう、と志麻子は密かに思う。見せる予定はないが。
「志麻ちゃん、上がって」
絹川が自分も靴を脱いで言う。
「はい!では、失礼して!」
「何それ志麻ちゃん、緊張してる?」
「あ、ハイ。適度な緊張感があります」
「なんか放っといて良さそう」
絹川が笑って、志麻子の手を引いた。
浴衣は浅葱色に黄色い花の散る、爽やかで清楚な雰囲気の柄だった。
「わあ…!綺麗…!」
「好きでよく買ってたんだけど、碌に着ないで仕舞ってたの。良かったら貰ってね」
「もらっ…え?!いえいえ、あわよくばお借り出来たらと…」
「もう着ないから、良かったら」
押し問答の末、戴くことになってしまった。
「志麻子ちゃんに御礼を言いたかったの」
絹川を「得意のコーヒーでも淹れて」と追い払って、絹川の母が言う。
「え、私にです?」
「そう」
頷いて、
「洸季はもうずっと、私にも父親にも失望していたんだけど…志麻子ちゃんがいるから、あの子仙台に残ってくれたの。そしてね」
と内緒話するように声を潜めた。
「私にこう言ったの。恋に溺れる奴は馬鹿だって、今もそう思うけど、幸せなことだってわかった、って」
「ふう!」
志麻子が真っ赤になって奇声をあげた。
「ふう?」
「な、なんでもないです…。あの、私、何もしてないんです」
「そうかな?…あのね、色恋には汚い部分が沢山あるけれど、眼を見張るように美しい一面が確かにあって、それをあの子が見つけてくれたのが嬉しいの。志麻子ちゃんを好きになったからなの。…それが今日、お会いしてわかったの」
志麻子は真っ赤な顔をして目の前の女性に見惚れた。彼女が何故そんなことを言うのかわからなかったけれど、次兄の翔人の言ってた意味は、今日初めてわかった。
人妻って、推せるー
「それなら私も洸季くんのお母さんに御礼を言わなければ」
自然、そう口が動いた。
「恋は楽しいって、洸季くんが思い出させてくれたんです。お母さん、洸季くんを産んで育ててくださって、ありがとうございます…とても言葉で言い表せられないんです」
「言い表せてると思う…」
洸季の母は驚いたように目を見開いていたが、「えへ」と少女のように笑った。
「やばいですよ。その色香、危険です。仕舞わないと、うちの兄みたいな奴に襲われます」
「色香…?どうやって仕舞うの?」
「洸季くんを見てると、仕舞うよりまず出さないのが最善です」
「ちょっと言ってることがよくわからないけれど」
「ああ、出てる…出ちゃってる…」
「…なんの話してるの」
呆れたように絹川が二人を和室の入り口から見下ろして、
「コーヒー入ったよ」
と呼んだ。
「志麻ちゃんてさ、すーぐ仲良くなるよね」
帰り道、何故か呆れたように絹川が言った。
「洸季くんのお母さん、推せるもん」
「…それいいな」
「ん?」
見ると絹川が、片手で口を押さえていた。
「洸季くん、ってやつ」
「あ」
「洸季くんのお母さん」でワンフレーズにしてしまってたから、つい…。
「名前で呼んで欲しいと思ってた」
「えー!言ってよぅ」
「いや、なんか、そのうちと思って」
絹川が頭を掻いた。
「洸季くん!」
志麻子は呼んでみて、
「うお、はずい…」
自分で思いっきり照れた。練習が必要そう…。
「あー…志麻ちゃんと離れたくない」
バス停に着くと、絹川が呟く。
志麻子と絹川の乗るバスは、ここからだと正反対だ。
「すぐ夏祭りだよ」
ちょっと照れつつ、同じ気持ちの志麻子が慰める。
「一緒に帰りてえな…」
繋いだ手をぎゅっと強く握って、絹川が志麻子を見下ろした。
「…志麻ちゃん、今度、その内…うち来ない?実家じゃなくて、今の俺んち」
「えー!行く!行く行く!行きたい!」
ハイハイ、と手を挙げる。
「あのね」
絹川が予想できてた、という顔で言う。
「俺の家に来るってことはどういうことでしょう?」
「え?どういうことでしょう?」
志麻子が首を捻った。
「お泊まりするってことです」
絹川が断言した。
「お、泊まり」
志麻子が復唱する。
「志麻ちゃんがまんまと家に来てくれたのに、抱かずに帰すほど俺は聖人君子じゃないよ」
「だ!」
ガキンと志麻子が固まる。
今、すごいパワーワードが…。
「…そんな怯えなくても大丈夫」
絹川が苦笑した。
「ちゃんと、待つから。でも多分…うちに来てくれたら、俺、我慢できないからさ。来る時は、いいよって思ったら、来て」
いいよって思ったら…
固まる志麻子に内心気落ちしている絹川は、志麻子がその実、自分の色気のない下着を頭の中で並べて焦っているとは知らずに、バスが来る前に素早くキスをした。
夏祭りの日。
志麻子は待ち合わせ場所にちょっと早く着いて、そわそわと出店の方を見ていた。
「くじら」
声を掛けられる。
白いTシャツの沖田。
「沖田!来てたんだ」
沖田とは、大学でも顔を合わせれば普通に話すが、大学が休みの今は、随分久しぶりな気がした。
「うん、学部の奴らと待ち合わせ。…くじらは、絹川?」
「そう。バイト終わってからだから、もうちょい掛かるかな」
志麻子は巾着からスマホを取り出して時間を見た。
barrelは今日休みだが、祭りの出店の準備で、店で準備だけ手伝うと言っていた。
「ふうん」
沖田が呟いて、そうだ、と思い出したように言う。
「瞬と会ってる?」
と聞いた。
「…会ってない」
瞬とは、高校の卒業以来会ってない。瞬の母親のいるコンビニも、ずっと避けていた。
「今は無理に会わなくてもいいかなって…。会いたくて堪らなくなったら、どっちかが行くと思うよ」
今は瞬に会って、何を言えばいいかよくわからない。「ごめんね」も「でもね」も、もう少し志麻子が大人にならないとうまく言えない気がしていた。
「…そっか。俺は一回、瞬の親に謝りに行ったんだけど…」
瞬の親が落ち着いた五月くらいにね、と沖田が言う。
「そん時に…瞬に、謝られた」
「何を?」
「くじらに、俺を取るなって言っちゃったって。そんなこと言ったらくじらが俺を諦めるの知ってて、言ったって」
「…」
「でもさ…くじらは…絹川を好き、なんだよな?瞬に言われたからとかじゃ、ないんだよな?」
沖田の瞳に、かすかな期待が混じっている。
志麻子は沖田の顔をまっすぐ見て、「うん」と迷わず頷いた。
「私、キヌが好きなんだよ。もし今、瞬とか…誰か大事な友達が、キヌを好きって言ってもね、譲れないと思う」
「…そっか」
沖田が視線を逸らして苦しげに微笑んだ。
「もしも…」
呟いて、言うのを止める。
志麻子も何も聞き返さなかった。
少しの間、夕闇に沈んで行く境内を二人で眺める。
「…そういえばさ」
沖田が不意に、ふっと笑った。
「瞬、大学で友達が出来たらしいよ」
「エッほんと!?」
志麻子は沖田の顔を見上げた。
沖田も嬉しそうに頷く。
「すっごい、自慢げだった」
「えー!すごい!」
「しかも、二人」
「えー!アハハ!すごい!瞬、すごい!」
志麻子はピョンピョン飛び跳ねた。
下駄で、砂利の上で飛び跳ねたもんだから、ぐきっと足首が曲がって転びそうになる。
「危ねっ」
沖田に腕を支えられて助けられた。
「ご、ごめん沖田…」
「離せ沖田」
突然絹川の声が聞こえて来て、志麻子は目を上げた。
消炭色の絣の浴衣を着た絹川が、大股で二人のところにやって来るところだった。
「うわあっ、洸季、浴衣だ!やったー!」
「やったーじゃないよ。来るの早すぎでしょ。まんまと変な男にナンパされて」
「ほお、それは俺のことかな?」
「他に誰かいるか?」
いつものように角突き合わせる。
「くじらー!」
ちょっと離れた所から、志麻子が名前を呼ばれて探すと、今度は志麻子の学部の友達がいた。
「蘭姉ちゃんとタピオカだ!ちょっと行ってくる」
「どういうあだ名だ」
異口同音に二人の男が言った時には、志麻子は友達の所に駆けて行ってしまっていた。
残された二人の男は、無言で志麻子のぴょんぴょん跳ねる背中を見ていたが、
「…浴衣、着たんだな」
沖田が絹川の姿を見て言った。
「親の道楽で、たまたま持ってたから」
「ふーん」
気のない相槌を打って、沖田はまた、友達とはしゃぐ志麻子を眺めた。
「…俺も着てやれば良かった」
「…」
絹川も志麻子を見ていたが、彼女への思慕をはっきりと顔に出す恋敵に視線を移す。
「…そういう問題じゃなかったと思うぞ」
「うっせえわ、お前が言うな!」
「往生際が悪いんだよ」
「早く別れますように」
「神社で祈るんじゃねえ!」
結局喧嘩になる二人を、志麻子が振り返って見て呆れたように笑った。
この日も、花火は碌に見られなかった。
くの一並みに串を指で挟んだ志麻子を絹川が花火の見えない、その代わり人の少ない石段に座らせて休憩したからだ。
「本当に全部買うと思わなかった」
「何の為に来たと思ってるの?」
「…」
絹川が遠い目をする。
「あ、でも浴衣汚さないように気を付けよう」
「うん。…似合ってるね、浴衣。めちゃくちゃ可愛い」
志麻子にしか向けない、蕩けるような微笑みで言う。
「うおっ。あ、ありがとう…洸季もめちゃくちゃカッコイイよ!」
色気も三割り増し…
「気合い入れたからね、今日は」
「お祭りだもんね!」
志麻子が笑顔で言うと、絹川がふっと笑って、「志麻ちゃんと一緒のお祭りだから、だよ」と言った。
「…去年、祭りの日に志麻ちゃんと偶然学校で会っただろ。本当はあの時、志麻ちゃんを祭りに誘おうとしたんだ」
と言い出した。
「…そうなの?」
「誘えなくてさ。…来年は一緒にって、言いたかったけど、それも言えなかった」
「そうなんだ…」
「だから今は、夢の中にいるみたいだ」
「…」
志麻子は不思議な気持ちで絹川を見上げた。
「なに?」
志麻子の視線に気付いて、絹川が志麻子を見た。
「…んーん。いつかさ、聞かせてね。洸季の話」
「俺の話?つまんないよ」
「いいから」
志麻子は言い張った。
「聞きたいの」
そう言うと、絹川はちょっと驚いたように目を見開いて、そのまま端っこだけ杉の木の上から見える花火に目を向けた。
彼女に会ってからずっと胸に住んでいる、パチパチと温かい火花を弾きながら跳ね回るこの気持ちを、どう言葉にしたらいいのだろう、と悩みながら。
誤脱報告いつも本当にありがとうございます。
ブクマ、いいね、評価、励みにさせていただいております。
感想もありがとうございます、全て大事に読ませて頂いております。お返事しなくてすみません。
次回はムーンさんのみの更新になります。